桜子へ、僕からの言葉

クーイ

桜子へ、僕からの言葉

 思えばあの時だった。僕の人生が決定付けられた瞬間は。

 大学1年の春。無事に入学し、どこか皆浮かれていた。そんな雰囲気の中で僕は、君の横顔を見た。

 甘い風が吹いたような気がした。誰が何と言おうと、僕はあの時の君に惚れた。講義を受ける真剣な眼差し。しなやかに動く右腕。

 かわいいけど、でも。どうせ、僕が惚れてはいけない人間だ。

 僕はいわゆる、“異常性癖”という奴だ。身体の一部、もしくはすべてが動かない姿に興奮を覚える。いわゆる下半身麻痺や、全身麻痺と呼ばれるもの。女性が、麻痺した部分を引きずって這うように歩く映像は、幼い頃によく興奮して観たものだ。

 君は確かに、僕が初めて惚れた“健康体の女性”だった。



 時は流れ、大学2年の冬。僕が何もできるわけなかった。性癖はもとより、恋愛には奥手だった。そんな時、講義室で君を見かけた僕は君の二つ隣に座った。

「すみません、消しゴム貸していただけますか」

 君を見つめていた講義中、君がふと話しかけてきた。

「あ、どうぞ」

 僕は平静を装った。左利きなんだと思った僕の目に、車いすが映った。今まで君に夢中で見えていなかったのか、確かに君の隣に桃色の車いすがあった。そういえば、歩いている時に姿を見かけたことはなかったなと思った僕は、君が左利きではないことに気が付いた。扱いづらそうに消しゴムを擦る左手は硬直し、太股の上に置かれた右手は握られていなかった。僕は悟った。この子は進行性の筋疾患か、それに似た病気だと。

