第86話 大魚 

 八月二日のお昼前。

 私――日下部椿が会社のデスクに張り付いていた。

 我ながら驚異的な速度でキーボードを打鍵している最中に隣の水元くんが、

「あの、今ちょっといいすか?」

 とか言ってきやがったのでにべもなく断ってやる。空気読んでよね。

「駄目」

 今いいとこなんだから!

「ホントに、ちょっとだけでいいんで」

「嫌」

 もうちょっとで終わるのよこのタスク!

「そこをなんとか」

「却下」

 いいからちょっと黙ってて!

「なんで全然話聞いてくれないんですか!? 俺何かしました? 今日はまだ何もしてないっすよね?」

 空気読めー! 私はこのどうしようもない同僚をどやしつけた。

「現在進行形で邪魔なの! お昼前でスパートかけてんの! 水元くんも月初だからってぼんやりしてないで仕事しなさいよ!」

「月初はともかく俺は昼前はまったり派です」

 などと口ごたえまでしてきやがる。

 私はついに怒り心頭に発し、

「そんな派閥滅んでしまえ!!」

 と声を荒げてしまった。

 おかげで営業部の無関係な幾人かが身を縮めていた。この辺りの仕事に対するスタンスは――仕事を完遂するという大前提さえ守れるのなら――個人の自由だけれど、水元くんが言うとなんかむかつく。そして、むかつくのも私個人の自由だ、と私は信じている。

 その水元くんはなおも食い下がってくる。

「じゃあ、メシ奢るんで」

「どこ?」

「駅裏のイタリアンのランチで」

 あら。珍しく張り込んで来るじゃないの。いつかのカレー屋かと思ったら。

「コースでなら聞いてあげてもいいわ」

 ここぞとばかりに吹っ掛けてやる。渋るかと思えば、

「はい。じゃあそれでお願いします」

「あら素直」

「背は腹に変えられないと申しますか……」

 はあ、そういうこと。やっぱりね。ま、ロクな用件じゃないとは思ってた。



「で、今日の相談事はなんなわけ?」

 アンティパスト 前 菜 をつつきながら問うと、

「実は今日がルゥさんの誕生日なんすけど、プレゼント何にしたらいいと思います!?」

「知らんがな!」

 思わず全力でツッコミ入れてしまった。

 三十路女にJCへの誕プレを聞くな!

 それに、

「なんでもいいわよあの小娘なら。そこら辺の石ころでもキミからもらったら宝物扱いするわよ」

「そんなバカな」

「そんなバカな子よ。アレは」

 それくらいキミに気持ちが行ってるのよ。

「もうちょいポジティブなアイデアもらえませんか」

  ggrksと言いそうになるのをぐっとこらえた。私えらい。超えらい。

 お代は既にもらっている、というか食べている以上、多少のアドバイスはしてやろうかな、と考えた。プリモピアット第一の皿が来るまでに終わらせてコースを堪能してやる。

「メモ取りなさい。一回しか言わないから」

「ちょっ、まっ」

「待たない。洋服、バッグ、腕時計、アクセサリー、文具」

 一息で羅列する。

「早い早い」

 キミ、会議中並みに集中してなさいよ。大事なお姫様へのプレゼントなんでしょ?

「どれを選んでも小娘の趣味があるから、なんでもってわけにはいかないでしょうけれどね」

「なるほど。で、どれがいいすかね?」

「少しは自分で考えなさいねキミ! キミの気持ちが全然入ってないものものらって、あの小娘が本当に喜ぶと思ってんの? バカじゃないの?」

「さっきその辺の石ころでも喜ぶって言ってたじゃないスか!」

「あれはものの喩えよ。バカなのね、キミ。わかってたけれど再確認できたのは良かったわ」

 あ、パスタ来た。一口食べる。うん、おいしい。バカが視界に居ること以外は最高のランチタイムだ。

「うーん。文具ですかねえ」

「じゃあ、ペンケースとかでいいんじゃない。革製でちょっと高級っぽいやつとか」

「いいすね!」

「使いやすいシャーペンなんかも受験生にはいいと思うわ。特別感か実用性か。どっちも相手のことを考えてあげたらいいんじゃない。はい、アドバイス終わり」

 さあ、楽しいお食事の時間だ。



 セコンドピアット第二の皿を堪能し、ドルチェデザートを楽しんでいるところへ、

「実はあともうひとつありまして」

「何よ」

 いい加減にしてほしい。ノロケみたいな相談は正直しんどい。

「今日、ルゥさんの誕生日パーティをやるんですが」

「はあ。そりゃおめでたい」

 特に頭がおめでたい。

「日下部さんもご出席願えないかな、と」

「は? なんで!?」

 意味がわからない。


「主役と俺の両親のたっての希望でして」とのこと。小娘はまだしも、水元くんのご両親なんて面識すらないんだけど!? 本気で意味がわからない(二回目)。


「え、マジで嫌なんですけど」

 別に今日は用事は無い。

 午後からの動きに寄るけど急ぎの仕事もおそらく入ってはこない。

 でも。

 だけど。

 うーん。

 考えようによってはご両親と顔繫ぎができるチャンスでもあるわけよね、一応。

 超ポジティブに考えれば。

 


「ソレ、何時から?」

「19時っす。参加者子供中心なんで、あんまり遅くはならないす」

「そう。着替えに帰る時間があればよかったんだけど、このままスーツで直行になるけれどいいのかしら? 場所は?」

「こちらです」

 と、即席とは思えない良い紙の招待状を渡してきた。

「個人宅!? ってこの住所! 高級住宅街じゃないのよ! なんで!?」

「自分の実家っす」

 え、水元くんてお坊ちゃん? 富豪の息子だったりしたの?

 逃がした魚は大きすぎたか。いや、まだ逃がしてない全然逃がしてない。わたくし、当人から誘われて一緒にランチする仲ですからぁ!

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