高貴な兄と高貴な妹の物語
onrie
一.変身
この日、最も晴れがましく、最も朗らかで、どこかで小鳥が歌い、通りの木々から木漏れ日の差すある五月二十三日、高貴な兄はひどい憂鬱に取り憑かれながら道を歩いていた。彼は世界で最も高貴な兄であり、また世界で最も高貴な王にもなれる人間であったが、妹のためにそうしなかったのである。その彼の憂鬱の原因は今日一日一緒に出かけるはずだった高貴な妹が、急に来ることが出来なくなったためだった。朝七時にメールがあった。
愛するお兄様
お兄様、ごめんなさい。わたしの飼っている亀がどこかに逃げ出してしまったの。だから亀の甲羅が干からびてしまう前に探さなくてはならないの。ごめんなさい、本当にごめんなさい。明日は必ずあなたのもとに行きます。
あなたの高貴な妹より
心優しい彼は決して妹のことを恨んだりはせず、かえって彼女の優しい心遣いに感激していた次第であったが、そんな彼もその日の憂鬱の発作からは逃れることができなかった。
「憂鬱だ――妹がいない――憂鬱だ――死んでしまいたい――憂鬱だ――妹なくして今日一日をどう過ごせというのか――憂鬱だ――彼女なくしてどう生きていけというのか――憂鬱だ――憂鬱だ――憂鬱だ――」
彼は高貴な兄であったが、今は普通の兄になってしまっていた。このような憂鬱に取り付かれるとき人は誰でも、高貴であるところの人間から転落してしまうのである。
彼は妹の飼っていた亀に思いを巡らせた。妹の飼っていた亀はもうずっと昔のこと、町のお祭りに二人で出かけたときに縁日の店で買ったものだった。いや、買ったのではない、釣ったのだ。そのとき露店の店では、亀の釣り放題をやっていたのだった。 そのとおり釣り放題の店だったのだが、結局妹が釣ることができたのはそのなかのたった一匹だけだった。だが妹はそれで満足していたようだった。妹が七歳のときのことだった。名前がついていた。もちろん最初から亀に名前がついていたわけではなく、妹がつけたのだ。たしかファイティングポーズという名前だった。由来は知らない。聞いたことがあったのかもしれないが、すでに忘れている。妹の大事な亀の名の由来を忘れるなんて! だが思い返してみれば、今まで亀の名前の由来などに一度も関心をもったことはなかったことに気づいた。
それにしても、である。亀は妹の家の安寧たる寝床にいて、何も逃走する理由などなかったはずである。毎日同じ時間に与えられる餌、適切に管理された水槽、亀にとってこれほどに心地よい環境、これほどの天国があろうか。そのため高貴な兄は亀が妹の家から逃げた理由について思い巡らせないわけにはいかなかった。
「亀よ――何故逃げたのか――何かつらいことでもあったのか――逃げ出したくなるくらいに憂鬱だったのか――憂鬱だ――憂鬱だ――」
さてそのように憂鬱の疫病神に憑かれながら通りを歩いていると、木々の合間から突然レストランが姿を現した。通りに面したテラスのある、瀟洒な感じのするイタリアン・レストランだった。こんなところにレストランなどあっただろうか? まあいい、とにかくおれは憂鬱なのだ。憂鬱のついでに入ってやろう。彼はそう決心し、建物のドアを開けた。
「いらっしゃいませ。お一人様でしょうか?」小柄な娘が彼を出迎えた。
「一人だ。おれの後ろに妹の姿でも見えるのか」
店員の娘は不審に思った。高貴な兄は普段は心優しい人間であったが、今日ばかりは少々虫の居所が悪かったのである。
店員の娘は気を取り直して尋ねた。「お煙草はお吸いになられますでしょうか?」
「いや、吸わない。いや、やっぱり吸う。いや、やっぱり吸わないが喫煙席にしてくれ」
店員の娘は怯えた。高貴な兄は普段煙草は吸わず、なにしろ高貴な妹の前で煙草を吸って吐くなどは犯罪行為であり、終身刑も同然であったが、今日ばかりは虫の居所が悪く、それゆえ普段とは反対に喫煙席を希望したのである。
彼は結局自らが所望した喫煙席に案内されたが、娘の後ろについて歩いていくにつれ憤怒と猜疑の念が沸き起こってきていた。彼はまるで冥界のトンネルをくぐって地獄に赴くところのように思った。そこは通りに面した日の当たる席ではなく、窓のない奥の小暗い場所なのだった。まるで地獄の監獄へと連行されたような気がした。一番奥まで行くと娘は言った。「こちらの席でお願いします」
高貴な兄を案内した娘は去った。だが高貴な兄はしばらくその場に立ちつくしていた。おれはなんという場所に来てしまったのか!