 だからではない。君が病気だから恋をしたなんてことは、誓って無い。とうの昔に捨てた倫理観というものが降って湧いた。

 その後の講義は、もう耳に入っていなかった。決心することで手いっぱいだった。ここで声を掛けなければ、その後の人生で後悔する。これは、一世一代の大勝負だと思った。

 講義終わり。僕は、決死の覚悟で声をかけた。

「「あの……」」

 かぶった。よくある“運命”というやつだ。

「あ、どうぞ」

 僕は、相手に譲るように声をかけた。

「すみません。消しゴム、ありがとうございます」

 身体を目いっぱいこちらに向け、丁寧に頭を下げた後頭部からは、どこかいい匂いがした。

「あ、どうも……」

 君は優しそうな目でこちらを見る。惚れそうだ。いや、すでに惚れている。

「あの……」

「よかったら、よかったらでいいんですけど……」

 君に見られると、異様に緊張する。僕は、最高に恋愛をしていた。

「ご飯……とか、一緒に、行きませんか……」

 その言葉に、君は驚いたような目をする。僕はまだ名前も名乗っていなかったことに気が付いた。

「あ、すいません。名も言わず……」

 急いで名乗ると、君が吹き出した。

「いや、名前とかそういうのじゃなくて」

 君はうつむき、自分の身体を見る。

「私こんな体だから。迷惑かけちゃいます」

 君は、どこか悲しそうな眼をする。その表情が嫌で、僕は慌てて取り繕う。

「いや、それが……い、いや。大丈夫です。お手伝いできることはしますし。何よりかわい……あの、えと、はい。大丈夫です」

 自分に嫌気がさす。すると、君がふふっと微笑んだ。

磯木いそき 桜子さくらこです」

「……へ?」

 君が、左手を差し出した。

「ご飯、連れて行ってください」

「あ、ありがとうございます……何が好きですか」

 僕は思わず握手をした。小さなレバーで車いすを操る君の隣で、色々と話した。

 音楽の趣味が意外と合うこと。高校は工業系のところに行ったが、工業が嫌になって進学した僕の話。中学時代は吹奏楽に打ち込んでいた君の話。

 君の要望でご飯をファミリーレストランで済ませた後、水族館へと僕が誘い、乗り気な君と一緒に向かった。

 ふと君が、自分のことを話してくれた。筋肉が弱っていく病気だと語る君の横顔を、どこか寂しそうに感じた。

 水族館に着く。チケットを買おうとした僕を引き留め、君が手帳を差し出す。君と僕合わせて一人分の会計で済むようで、ここは払わせてと譲らないので払ってもらった。

「わぁ……!」

 イルカの水槽の前で立ち止まったとき、君は感嘆の声を上げた。僕もつられて声を出してしまうほど美しかった。

「イルカさん、自由に泳ぎ回って、気持ちよさそう」

 自由な世界を分厚く遮る水槽を撫でながら、君は長い間イルカを見ていた。

 その後、いろんな魚を見た。群れを成すイワシ、優雅に泳ぐエイ。どの水槽の前でも、君は目を輝かせていた。

 帰り際、僕たちはお揃いでイルカのキーホルダーを買った。今日の思い出、自由なイルカ。

「買ってくれてありがとうございます」

 君が、イルカのキーホルダーを手のひらに乗せて嬉しそうに言った。僕はまるで幸せという鈍器で殴られたような気がした。

「あの……」

 帰り道。僕はついに決心して立ち止まり、そう切り出した。

「はい?」

 君は、首を傾けてこちらを見る。

「恋って、衝撃的なものだと思うんです」

「あなたを一目見たとき、僕には衝撃が走った」

 君は、時折相槌を打ちながら黙って聞いていてくれた。

「僕はあなたに、恋をしてしまいました」

「僕と付き合ってください」

 君は、僕の顔を見ながらつらつらと話し始めた。

「私はイルカじゃないんです。私は、鍵をかけられた籠の鳥。いずれ死にゆく運命なんです」

「だから……だから、もっと。あなたには、もっといい方がいます」

 君の目元が光ったような気がした。

「じゃあ、鍵を開けます。僕がその籠の鍵を開けて、あなたを飛び立たせて見せます」

「たとえあなたが飛べなくても、あなたを背中に乗せて僕が飛びます」

「命を張ったっていい。あなたのためなら、どこまでも飛びます。あなたが好きです。あなた以外にあり得ません」

 一気に吐き出した僕に、君が語り掛ける。

「私の何がそんなに。私が、何かあなたに思わせぶりなことをしたのなら謝ります」

「でも、あなたに好きになってもらった。それだけで、私も捨てたもんじゃないって思います。だけど、あなたの相手は私じゃない」

 それを聞いた僕は、思わず言った。

「理屈より、好きじゃダメなんですか。はっきりしてください。あなたは、磯木桜子さんは、僕のことをどう思うんですか、それだけ聞かせてください」

 君はもう泣いていた。僕も半泣きだった。二人とも、むきになっていた。

「好き……です」

 君がぽつりと言った。堰を切ったように、君の口から言葉があふれてきた。

「好きに決まってるじゃないですか。私も、あなたを素敵だと思っていました。そんな人が突然デートに誘ってきて、こんな優しい方で、こんな……こんな」

「でも、私はあなたより早く死ぬ。絶対に。あなたがいるのに、私は生きるべき寿命を全うできない。それが、何よりつらいんです」

 道端で向かい合って言い争いをしている男女に好奇の目を向ける民衆など、どうでもよくなっていた。僕は、ようやく掴んだ君の言葉を離さぬよう、ここぞとばかりに畳みかけた。

「じゃあ、もっと濃くすればいい。濃厚で詰まった恋をすればいい。そうすれば、人の何倍も一緒に生きたことになる」

 君がうつむく。僕は君の細い身体を抱く。

「付き合ってください……桜子さん」

 君の腕が僕の背に回るのが分かる。弱った筋力で、一生懸命に抱き返そうとしてくれていた。

「よろしくお願いします…………」



「ここでいいんだよな……」

 僕は、スマートフォンを見ながら何とか君の家にたどり着いた。

『家の前まで来ました。立派なお家』

 庭の広い立派な一軒家だった。

『開いているので入っていいよ』

 どうやらこれらしい。僕は意を決し、チャイムを鳴らして引き戸を開けた。

「こんにちはー……桜子、さん……?」

 玄関に置かれた車いすを横目に、君を控えめに呼んでみた。すると、奥から綺麗な声が聞こえてきた。

「はーい」

 出てきたのは初老くらいの女性。お母さんらしい。

「あらま」

 そう言ったお母さんは、ちょっと待っててねの言葉を残して家の中へ消えた。玄関は段差がなくフラットで、細かいところへの配慮が見えた。

「そうそう、そうだよ」

  君はそう言いながら、僕の隣にある車いすとは違うもので家の奥から出てきた。家用の車いすだろう。

「まさか桜子に彼氏さんがねぇ......」

 そう言う母親を諫めながら、君が外出用と思われる車いすに乗り移るようなので、慌てて玄関側の車いすを後ろから押さえた。君の動きはとても美しく、洗練されていて官能的だと思った。

