第2話


 どうでもいいことですが、今世での戸籍上の名前は田森沙織たもりさおりと言います。


 あまり特徴のない名前だと思いますが、愛称などを付けるには悪くない名前なんじゃないかとは思います。


 誰ともそういう愛称で呼んだり呼ばれたりする関係になりそうではありませんけどね。


 最近は自分の名前ながらも使う場所がなさすぎて忘れそうになります。


 嘘です、別に忘れたりはしません。


 しかしながら忘れてしまったところで痛くも痒くもないのは笑えばいいところなんでしょうか。


 うちの田森家はもう滅びてしまったのです。父親には男兄弟がなく、婿入りなんてできるような家柄でもないものでして。


 DVの始まりだったくそみたいなお爺さんは生きてはいますけどお婆さん癌で死んでいないので、私が知らないところで年下の叔母や叔父が生まれることはないでしょう。多分。メイビー。


 そういうことなので後で適当な苗字でも付けておきたいところです。


 そこら辺に転がってるおっさんを捕まえてから、お父さんになってくれないと殺しちゃうぞ? と脅してあげたら一発で落とせるんじゃないでしょうか。


 別にこの歳で性行為がしたいわけではありません。


 恋愛くらいはやってみたいですけど、精神年齢の問題もありますし、誰かに好かれそうな気がしません。


 どのような事情があるにせよ、親殺しは重罪です。超能力で殺したのが証明できそうにありませんが。


 罪は人間社会の基準のものでそうであって、私にとっては道端の小石を蹴り飛ばした程度のものでしかありません。


 小石を蹴飛ばしたら足の指が痛いです。泣いてしまいます。親がなくなって、一人になってしまったのです。小さなアパートでも生活感があって、母は私を滅多に抱きしめてはくれませんでしたが、まだ彼女の乳の味を憶えております。


 つまりあれは人間という名の餌に過ぎなかったということなんですよね。


 いや、だからその暖かさと柔らかさは捨てるには辛いものと言えないことはないでしょう。


 そうかな?


 どうだったんでしょう?


 まあ、私がわざわざ使おうとしなかったら法廷が私の超能力を証明する方法はありませんよね。


 そもそも死体は文字通りバラバラになって、指先以下の大きさを持つ体の破片しか残ってないはずです。まだ虫やネズミなのに食べられてないなら、なんですけど。


 話を戻しましょう。


 一応私は前世での通り名と言うか、あだ名はありますけど、今それで呼ばれたくはありません。


 もう彼女は死んでしまったのです。今ここで生きてるのは私こと田森沙織なのです。


 今は謎の美少女サイコパスXとでも言っておきます。


 突然ですが、自らの意志で人を殺す行為には社会学的にも必ずしもそうすることしかできない必然性があるというのが私の持論です。


 つまり個人的な、脳科学的な、心理学的な部分だけでは説明できない集団の中での個人としての面があるということです。


 私が初めて人を殺したのは、殺人と言う名の罪を犯したのは小学校4年生の時でした。


 相手は同い年の男子生徒で、私は彼にスカートを捲られました。


 その時の私は何の前触れもなく殺意が湧きあがってくることを感じました。誰もそこまではしないのです。


 普通の女の子なら逃げるか、対抗するにせよいわゆる女子のやり方で男子を追い詰めたり、担任に報告したり、親に話すことで問題を解決しようとするでしょう。


 しかし私にその選択肢は最初からまるで眼中になかったのです。


 親はもう死んでいなかったし、孤児だったことがすぐにばれてしまってからは誰とも友達にはなれなかったのです。


 別に彼らが私をいじめたわけではありません。


 その時代はそんなに中流家庭が当たり前だったわけではなかったもので、むしろ優しくされることはあっても小学生がいじめられることは滅多にありませんでした。


 ただ私は彼らに自分とは違う何かとして見られるのが耐えられなかった。


 だから積極的に一人でいることを選んだのです。


 人が異質な行動を取るにあたって壮大な要因が必要なわけではありません。起きてしまうことは起きてしまいます。


 人がおかしくなるまで、何の問題もない一般人から殺人鬼になるには別に物語の中でだけ言われるような、壮絶な人生が必要なわけではないのです。


 そういうモチベーションが必要だと思うのは、物事を自らの尺度で判断しながらも、それが社会の通念に基づいていることに過ぎないと言うことを全く考慮してない、言うなれば自ら作った檻の中で自らを閉じ込めている人間と言うなの獣が簡単に手を出せるような安っぽい発想と言えるでしょう。


 反社会的な行為、犯罪行為を行う人たちに一つだけ共通点があるとするなら、それは社会的な存在となるためのコミュニケーションがある時を境目に完全に失敗してしまうというとことです。


