二.入水
二.入水
「呪詛――呪詛――呪詛――。河童、金玉、放屁、嘔吐、呪呪呪呪鬱鬱鬱鬱斧斧斧斧死死死死」
高貴な兄は部屋に閉じこもっていた。今日家に来るはずだった高貴な妹には急に用事ができたとメールをした。妹は非常に残念がった。お兄様の都合が悪いのならしかたないわよね。また会えるわよね。
彼はこのような無様な魚の姿になってはもはやどこにも行くことはできないと感じ、頭まで布団をかぶり、絶え間ない嗚咽と悪寒に震えていた。
「妹に会えない。会いたいのに会えない。おれはどうすればいいんだ」
彼は高貴な妹のことを悶々と考え、精神がにっちもさっちもいかなくなるとその後布団のなかで一人自涜をした。仰向けになったまま部屋の天井まで届くような精を放つと、ぐったりとした高貴な兄は目をひん剥きまるで釣り上げられた魚のような状態になった。
そして一日がたち、二日が過ぎ去った。高貴な妹からメールが来ていたが、彼はそれに返事をしなかった。そのうちメールも見なくなった。
高貴な兄は何もせずに布団のなかにうずくまっていた。ただただ人間の雌相手に射精することを夢想し、自涜を繰り返した。そうして排卵相手のなきまま魚の精液を垂れ流すことしかできず、高貴な兄はひたすらに無益な日々を過ごしたのだった。
だが彼はある日勇気を振り絞り、外に出ることにした。どうしてそうしたのだろう、ただ退屈になっただけかもしれない。深い理由などないのである。だがやはりというべきか、街を歩くと高貴な兄は様々な人々からじろじろと見られた。それこそ魚のような目で見られた。彼はこのまま海に還ってしまおうかと考えた。
何もせずにこのまま朽ち果てられるものか。高貴な兄は自分をこのような姿にした原因である、例の店の前まで行ってみたのだった。だがそこには次のような看板が立てられていた。
魚の男の入店を禁ず
――店長
「駄目だ、ここに入ることはできない、どうしても入ることはできない! おれはあいつらを殺してやりたいのに! でも駄目だ、無理だ、うわああああああ」
そして高貴な兄はせめてもの腹いせにその場に小便をした。だが彼は運悪く巡回中の警官にその場を見つかったのである。
「こらっ貴様、そこで何をしている!」
「あ、いや、これは、ちょっと訳があって……」
「怪しいやつだ。ちょっと署まで来てもらおう」
こうして高貴な兄は手錠を架けられ警官に連行された。
高貴な兄は警察署で取調べを受けた。物は盗んでないか、下着泥棒はやっていないか、等々。それから話は現代の刑法や政治にまで及び、やっと開放されたのは夜の八時近くだった。
高貴な兄は途方もない疲れを感じていた。もう家に帰るのも嫌だ。彼は大変な空腹をも感じていたため、途中レストランの明かりが見えるとそこに入った。死ぬ前の最期の晩餐にしようと考えたのだった。
その店は高級レストランで、今は多くの人がディナーの席に着いていた。高貴な兄が店に入ると彼は店にいた全員の視線を受けたが、特に店員に咎められはしなかった。彼は広間の中央の丸テーブルへと案内された。
高貴な兄はメニューを見るとこの際どうせなら一番高い料理を注文してやろうと、数字の0が無数に並んでいる料理を頼むことにした。
「これを十品ほど。あとワインは最高級のロマネ・コンティで」
さて彼の座っている隣の席には小さい女の子とその父母という家族の者たちが来ていた。そのとき父親は娘のことをこっぴどく叱り付けていたのである。それは主に料理のマナーに関することだったが、話を聞いていると高貴な兄の怒りは頂点に達し、次第に我慢がならなくなってきていた。彼はおもむろに椅子から立ち上がると隣のテーブルへと赴き、そして女の子の父親の前に立ちはだかったのである。
「なんだね、君は」父親は高貴な兄を見上げた。
高貴な兄は魚の口を大きく開いた。そしてその者たちを食べはしなかったが、口の中に指を入れ自らゲロを吐き女の子の父親と母親にゲロを頭から浴びせかけたのだった。
「なにをするんだ! 貴様!」父親が叫んだ。
「ああ、わたしの体がゲロまみれになってしまった!」女の子の母親が言った。
あたりは騒然とし、レストランは阿鼻叫喚の場と化した。高貴な兄はテーブルに乗った料理を蹴散らすとその上に立ち、その場にいる人々に高らかに言い放った。
「見ろ、この者たちの姿を! ゲロにまみれたこの者たちを見ろ! そしてこのおれの姿を見ろ! 我が身を犠牲にして彼らを罰してやったのだ! 下賤の者ども、この私に感謝するがいい! はーはっはっはっは、はーはっはっはっは、はーはっはっはっは」