「よいっしょ……っと」

 君はフットプレートに足を乗せ、ぱぱっと衣服を整える。

「じゃあ、行こうか」

 君の言葉で、僕は車いすを方向転換させる。

「行ってきます」

 僕もお母さんに一礼した。

「また改めてご挨拶に伺います」

 まあっ、の声を聞きながら、君の合図で外へ出た。

「いいお母さんだね」

 僕が言うと、君は照れ臭そうにこう言う。

「恋愛に関してはちょっと過保護かも」

 みたいだね、の言葉を抑え、君の話を聞く。

「でも、私ができることはやらせてくれるの。いい意味で放任主義って感じ」

 なるほど。あのお母さんに育てられたから、この君がいるわけだ。

 大学に着くと、僕たちは別講義のため一旦別れる。同じ講義の時はそのまま一緒に行くというのが流れになっていた。

 長い一日の講義が終わり、僕は君を待っていた。今日は一度も一緒になれず、さみしい一日だった。

「あ、あいつ。車いすの女と付き合ってるやつだよ、例の」

 一人で君を待っていると、どこからともなく声がした。

「あんな奴のどこがいいんだろうね、あいつ」

「かわいそうで付き合ってやってるんじゃないの」

「いやいや、異常性癖ってやつでしょ」

 女たちは、陰口を叩きながら笑う。ここに君が居なくてよかったと思うだけの僕は、特に反論せずに去る。かわいそうである、ということは絶対にないが、異常性癖であることは事実なのだから反論する余地がない。それに、ここで騒ぎになったら迷惑を被るのは僕じゃない。

 実のところ、こういう陰口は初めてではない。こういうことを聞いていると、なんだか本当にかわいそうだから付き合ってやっているのではないかという錯覚に陥りそうになる。そんなことはないと言い聞かせても、自分は悪いやつなのではないかという妄想に駆られる。君といる時は話で遮るが、君が気づいていないという根拠はどこにもない。あれを聞くことで君の感情に変化があり、僕から離れてしまうのが何より怖かった。

