第82話 写真


 ドアの鍵を回す音で、うとうとしていた俺は目を覚ました。

 ルゥさんが帰ってきた。

 たったそれだけのことで一遍に目が覚めた。


 中坊の時、遭難して、世話になった集落で、俺は俺を認めることができるようになっていた。少なくともそのつもりだった。

 それがルゥさんとの生活の中で、揺らいでいたんだろう。

 無論それはルゥさんのせいじゃない。


 俺が甘えていたんだ。知らないうちに。


 気付かないほど、自然に、あの頃の孤独感に俺が捕らわれないように、ルゥさんがしてくれていたのだ。だから、ほんの二日間いないだけで、かつて克服できたはずの孤独に怯え、酒に溺れた。いつまでもガキでアホだな、俺は。


「お帰り、ルゥさん。修学旅行、楽しかったかい?」

 今まで横になっていたソファからおかえりを言って、俺は立ち上がった。

「ただいまデス、浩一郎さん。はい、いっぱい楽しかったデス。でも、あの、お仕事はどうされたのデスカ? 体調が悪いのデスカ?」

 部屋に入ってきて心配してくれるルゥさん。

 ええと、すみません。

 君がいないので酒に溺れていました。とは言えないので、

「いや、飲み過ぎで有給取っただけ」

 と答えた。

 嘘ではない。事実でもないが。


 手を伸ばせば届く距離。

 さすがにこの距離だとアルコール臭に気付いたらしいルゥさんは端正な顔を僅かに歪めて、

「お酒の飲み過ぎは体に良くないデス」

「ごもっとも」

 十五も年下の許嫁に窘められる二十九歳児。笑える。


 それにしてもルゥさんがいるといないとで、汚い部屋がこんなにも違う。

 安心? 楽しい? なんだろう? よくわからん。

 ルゥさんがいないとつまらないのは確かだ。やっぱりガキだな俺は。

 あの、馬鹿だったガキが結構大人になったと思ったら、そうでもなかったよな、ということを再認識させてくれたルゥさんには御礼を言っておきたい。みっともないので心の中で。ありがとうございます。


「でも、有給にしといてよかったよ」

「?」

「ルゥさんにちゃんとお帰りを言えたから」


 二日酔いの回らない頭ですら恥ずかしいことを言っているな、と自覚しながら、勢い余ってルゥさんを抱きしめてしまった。やらかした。けど止められなかった。


「お帰りルゥさん。逢いたかったよ」


 オッサンの甘えた声は気持ち悪りい。反省。

 ルゥさんは滅茶苦茶驚いて顔を真っ赤にしている。

「何があったんですか?」

「……ちょっと、今のルゥさんくらいの歳の頃のことを思い出してたんだ」

 しこたま酔ってそんで過去を振りかえって、そんで君を待ってた。

「もし良かったら伺いたいデス。でも、私の修学旅行のお話も聞いてくださいマスカ?」

「俺も、そうしたい」

 


 それから俺たちはゆっくりとお互いの話をした。



 俺の情けない中学時代の話。

 親父に攫われてはじまった冒険と遭難の話。

 そこで感じたこと。救われた気がしたこと。

 ひとりでも大丈夫なつもりだったこと。

 実際そうしてきたこと。

 そのつもりが、ルゥさんがいなくなっただけで当時の嫌な感情に翻弄されたこと。

 俺の話は全部情けない内容だった。


 一方のルゥさんは、就学旅行に行けて良かったという御礼から。深々と頭を下げられて参ってしまった。

 奈良も京都も楽しかったみたいだ。今度は一緒に行きたいです、と照れながら言われた。そうだな、次に行くなら春先か秋口に行くのもいいかもな。高くつくけど、堪能できるだろう。

 ルゥさんのスマホには大量の画像が収まっていた。

 顔を寄せ合って見る。

 奈良京都、というよりは友人やクラスメートのアップや集合写真がやたらめったら多かった。あと被写体がブレまくってて何を撮ったのかわからないヤツとか。中学生テンションだな。

「楽しそうでよかったよ」

 俺は行かなかったからな、修学旅行。そんな写真は無い。


「あ」

 でも写真と言えば。

 俺は机の引き出しから一枚の写真を取り出してきた。

 ルゥさんに見せてあげる。

 写真はとても古いものだった。

 約十五年前の記念写真だ。

 若い頃のウォンおじさんと奥さん、親父、俺が写った写真。あの集落で最後の日に取った記念写真だ。集落の人も大部分が映っている。

 真ん中にいる親父が抱いているのが、おそらく、

「ルゥさんだよね」

「そうです。私のはずです」

 ルゥさんは感慨深く、何度も頷いた。泣きそうだった。堪えてはいたが。

「あの日、あの時の約束があるから、今、浩一郎さんと私は、ここでこうしていられるのですよね」


 しばらくその写真に見入っていたルゥさんは不意に立ち上がり、部屋の隅にある自分の手荷物から写真立てに入った一枚の古い写真を持ち出してきた。珍しく意地悪な笑みとともに俺に見せてくれた。

「げ」

 丈のちょっと合っていない、黒の制服姿の、仏頂面をした男子中学生が、そこに写っていた。俺だ。クソガキだった頃の俺。


「集落でのお写真とはずいぶん違うお顔をなさっていますね」

 苦笑、するしかない。

「そうだね。あの場所で少しだけ変われた。そして君に逢えた。だからこうして今がある」

 縁が繋がっていた。

 切れることなく、ギリギリで繋がっていた。この縁は大事にしたい。ずっと。

「これからもよろしく」

「はい。こちらこそ、末永くよろしくお願いいたします」

 末永く、ときたか。

 そうだな。そうなるよな。

 俺もそろそろちゃんとしないと。

 いつまでもズルい大人でいるわけにはいかない。

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