ここにいる連中は何なのか! 七人、八人、いや十人くらいはいるのではないか。彼は常々集団や集団行動を危険なこととみなし、三人以上で行動することは破廉恥で邪悪なことと考えていた。
「邪悪だ――邪悪だ――邪悪だ――関係は邪悪だ――奸計は邪悪だ――悪徳だ――悪徳以上のものだ――梅毒だ――梅毒にも等しいものだ――」
そしてこの煙は何なのか! もうもうと立ち込める悪質な臭気、目や鼻や呼吸器官を傷める毒気を含んだ醜悪さ、何故彼らはこのような所で生きていられるのか。それはもはや地獄の煙であった。地獄の釜茹でが公然と行われているのも同然であった。高貴な兄はもはや窒息せんばかりに感じ、すぐさまこの場を離れるべきだと感じた。
だがそれでも高貴な兄は何とか理性的になろうとしてその場に座った。そうしてメニューを開いたが、メニューに書かれた料理はおおよそ次のようなものであった。
アザミとサラミのポトフ
膾の酢の物
若鶏のスープ
ツナと大根おろしの和風スパゲッティー
さて高貴な兄がメニューを睨み付け食べるべき料理について呻吟しているうちに隣の客たちは再び店員の娘を呼びつけていたのだが、彼らは「納豆は単品で頼めますか」「ライスのお変わりは無料ですか」などの馬鹿げた質問を延々繰り返し店員の娘の方も「それですからこれとこれは……」と一生懸命説明しているのだがそれでも彼らの方はさっぱり理解できずまたしても無意味で破廉恥な質問が際限なく繰り出されるのだった。彼らはレストランのメニューすら満足に読むことができないのだ! 何というお気楽さ、何という怠慢であろうか。このようなことが現世では堂々と行われているのだ。そのように高貴な兄は嘆じた。さらに悪いことにはそのとき店内に流れている音楽は店長の趣味でイタリアの歌唱曲でもイタリアのオペラでもなく、ワーグナーなのであった。有名な愛の二重奏が愛の官能を高らかに歌い上げ、それが毒悪の臭気や隣人の喧騒と交じり合い、高貴な兄はこの場の状況にいよいよ我慢がならなくなっていたのだった。
高貴な兄は呼び出しベルを殴るように叩きつけた。しばらくして店員の娘がやってきた。娘は高貴な兄を見ると嫌な予感を感じたが実に懸命で賢い娘は決してそれを顔に出したりはしなかった。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「魚だ」
「え?」
「魚を出せと言っているんだ」
「当店には魚料理はございませんが……」
「なんだと! じゃあこの煙はなんだ! どこかで魚を焼いているに違いない! それじゃあ店長を呼ぶんだ、店長を!」
アルバイト勤続三年の彼女は今や最悪の客が目の前にいることを理解し、素直に高貴な兄の言うことに従うことにした。
高貴な兄はその場に仁王立ちをして待っていた。しばらくすると店長がやってきた。店長は実に凄みのある容貌をしていた。体重はおよそ二百キロはあろうかという巨漢であり、黒いスーツを着て、片目に黒い眼帯をした頭の禿げ上がった男だった。その姿に高貴な兄は少々怖気づいたが、それでも決然として言い放った。
「隠しても無駄だ。魚を出すんだ」
そう言うと店長の右目がきらりと光った。この男は左目の方に眼帯をしていたのである。
「本当にいいんだな」
そのように簡単に言われたことで高貴な兄は少々ひるんでしまい、何か裏があるのだろうかと考えた。だが彼は高貴な兄であり、高貴な者は何事にもめげずに進んでいくのである。
「もちろんいいとも。早くするんだ」
店長は不敵な笑みを浮かべた。「ようし、例のものを作らせろ」店長は大きな声で厨房に向かって言うと指示を出した。
店長が席を離れていってしまうと高貴な兄はこれでよかったのかと考えた。だが彼は高貴な兄であり、高貴な者は少々のことで怖気づいたりはしないのである。例のもの、だって? ふん、蝮でも何でも出すがいい。