「なんで何も言わないの」

 声がして、僕は思わず振り向いた。君がそこにいた。

「私のせいであんなこと言われて、なんであなたは平気で私のそばにいてくれるの」

 僕が煮え切らない態度を取ると、君がまくしたてた。

「かわいそうだから?」

「私の事がかわいそうだから、そばにいてやってるつもりなんでしょ」

 君からそんな言葉は聞きたくなかった。僕は、思わず言った。

「そんなことあるわけないだろう。僕が君の身体に惚れたとでも言うのか。違う、断じて違う!」

「結局あなたは私の身体が好きなんでしょ!」

 半分図星だった。だからこそ、言い返さないわけにはいかなかった。

「違う!性格、綺麗な笑顔、そういうところが好きなんだ、君の」

「初めて見た時から好きだった。一目惚れしたんだ」

「嘘!」

「嘘じゃない、好きだ、君が!」

 なんという喧嘩か。人だかりができているのを見て、激高していた僕と君は思わず目を合わせた。

「す、すみません」

 僕は、思わず言った。そして、君にも。

「ごめんね、桜子。言い過ぎた」

 僕がそう言うと、君も謝ってくれた。

「私こそ、ごめん。好きだって、言ってくれたのにね」

 周囲が沸き立つ。どうやら、僕たちは激しく恋愛をしているようだ。

「行こうか」

 その場から逃げるように、僕と君はすごすごとその場を後にした。

「私ね、まだ歩けたころに仲が良かった友達がいたの」

 夕暮れの帰り道、君が切り出す。

「うん」

 僕が相槌を打つと、君はうつむきながら微笑んで話を続ける。

「本当に仲が良かった。一緒にいろんなところに行った」

「だけどね」

 君の表情が曇る。

「歩けなくなって、変わってしまった」

「その子は、私といる時に注がれる視線に耐えられなくなったの」

「結局、その子は私から離れて行って、大学も別々になった」

 君が僕に振り向く。

「だから、怖かったの」

「私の病気が悪くなって、またあなたが私から離れていくんじゃないかって」

「……ごめんなさい」

 僕は、まず話してくれたことに感謝し、言葉をつづけた。

「僕は君から離れないよ。君が僕から離れない限り」

「もし君が僕から離れても、追いかけて行っちゃうから覚悟してね」

 僕は笑った。

「えー?」

 君がそう言って笑うのを見て、僕は心が満たされたような思いになった。君がこの言葉を聞いて、少しでも不安をなくしてくれたら。その思いでいっぱいだった。

「今度、デートしよう」

「デート?」

 君の顔が明るくなった。それが狙いだったが、デートに行きたいのも本音だ。日程を提案し、お互いに空いていることを確認した。

「お昼ご飯を食べて、公園にでも行ってのんびり、なんてどう?」

「うふふ、楽しそう」

 僕は、この機会にと決心する。

「ご両親にも挨拶したいな」

 君は、少し笑って言った。

「生真面目だね。いいよ、じゃあデートの日、お父さんいるからそこで」

 そこから、必死にイメージトレーニングを重ねる日々が始まった。



 後日、僕は君の家の前にいた。いつもより緊張していた。

 チャイムを鳴らすと、お母さんが出た。

「はーい、ちょっと待ってねー」

 すべて聞いているのか、少し楽しそうな声だった。

 客間に通された僕は、正面のお父さんに固められていた。

「き、君かね。その……桜子の彼……というのは」

 僕は、お父さんの重い言葉を受け止める。

「はい。お世話になっております」

 隣のお母さんは、僕の隣にしゃがんでいる君と目を合わせて笑っていた。

「……」

「…………」

 何を話すべきなのか困っていると、お母さんが僕とお父さんを見ながら口を開いた。

「終わった?“男同士の会話”は」

 その言葉に君が吹き出す。

「もうお母さん、雰囲気壊すようなこと言わないの」

 お父さんはやや照れ気味に、頭を掻きながらこう言った。

「いや、いい人そうで良かったよ。すまんね、こういうのは慣れないものだから」

 いえ。と言い、僕も少し笑みを浮かべた。

「いやー、まさかお父さんにあんな一面があるとは」

 君の実家から出て、僕らはお昼を食べるために例のファミリーレストランに向かった。今日もここがいいと君が言った。ファミリーレストランを出ると、僕らは近くの公園に向かった。途中、君が疲れているようだったので、僕が切り出して何度か休憩した。

