第75話 孤独
タクシーの運転手に辛うじて住所を告げてアパートに辿り着き、這うようにしてボロい階段をのぼり、部屋に帰り着いた時にはもう日が昇りかけていた。
おぼろげに「今日は有給」と言われた記憶がある。
ポケットからスマホを取り出すと、日下部さんから「今日一日寝てなさい。その分明日は
助かった……。
流石に今日は仕事は無理だ。日下部さんスンマセン。
こんなになるまで無茶な飲み方をしたのは大学のときぶりか?
トイレに向かい、胃の中のものを吐き出した。
ついでに色んな汚い
俺は
親父は「冒険家」。
お袋は「写真家」。
どちらもそれなりに有名で、ふたりとも日本中あちこちに出かけていた。そしてやがてそれは日本中から世界中へとその範囲を広げることになり、留守がちどころか家に居る方が珍しいくらいになった。
広い広い豪邸には他に誰もいない。お手伝いさんが定期的に来てくれて、食事の用意と掃除、洗濯をやってくれる。
馬鹿みたいにでかいリビングに何人座れるんだよ、と言いたくなるソファ。
玄関から入らなかったんじゃない、と言われかねないデカいテレビ。
綺麗に片付いた、明るい部屋。
その真ん中で、俺は
たまに、本当にごくたまに、俺は数少ない友人の家に遊びに行ったりもした。
きょうだいがいて、いつも騒々しくて、泣いたり怒ったりしていて、でもどこか楽しそうに見えて、俺はいいなあ、と心底から思った。
思ったが口には出さなかった。出せなかったのだ。
友人たちは俺の家の方こそ羨ましいと口を揃えて言ったものだが、俺にとっては彼らの家の、絶えることのない賑やかさこそが羨望するものだった。そして友人たちが帰ったあと、俺はまたひとりこの家に取り残されるのだった。。
家に帰っても、誰もいない。
それが嫌で嫌でたまらなくなり、夜の街を彷徨したこともあった。
中学に上がったばかりの頃だったろうか。
街にたむろするガラの悪そうなヤンキーに目をつけられて、声をかけられた時点で俺の方から殴りかかったりもした。後になってわかったのだが、相手はひとりで夜の街をうろついている俺のことを心配して声をかけてくれたのだった。
その時。
俺はわけがわからず、泣きながら謝って謝って謝り続けた。
心配なんてことをされたのはいつ以来だったろうか。
その人のささやかな温かさが俺のささくれた気持ちに触れられて困惑してしまったのだろう。きっと。
俺が殴ったのは高校生だった。
周りの仲間に冷やかされながら、その人は腫れた頬にジュース缶を当てつつ「気にすんな。俺は人相悪いからな。よく勘違いされるんだ」と笑っていた。それから俺の髪をくしゃくしゃにかき混ぜた後、「いきなり殴りかかるのはマジで絶対やめろよ。みんながみんな俺みたいに優しいわけじゃねえんだから」と言ってコーラを奢ってくれた。あの時のコーラの味は、今でも覚えている、なんてことはないけど、決して忘れられないものだった。
だから、今でもコーラは好きで時々飲む。
あの高校生のセンパイは名前を教えてくれなかった。俺はゆーめーじんだから関わるとひどいことになる、とか言っていた。
彼は、お前はもっと外に出ろ。夜の街をうろつけ、っていう意味じゃねえぞ。もっと人と関われ。俺は自分じゃ結構顔が広い方だと思ってるけど、そんなんこの街の中だけだからな。お前はきっともっと広いところに行けるよ。
そんなような意味のことを言ってくれた気がする。
その時の俺はとても馬鹿で、どうしようもなくガキで、その言葉は全然理解できなかった。夜の街は危ないから、あんまり近づくものじゃないぞ、程度に受け止めた。殴ってしまったことの詫びとジュースの御礼を言って、その名も知らぬセンパイと別れて家に帰った。誰もいない家に。
トイレで吐きながら今更どうしてこんな昔のことを思い出したのか。
酷い酔い方をしたせいだろうか。
誰もいない、俺しかいない、ひとりだけの部屋に帰ってきたせいだろうか。
そうは言っても大学に入るにあたってあの誰もいない家を出て一人暮らしをはじめた。その時から俺はずっとひとり暮らしだ。
ひとりの部屋でひとりメシを食って寝る。いつものことだ。昔から。もう慣れてる。
はずなのに。
俺はトイレで吐き切ってから、しこたまうがいをして、スーツのまま、寝た。
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