第84話 夏の幻
「僕」の家は狭い。
それなのにきょうだいはすごく多い。
お兄ちゃんがいて、お姉ちゃんがふたりいて、妹がいて、弟がいて、僕を合わせて6人きょうだいだ。
家の中に、夏休みの宿題をする場所なんてどこにもない。どこもうるさいしだれかがいる。だから僕は小学校に上がってからずっと、夏休みとかの長い休みには毎日、市立図書館にかよっている。
図書館は家と違って冷房もついているし、とてもしずかだし、すごくいい感じだ。さわいでいると怒られるなんてサイコーだよね。おかげでさわがしい人はぜんぜんいない。みんな静かに本を読んだり、勉強をしたりしている。
僕の夏休みは、だいたい同じことのくりかえし。
朝起きて、お昼ごはん用におにぎりをふたつ握って、水筒にムギ茶を詰めて、家を出る。図書館についたら昼まで宿題。おにぎりを食べて、好きな本を読んで、それからまた夕方まで宿題。閉館時間になったらしかたないのでそうぞうしい家に帰る。
お父さんもお母さんも働いているし、小さい弟もいるからどこかにみんなで出かけるなんてのはムリだと思う。キャンプとか海とか。クラスのみんながじまんするやつ。
今年も同じだ。うちは何の予定もない。
しかたないと思うし、それでいいとも思う。
いつもと変わらないしずかな図書館。
家のそうぞうしさから逃げ出す僕の、ひみつきちだ。
夏休みの最初の日、
本で読んだことのあるこの表現は、こういう時に使うのだと思った。
日に焼けたような肌、光にキラキラしている切り揃えられた銀色のかみの毛、博物館に展示してある宝石みたいな目。ぜんぜん体がブレないでまっすぐに歩く姿はぞくぞくするくらいキレイだった。
物語から抜け出してきたみたいなその人は、なんと僕と同じで勉強をするために図書館にかよっているようだった。僕と同じように昼まで勉強し、お昼を食べて、午後も勉強、閉館したら帰る。彼女は、女神さまでも物語の主人公でもない、普通の人間だった。ただキレイすぎるだけの。
僕は、そのキレイな人のことが気になってしかたなくなっていた。動きを目で追いかけるようになった。姿が見えないとそわそわした。いつもならすいすいとすすむ勉強があまりできなくなってしまったていたんだ。
七月三十一日。
ぐうぜん、そのキレイな人が、僕のとなりに座わった。
僕は意味がわからないくらいドキドキして死ぬんじゃないかと思った。いつも以上に宿題がすすまない。手がぶるぶるとふるえて、字も書けない。問題に書いてある字がぜんぜん頭に入ってきてくれない。
そんな時だった。
僕に言ったのかどうかはわからない。
けれどもそのキレイな人は「集中を」とすごく小さな声で言った。
はじめて聞いたその声はわけがわからなくなっている僕の耳にすっと入ってきて、ふしぎと落ち着くことができた。
そのあと、そのキレイな人は、自分の手元から目を動かさずに、
「お勉強をさせていただける時間を有意義に。貴方のその時間は貴方自身のもの。けれど、その分、貴方以外の誰かの時間が貴方がここにいることを許してくれているはず」
歌うようなその言葉は僕の心につきささった。僕はもう、その人を見れなくなっていて、真っ赤になってコクコクうなずくだけだった。
隣で、ふ、と笑うのが聞こえたような気がしたけど、僕は机の上の宿題から目をはなすことはしなかった。しちゃいけないと思ったから。
その日、家に帰ると、いつもどおりの景色がそこにはあった。
上のお姉ちゃんが晩ごはんの用意をしていて、下のお姉ちゃんが弟の世話をしていた。妹はひとりで人形遊び。お兄ちゃんはアルバイトからまだ帰っていなかったし、父さんも母さんもまだ仕事から帰っていなかった。
いつもどおりのはずのその景色が、いつもとちがって見えたのはあのキレイな人の言った言葉のせいだろう。僕はその時はじめて、僕以外の家族の時間がどんなふうに使われているのかがわかったんだ。
僕はかばんを置いて、思い付きでおふろそうじをはじめた。
後で、上の姉ちゃんに「アンタ何か悪いもんでも食べたの」とかしんぱいされた。
僕が家の手伝いをするのはそれほどめずらしいことだったから。もしかしたら自分からすすんでやるのははじめてだったかもしれない。
八月に入ると、銀色の髪のあのキレイな人は、ぱたりと姿を消した。
オバケかようせいか何かであったみたいに、すっかり姿を見せなくなった。
夏休みに入って現れた銀色のマボロシは、また来年も姿を見せるだろうか。
来年の僕は、今よりちょっとは変わっているだろうか。
そんなことを考えるのはやめて、僕は集中して今日の分の宿題にとりかかった。
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