 公園を歩きながら、僕らは遊んでいる子供を見ていた。

「いいね、子供って」

 君が言った。

「うん」

 僕もそれに返した。もう何も言うまい。お互いに分かっていたと思う。

 君とのんびり過ごす時間が何より好きだった。公園を散策しているとき、君がふとブランコを指さした。

「あれ、やってみてもいい?」

 もちろん。車いすを柵の外に停めた君を抱えて、ブランコに座らせる。

「わぁ……!」

 僕が後ろから軽く押すと、君は何とも言えない表情で感嘆の声をあげた。

 しばらく風を切った後、鎖を持つ手が辛そうだったので、止めるついでに後ろから抱きしめてみた。

「うふふ、なーに?」

 なんでもない、そう言いつつ、君の背に顔を埋める。

「ふふ、今度は甘えん坊さんなの?」

 そう言い、肩越しにそっと頭を撫でてくれた。幸せを具現化したかのような時間を、ゆっくりと味わっていた。

 ブランコを降りて車いすに戻った君と、公園を再び歩いていた。

「明日、検査の結果が出るんだ」

 君が切り出す。

「結果次第で、大学を休学するかも、って」

 残念そうにしている君の横顔を見ながら、僕は言葉を探す。

「そうなんだ。でも、会いに行くよ」

 そう言うと、君は少し微笑んでくれた。

「ありがとう」

 君の家にたどり着く。結果を教えるねと言い、君は家へ入る。

「そうだ」

 そう言うと、君が振り返って顔を僕の方に差し出す。

 意図を汲んだ僕は、そっと頬に接吻をした。

「じゃあまたね」

 顔を赤らめて、君は家の中へ消えた。



 次の日の昼頃、大学が休みで家にいた僕に、君から一通のメッセージが届いた。

『やっぱり休学だって。ごめんね』

 そこには、謝罪が含まれていた。何についての謝罪なのかは置いておいて、今僕が言えることは一つだ。

『そうなんだ、会いには行っても大丈夫?』

『うん、外出もOKだって』

『そうか、じゃあ今度は実家デートにする?』

『楽しみにしてるね』

 自分で言っておいて難だが、実家デートとはまた気を使うものを提案してしまったような気がする。

 今度の休みはどうかと言ったところ、予定が合うらしいので、その日に決めた。

 休みの日の昼過ぎ、僕は君の家の前にいた。意を決し、チャイムを鳴らす。

「はーい」

 お母さんだ。君に会いに来たことを伝えると、中からは君が出てきた。

「いらっしゃい」

 家用の車いすで登場した君は、僕を自分の部屋に案内してくれた。

 白を基調としたシンプルな部屋は、一階のリビングの一番近くにあった。

「綺麗な部屋だね」

 僕が言うと、君は照れ臭そうに言った。

「えへへ、ちょっと掃除したの」

 すると、お母さんが後ろから声をかけてきた。

「はい、じゃあ後は二人で、ゆっくりしてってね」

 お母さんは、グラスに入ったお茶をお盆ごと僕に渡すと、ぱっぱと去っていった。

 僕は君に促されて君を車いすから降ろし、僕も座布団に座る。折れた君の脚を横目に、君と他愛もない話をした。病院で出会った子供が可愛かったこと、新しいドラマの話、君のお母さんのうっかりエピソードなど。

 時間は体感よりも早く過ぎた。気が付けばもう夕方であった。

 そろそろ帰ろうかな、と言ったとき、君が僕の袖を掴んだ。時計の針が、僕たちの動向をゆっくりと見つめていた。

 たまらなくなった僕は、君の身を丸ごと抱き締めた。君の吐息を耳元で感じ、二人とも高まっていくのが分かる。

 耳に接吻をすると、君の喉が啼く。

 君の温もりを感じながら、膝立ちの僕はゆっくりと口づけをした。


「お邪魔しました」

 車いすに座る君の横で、お母さんが手を振っている。

 すっかり遅くなってしまったため、夕飯に誘われたものの、さすがにお断りした。

 しばらくは、そんな日々が続いた。平日は大学へ通い、休みの日は君の家に通う。そんな毎日だったが、これはこれで楽しかった。たまにお出かけして、ランチやディナーを一緒に食べたりもした。

 様々な笑顔が僕の脳に焼き付いた。こんな日々が永遠に続くと思っていた。

 予定が詰まり、しばらく君と会えなくなていたある日の講義中、僕のもとに、一本の連絡が入った。

 君が倒れて入院したというお母さんからの電話だった。



 肩を弾ませながら病室に行くと、君は点滴を受けながらベッドの上でご両親と談笑していた。

「あ、来てくれたんだ」

 君は、実にあっけらかんとしていた。一時意識不明だったものの、すぐに回復したらしい。とりあえず胸を撫で下ろすと、ご両親が「ごゆっくり」の言葉を残して病室を出た。

「病院でごゆっくり、って……ね?」

 君が笑う。いつもと変わらないその笑顔に安心し、ベッドの横にあった丸椅子に腰掛けた。

「ごめんね、わざわざ」

 いいんだよと言い、君の頭を撫でた。目を閉じ、小動物のように笑う。

「本当に大丈夫?」

 僕が聞くと、君は頷いた。

「大丈夫。ちょっと様子見るって言ってたけど、割と早めに退院できるかもって」

 割と早め、がどのくらいか分からなかったが、君が僕を安心させようとしてくれていることだけは分かった。

 会えなかった分、思いが溜まっていた僕は、思わず君を抱いた。

「もう……また甘えん坊さんモード?」

 君の香りを鼻いっぱいに広げ、肩をしっかりと抱き締める。少し細くなったかな、そんなことを思っていた。

「ありがとね」

 君は僕の頭を撫でる。本当の幸せを掴んだ時、人はそれを失うことを恐れるのだと、頭の片隅で考えていた。

「じゃあね」

 暫く君と話した僕は、手を振って病室を出て、ロビーに向かう。その途中、飲食スペースに座っていた君のご両親に止められた。

「ちょっといいかな」

 僕の横に座ったお父さんは、重々しい表情で打ち明けた。

「実は、桜子の筋委縮が進んでいる」

 頷きながら、懸命に言の葉を整理していた。

「桜子の首から下は、もうすでにほとんど動いていないようだ」

「今回倒れたのもそれが原因でね、乗り移れると思った車いすに乗り移れなくて落ちたらしい」

「だが、体力が回復して手術を受けられれば、或いは……」

 僕が何度か首を縦に動かすと、お母さんが言った。

「でも、手術ができる状態になるかどうかは分からないから、桜子にはまだ言ってないの」

 残酷な言い方だが、余計な希望を与えない。ご両親のその言葉が、胸に重くのしかかった。

 帰り道、僕は君と出会ってからのことを想っていた。君は、確実に僕の理想に近づいて行っている。自分の性癖を呪ったのは人生で何度目だろうか。君が僕から離れる度、僕の性癖が唸り声を上げた。