高らかに笑う高貴な兄の目に女の子の姿が映った。その女の子は困惑とも怯えともつかなかいまなざしで高貴な兄のことを見つめていた。
「おれを、おれをそんな目で見ないでくれ。うわあああああああああ」
高貴な兄は店から飛び出していった。そして彼はどこへ行くともなく走った。彼にはもはや失意の念もなかった。ただ死への意志のみがあった。高貴な兄は一直線に海辺へと向かい、砂浜へと赴き、高貴な兄は海に静かに入水していった。
高貴な兄は海の上に漂っていた。彼は大きな安らぎを感じた。これでなにもかも終わるのだ。魚の頭部になったばかりの彼はまだ実際の魚のようにエラ呼吸を上手く行うことができず、このまま身を沈むにまかせた。彼は自らを漂う夢のように感じた。そうして海の底深くに沈んだ彼は、だんだんと意識が遠のいていった。
良く晴れた朝だった。海を渡る漁船は沖合漁業の航行中であり、その船が引き上げた網には一匹とりわけ巨大な魚がかかっていたのである。なんと高貴な兄は他の魚とともに漁師の網にかかっていたのだった。
漁師たちは高貴な兄を見るなり言った。
「なんだこりゃ」
「人魚だ! 人魚が釣れたんだ!」
「いや人魚じゃない。魚の頭をした人間だ!」
「なんか動いているぞ」
「うっ、気持ち悪い」
「気持ち悪くて吐きそうだ」
「おえーっ」
そして皆はめいめい海や甲板の上に吐いた。そうこうしているうちに漁船は港にまで着き、高貴な兄は地上へと引き戻されたのだった。彼は周囲の人々が見守るなか、歩いてその場を立ち去ったのだった。
彼は家に帰った。
高貴な兄は何も考えることができなかった。彼はただベッドへと向かった。そして眠りこもうとしたところ、玄関の呼び鈴が鳴った。ドアを叩く音が聞こえ、扉の向こうから声がした。それは他でもない高貴な妹だった。
「お兄様? お兄様? 一体どうしたの? いるの、いないの? あなたの高貴な妹です。お兄様の純潔な妹です。お兄様のためにラング・ド・シャクッキーを作ったのよ。ここを開けて、どうか、お兄様。わたしのことはもう好きじゃないの? 愛していないの? どうか答えて、お願い……」
そのように振り絞るような妹の声が聞こえた。
妹の声を聞いた高貴な兄はいてもたってもいられなくなった。どうしてこのままでいられようか。どうしてこのまま黙っていられようか。おれは卑劣だ。妹の声を聞いて会わずにいること以上に卑劣なことがあり得ようか。
高貴な兄は立ち上がり、玄関のドアをゆっくりと開けた。高貴な妹はドアの前に立っていた。彼女は高貴な兄の姿に気づいた。
「おにい……さま……?」
高貴な兄は答えた。
「高貴な妹よ、私だ。おまえのお兄様だ」
「本当に、本当にお兄様なの?」
高貴な兄はうなずいた。
「お兄様が魚に変わってしまった! わたしの大事なお兄様が! わたしの愛するお兄様が! ああ、お兄様! お兄様! お兄様! お兄様!」
そして高貴な妹はさめざめと泣いた。
「妹よ、泣かないでおくれ。私はお前が来てくれただけでも嬉しいのだよ」
「ごめんなさい。ただ少しびっくりして……ううん、いいの。またこうやってお兄様に会えたんだから。
そうね。本当につらいのはお兄様だものね。ごめんなさい、わたし、お兄様のことを疑ったりして……でもどうしてこんなことになってしまったの? よければわけを話して聞かせて」
高貴な兄は事の顛末を話して聞かせた。
「そう、そんなことがあったのね。でもまたすぐにもとの姿に戻る方法が見つかるわ。ううん、お兄様は悪くないわ。とりあえず二人でラング・ド・シャクッキーを食べましょ」
二人はテーブルの前に腰かけた。
「私の姿が怖くないのか、高貴な妹よ」
「怖くないわ。そりゃちょっとは不気味だけれど、お兄様だと思えば、平気」高貴な妹はにこやかに微笑んだ。
「ああありがとう、高貴な妹よ。お前がいなければどうなっていたことか」
そうして彼は魚の目で泣いたが、当然嬉しくて泣いたのだった。高貴な妹はそのように泣く兄のことを優しい表情で見つめていたが、ふと思いついて言った。
「ところでお兄様、その姿で上手にクッキーが食べられるかしら。わたしが食べさせてあげる。あーんして」
高貴な妹が椅子の上に立つと高貴な兄は天井に向けて大きく口を開けた。高貴な妹は高いところからクッキーを落とした。ラング・ド・シャクッキーは見事に高貴な兄の口の中に落ち、魚の口内でサクリと音をたてるのだった。
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