 例えば悲鳴を上げたら殴られる。泣いたら無視される。そういう経験が少しずつ積み重なることだけが重要と言えます。


 逆に一回でも誰かがその積み重なったマイナス方向で作用する精神エネルギーが止まるように手を差し出せばそうなることはないということになります。


 つまり例外なく社会とのコミュニケーションが失敗し続ける状況が繰り返されてしまえば、そこには怪物が現れる状況が成立してしまうのです。


 我々の社会は人が人であるために必要なことを提供し、同時に人を人として成立するには何を自らなさねばならないのかを提示し続けなきゃいけません。


 多くの人々が忘れてしまいそうな話ですが、それがまともに機能しないと、個人がすべてを決める立場であり続けるしかない現代社会なら、人間は簡単に無責任な集団行動に走るようになります。


 民主主義を手段とし、扇動する体表者を立てて、暴走を繰り返した結果、戦争にまで発展したのはそんなに昔の話でもありません。


 別にそれがどうした、という話ではありますが、要はその経験が無意識の根底にある限り社会は自らの中に入ることのできない、はみ出しすぎた個人を量産することだけはやってはいけないことであることを前提としているということです。


 不思議なことにそんな前提があるからこそ、非行に走る人間に対する許容範囲は広がるばかりで、何が正しいか正しくないのかすらも話せなくなったのではないかと思ってしまいます。