 目を背けていた性癖と、もう一度対峙する。僕が忘れようとしても、その獣は僕を虎視眈々と見つめていた。

 自宅のアパートに帰り、ドアを勢いよく締めて座り込む。

 どうにかなりそうだった。弱っていく君を憐れむ僕と、もう一人の獣がいた。

 叫び出したい衝動を抑え、その日は横になった。


 それから、しばらく君の病院に通った。僕が何もできることはなかったが、僕と話すことで君の気持ちが休まればそれでいいなと思っていた。少しでも君と長い時間を共にしたかった。

 その日は、朝早くの講義がなかったため、朝起きて暫くした後、病院に向かった。

「早いね?」

 病室に入ると、君の明るい声が聞こえた。さっきまでお母さんが来ていたらしく、ベッドの横には新しい着替えが置いてあった。

 君の布団からは、点滴の管がスタンドに延びている。そして、カテーテルだろうか、ベッドの下に延びている管が、余計な想像をさせた。

「退院したら、旅行に行こうか」

 僕は、持ってきた話を切り出した。雑誌で車いすのまま入れる温泉を見つけた僕は、その雑誌を君に見せた。

「こんなところあるんだね」

 君の表情が若干明るくなる。が、すぐに曇りの影を見せる。一応笑顔は見せるが、その裏に笑顔がないことは簡単に見抜くことができた。きっと、きっと行けるよ。口には出さないが、僕はそんなことを語りかけていた。

「これ、もらってもいい?」

 君がその雑誌を欲しがったので、あげた。君は、雑誌のそのページを見ながら、いつか行こうね、と言った。

「またね」

 しばらく君と話した後、僕は講義があるからと病室を出た。



 大学に着いた頃、君のお母さんから連絡があった。君が急変したらしい。なんで病室を出たんだ、なんで大学に来たんだと思いながら、反対行きのバスに飛び乗った。

 病室に着くと、医師が懸命に蘇生措置を施していた。お父さんに促されて君のもとへ行く。君の鼓動が耳に響き、まだ戦っていることを知らせていた。

 心臓マッサージに合わせて跳ねる君を見ていられず、しゃがみ込んで君の手を握って目を伏せた。反対側では、お母さんが必死に声を掛けていた。

 何かの警告音が鳴る。この音が何を示すか分からない分、君の手をしっかり握る。そして、意を決して伏せた目を上げた。

 必死に呼びかけた。人生で、最も長い時間だった。

「一緒に温泉に行くんだろ、二人で露天風呂に浸かって、将来設計でもしようよ」

「頼む……!」

 その時だった。忘れられない、あの声。

 君の灯が消えたことを知らせる、死神の声。

 膝をベッドの上に上げていた医師が足を着き、君の目をライトで照らす。

 その日、僕は君を失った。絶望、そういう感情はなかった。

 無。真っ新な無が、僕を包み込んだ。


 今日、君の葬儀が終わった。当たり前だけど、君のご両親は、僕以上に悲しんでいた。喪主のお父さんは、終始泣きっぱなしだった。

 言ったよね、君を追いかけると。

 大好きだよ、桜子。




 男は、虚ろな目である橋の上にいた。手にはナイフと、紙束が握られていた。

『桜子へ』

 男から彼女に向け、思い出を綴った恋文だった。

 紙束を地面に置き、持っているナイフで自分の陰茎を切断した。

 大量の血が流れ、背筋が凍る。喉が唸り、ピリピリと痛みを感じた。

 そして、最後の力で欄干によじ登り、蹴った。

 次の瞬間、男は真っ暗な闇の中にいた。何も見えず、何も聞こえない空間。そこに、人間の声が響く。

「植物状態です。目覚める可能性は……低いと思われます」

「このまま生命維持を続けるか、生命維持装置を切るか……」

 しばらく間を開け、聞きなれた声がした。

「生かしてください」

 母親だった。自分の母親が自分の未来を決定した瞬間だった。

 男はこれから、生き続けることになる。

 彼女がいない地獄を、殺される日を待ちわびながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

桜子へ、僕からの言葉 クーイ @kuieleph

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