数十分後、料理が大仰にも台車に乗せられて運ばれてきた。そしてあとから店長もついてやって来た。高貴な兄の注文した料理は、台車の皿の上に実にでかでかと、堂々と乗せられていたのだった。
それは一個の邪悪であった。目をそらさずにはいられないものであった。怖気を震うしかないものであった。いまだ見たことのない地獄の贓物であり、地獄の酒の肴であり、普通の魚の何十倍もの臭気を漂わせているものであった。見ただけで思わず吐気を催さずにはいられないものであった。そのようなものが高貴な兄の前に差し出されたのであった。
高貴な兄はこの魚を見たとたん激しく仰け反った。そして自分が試されているのだと感じた。彼は今、試練の場にいるのである。
店長は言った。「お望みどおりのものをお持ちした。どうぞごゆるりと召し上がってくれたまえ」
店長は笑った。高らかに笑った。それは悪魔の笑い声だった。
高貴な兄は虚脱感を感じた。これは罠だ。おれは罠にかかってしまったのだ。何とかしてこの状況から脱しなければならない。彼は自らの心に矛先を向け、心底から怒りの感情を汲み上げた。そしてその激情をぶちまけ、行動に移したのだった。
「こんなものが食えるか!」
高貴な兄は魚の乗った皿を思いっきり跳ね除けた。皿は床に落ち真っ二つに割れ、魚の料理は砕け汚物が床に飛び散った。
それを見た店長の顔は見る見るうちに上気していった。顔が赤らみ、口は割け、そしてついに悪魔の人相をあらわにした。
「よくもやったな、よくもやったな、お前は未来永劫、呪われるがいい!」
店長は目をつぶり、何事かを呟き始めた。それは怪しい呪文の文句であった。その音程は低音を響かせ地の底が揺れるようにあたりに轟いた。店長の手のひらに輝く赤色の玉が作られ、そしてそれは高貴な兄めがけて発せられた。
「うっ」高貴な兄はその玉を胸に受け、胸の底まで抉られたように感じた。それは一瞬の出来事であったが、そのときに感じた吐気、むかつきは他のどんなものにも比べられるものがなかった。
「はーはっはっは。はーはっはっは。はーはっはっは」
店長は笑った。おぞましいまでに笑った。あたりは騒然となり、周囲の人間は一体何事が起こったのかと高貴な兄と店長に目を向けた。そして高貴な兄はつまみ出され、ついに店から追い出されたのだった。
彼は家に向かって歩いていた。もはや憂鬱であったことも忘れ、自らの中に途轍もない邪悪を蓄えていた。
「糞、糞、糞店長、糞店員、糞な連中だ」
そうして人通りの多い街まできたとき、高貴な兄は人々が自分に注意を向けていることがわかった。わざわざ振り向いてまで高貴な兄を見る者もいる。彼は憤った。おれの顔に何が付いているっていうんだ。どいつもこいつもだ。
そうして街の中を歩き、とあるショーウィンドウの前でふと立ち止った。そしてガラスの前に映った姿を見た。その姿を高貴な兄は信じることが出来なかった。
高貴な兄の姿は魚に変わってしまっていた!
彼の頭は魚の頭になっていた。なんと、なんということだ! これがおれの姿なのか! 一体どうしちまったんだ。どうなっているんだ。あのときだ。あの店長と争ったときだ。おれは呪いをかけられたのか。本当にあの店長に呪いをかけられたのか。おおおおおおおおおおおおおお。
高貴な兄はその場にうずくまり、嗚咽した。そののちに強烈な眩暈を感じた。彼は地面を転がり、壁に頭を打ち付けた。もはやその場に立っていることはできなかった。彼は周囲のものに掴まり、しばらくして何とか立ち上がるとかろうじてその場に留まっていた。そしてもう妹に会えないことがわかり、激しく泣いた。魚の目で泣いた。それでも涙は出るのだった。
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