 結局のところ、何かが社会でルールとして決まってしまえばそのアンチテーゼもまた現れるようになってしまうのでしょう。


 和の精神と言えばそれまでかもしれませんが。


 しかし例外的な人間は必ず現れます。


 遺伝子的に組み込まれている何かなのかもしれませんし、脳の構造が違うのが原因なのかもしれません。


 ただ、それがどういった生物学的な特徴があったにせよ、それはトリガーを持つ銃と同じで、発射されなければ誰も殺したりはしなかったかもしれません。


 そこにあるのはただ悲惨なだけの幼年期ではありません。


 異質な成長が行われた神と悪魔が作った実験場に過ぎないのです。


 それもどこにでもありそうな話がちょっと重なり合っただけで、怪物が生まれる可能性が現れます。


 親の不在はどこにでもありますが、親が不在していても親が子に何かを言うことがあるかどうか。


 子供に言った話の内容はどういうものなのか。


 それが子供から親を信頼できなくする話ならどのような話であっても、原因になってしまいます。


 殺人を犯す人間にとって徐々に積み重なってしまうのは、社会、大人との信頼ある繋がりを無くしてしまうことです。


 国家は個人から暴力を取り上げ、殺人を犯す権利を独占します。


 そうです。


 リヴァイアサンの話です。


 しかし国家が、社会が、個人との繋がりをなくしてしまえば、個人は国家に取り上げられた殺人を犯す権利を取り戻してしまいます。


 いつの間にそうなったかは定かではありません。


 積み重なってしまった社会に対する不信は人を外の道に誘ってしまうのです。


 私の目の前にもきっかけが、無垢な少年が現れて、気が付いたら私は社会の外側に立っていたのです。


 下校時間になって、彼が一人になるのを待ちました。


 私は堤防の上で彼の背中を蹴り飛ばし、彼は転げ落ちました。


 そして首が折れてあっけなく死んでしまいました。


 私は彼の死体を切り刻みたい衝動に絡まれるも、国家が私を殺しに来ることが怖くなってやめました。


 何の罪悪感もありませんでした。


 サイコパスは、簡単に言うとそういうものです。


 善悪を簡単に口にしますが、日常で言われるのは聖書で言う七つの大罪レベルの話です。


 つまり誰もが認めざるを得ない単純で明瞭な状況のことを言っているにすぎません。


 少女が同い年の少年を殺したことに七つの大罪なんてわかりやすい事情なんて存在しません。


 少女は社会とのつながりをなくしてしまいました。


 現実は違うかもしれなくても、少女にとって国家は、社会は、少女の味方にはなってくれないものとして、契約の対象としてまともに機能していなかったのは紛れもない事実。


 社会契約を破棄され、リヴァイアサンは少女に危害を加えることはあっても少女が信頼するに値する対象にはなりえません。


 昔ならそれで社会の方向性を決めるべく自分と似たような境遇の人達と繋がって何か反社会的な活動をする前に民主主義に基づいて活動をしようとしたのかもしれません。


 しかし少女には誰一人仲間がいなかったのです。


 皆忙しかったのです。


 少女は殺人が楽しいことだと気が付いてしまいました。


 自らが法となり、不快にさせた対象を捌く。


 誤解がないように言いますと、別に全能感を感じたわけではありません。


 ただ不在する機能、社会が自分の代わりにやってくれるべきことを、少女が自らの手でやってしまっただけなのです。


 それで楽しくなるとすることを、悪いと言えるのでしょうか。


 問題は一回外側に足を踏み入れてしまうと、外側の住人になってしまうと言うことです。


 守られない人間になってしまうことを受け入れなきゃいけないということです。


 少女は計算高く、頭の回転も速かったのです。


 自分がどこに向かえばいいのか、どこを目標にすればいいのか、決めてしまいました。


 誰よりも有能な殺人鬼となること。


 それ自体が仕事になるまで自らを磨き上げ、女であることから来るペナルティをも克服すること。


 銃や刃物を使えば簡単ですが、あいにくそういうわかりやすいのは使ってしまえば誰も否定できない痕跡が残ってしまいます。


 蹴り飛ばして堤防から転げ落ちた少年は事故死として処理されましたが、一度弾薬が体内をかき回してしまえば、刃物が細胞と細胞の間の繋がりを無理やり引きちぎってしまえば言い逃れはできないのです。


 だから私は事故に偽装して殺すために、同じ孤児院の子供たちを対象に実験を繰り返しました。


 殺人体術の片鱗と言うべきでしょうか。


 別に特別なことをしたわけではありません。


 どんな角度で人に向かって倒れればその人は転げてしまい、私は無事なままになるのか。


 そういうことを研究しながら時間を潰しただけです。


 現実は少年漫画ではありませんので、サイコパスであること以外には一般人と大差のない私に大したことなんてできるわけがありません。


 二足歩行をする人間はそもそもが転びやすいようにできているのです。


 合気道は相手と相対した状態での状況で相手の姿勢を意図的に崩します。


 私は無垢な通行人を装い、横か後ろからどうすれば効果的にそれができるようになるのかを試行錯誤を繰り返して、咄嗟にできるようになっただけです。


 それで中学校に上がってからはもう一人、今度はクラスのいじめを主導するくそみたいな女の子を階段の上から突き飛ばしました。


 彼女は私をも標的にしてしまいました。


 それが運の尽きだったのです。


 少女は脳震盪を起こし死亡しました。


 人はそんな簡単にあっけなく死んでしまうのです。


 高校の時は私を倉庫に連れ込んでから輪姦した同級生たちを皆殺しにしました。


 まあ、この時は家に火を付けたりもしましたけどね。


 四人だったんですけど、二人は謎の転落死。


 残り二人のうち一人は通学の時に高層マンションの工事現場を通ることが分かったので、鉄パイプを落としてあげました。


 そんな感じで殺人を繰り返し、成人してからは本格的に格闘術なども学びアレンジするようになりました。


 裏社会に入りフリーランサーの殺し屋として活動を始めるまでそう時間はかかりませんでした。


 と言っても日本での仕事はそんなになかったのです。


 そんなに物騒な社会じゃなかったものでして。


 日本での依頼は年に数回くらいで、普段は日本以外のアジア全域を活動範囲にしてました。


 何が言いたいかと言うと、私は今世での目標を設定しないといけないと言うことです。


 別に超能力を使って何か他の人間ができないようなことをやってみたいと、そういうことは思ってないです。


 むしろ目立たないような人間になるのが目標としては妥当だと思うのです。


 そして具体的に何かを決めるんじゃなく、前世で殺人を楽しいと感じて、それを仕事にして生きることを決めたように、今世では何か楽しいことがあるならそれを仕事として生きることを決めたいという話です。


 もちろん殺しもする。誰も殺さない人生なんて人生とは呼べないだろう。誰もが意識してないうちにそうしているのを、私は意識的にやっているだけだ。


 今度は裏社会じゃなく表社会で生きてみるのも悪くない気がします。むしろそれしかないです。


 だが表社会でだって肉を切り裂きはらわたを引き出してぬるっとした感触を楽しむのも乙なものだろう。


 けどそうするためにはまずは学校に通わないとダメですよね。


 学校では目立たなくしないといけないだろう。


 いくら前世で高卒程度の学力を持っているからと言って、小学校も卒業しないと表社会で活動するのが難しくなります。


 仕事の問題じゃなく、人と感覚を共有できなくなるのです。


 学校の存在意義の半分くらいはそれなんじゃないですかね。


 感覚の共有。


 カモフラージュ。


 しかしそうするためには保護者が必要となります。


 どうすればいいか迷います。


 選択肢は少なくないですけど、例えば記憶操作や洗脳を使って真っ当な大人を私の保護者として指定することはできます。


 できますが、一度そうしてしまうと、浮浪者や社会のくず共とは違って、やってしまえば予想できない不都合な状況になるかもしれないのです。


 今一番ありだと思っているのは意思表示ができない状態の人間を戸籍上で表示される法的な保護者に仕立て上げて、実際親として動かす時だけ浮浪者のおっさんの誰かを使うことです。


 もっといい方法が思いつくならそれにするつもりです。後一年もしないうちに小学校に進学しなければならないことを考えてみればできるだけ早く決めたほうがいいでしょうね。

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