天の使い
1 聖夜にはまだ早い
「失敗した」
と、白いコートの青年がつぶやいた。
彼は飾り付けが始まったばかりの、街の時計塔を見上げている。周りを行き交う人に先ほどの言葉が聞こえたら、装飾の出来が何かまずいのかと思ってしまうかもしれない。
深刻な声音でひとりごとをつぶやいた青年は、白いコートの内側から手帳を取り出した。
手帳の表紙も、白。革の表面に金文字で『クシロ』と入っている。これが彼の苗字で、仕事の時の呼び名でもあった。
「困ったな」
クシロはもう一度、時計塔を見上げる。
やはり飾り付けに問題があったのだろうか。塔の下の方だけに、明かりが消えた電飾がいくつか下がっている壁を見つめて、またひとりごとが始まった。
「早かった。そりゃそうだよな。準備しないとクリスマスだって、ただの日か……」
十二月は始まったばかり。クシロは仕事の予定がぎっしりと書き込まれた手帳を閉じて、コートの内ポケットに仕舞った。
手帳に記された予定では、着いたばかりのこの街に長居は出来ない。夕方には別の街に飛んで、そこから急行に乗るのだ。
この街に来ることにして出張の日程をやり繰りしたのは、クシロだった。
『クリスマスを盛大に祝う街を視察して来てくれ』
そうクシロに命じたのは彼の上司だが、行き先については、すでに候補が五つは上がっていた。正月までに戻るには、それで充分すぎるぐらいだ。
しかし、どうしてもクシロは、この街に来てみたかった。絶対に訪れなくてはと思ってしまった理由が、彼の住む街にあったからだ。
出張でなくては滅多に遠出できないクシロが暮らす街には、時計塔を備えた立派な建物がある。
そのお手本だとうわさされている、この街の時計塔を見る機会は、今日を逃せば定年退職する日まで来そうにない。
それで、この街もクリスマスで有名だからと、過密すぎる日程を心配する課長を説き伏せて、クシロはこの時計塔を最初の目的地に決めたのだった。
「ま、結果、良かったんだよな。普段の様子に近いわけだし……」
うわさは、あくまで、うわさ。
市庁舎でもある彼の街の時計塔とはまったくの別物、こちらはかなり様子が違う。時計塔だけが広場の中央で、すっくと建って、街を見下ろしているのだ。
それでもこうしてクシロがしばし仰ぎ見ていたくなるような重厚な雰囲気が、この古い時計塔にはあった。
クリスマスにはどうなるのだろうと、クシロは想像をめぐらせた。
聖夜には広場の真ん中で、時計塔が特大のクリスマスツリーか、ろうそくみたいに輝いたりするのだろうか。広場を囲む建物の古風さも相まって、雪景色を引き立てそうだ。
クシロがさらに顔を上げ、文字盤を見ようとした時だ。白いコートのすそを引っぱる者がいた。
「こんにちは」
なごやかなあいさつと無邪気な気の引き方に、思わず振り返ったクシロの前にいたのは、おばあさん。ただそう呼ぶには抵抗があるような、艶やかな頬と栗色の髪をした上品な人だった。
おばあさんが上品ににっこり笑うと、クシロは我に返った。
「何でしょう? 道なら自分じゃ、お役に立てませんが」
言ってから、はっとして、クシロは足元を確かめる。
茶色の旅行鞄は、ちゃんと足の側にある。この街に少し失礼なことを思った不用心な自分を、クシロは恥ずかしくなった。
おばあさんはクシロの戸惑った顔に、もう一度優しく微笑みかける。そして急に真剣な目をすると、それでもとても穏やかな声で言った。
「お兄さん、天使さまね?」と。
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