Nāga Land Underground Ⅰ

メラー

Nāga Land Underground Ⅰ

「ピートが竜を孵した。見に来るか?」

 ケンドーが僕に電話を寄越したのは夕方の四時頃で、その時僕はそろそろ夕食を買いに行かないとな、と考えつつも出ていくのが億劫で、長いことぼんやりしていた。立ち上がるきっかけができたことを喜びつつ僕は行くと返事した。三〇分後にピートの寮があるソイの前のコンビニで落ち合うことになった。ベッドの隅からTシャツを拾い上げ、臭くないか確認してからそれを着た。僕の部屋はかなり散らかっていた。ジーパンは床に脱ぎ捨てられていた。ポケットに財布が入ったままなのを確認して僕はそれを穿き、部屋を出た。バンコクの曇り空は灰色で重い水を含んでいる。どんよりした印象は少なく、どちらかというと間抜け面で誰かを待っているように見えた。彼女が、待つのに飽きるといきなり雨を降らせる人だということを僕は知っていたから急ぎ足で通りを歩いた。ピートの寮があるソイ52は僕の住んでいるソイ46から東へ十五分行ったところにあった。変電所の根際に待ち合わせのコンビニはある。大通りは渋滞している。無数のブレーキランプは暗くなり始める寸前の光の中で、点滅に近い様相で光っていた。

 学期が始まったばかりのバンコクに、やっと田舎から友人たちが帰ってき始めていた。長い休暇の終わりだった。ずっとひとりで暇を持て余していた僕は、さっきの電話がハムスターの赤ちゃんの件であったとしても飛んでいっていただろう。それくらい暇だったのだ。僕の耳に、竜の子が生まれたというニュースは半分透明で入っていた。ケンドーの話が嘘なのか、本当なのかを考えることもなく僕は無心に通りを歩いていた。とにかく、久しぶりに友達に会えることが嬉しかった。

 長らく人に会っていなかった僕は通りをたくさんの学生が歩いているのを見て、不思議な感覚を覚えた。そしてその感覚が僕の意識を竜へ向かわせた。通りを行き交う白い制服姿の学生たちとすれ違っている自分をまず知覚した。それは自分と世界の輪郭、すなわち自他の境界をはっきり認識することだった。長い時間一人で居ると、自分がいる場所は空想とも現実ともつかぬ不思議な空間に変質する。それは、自分と世界の境界が滲む漠然と広い意識に覆われた空間である。嘘を疑うこともない。当然そこには嘘も真実もないのだから。部屋を出たばかりの僕もしばらくはその無我意識を引きずって歩いていたのだ。その為、学生の群れも初めは、意識の隅の不明確な違和感に過ぎず、偶然それが中央で焦点に合う時、初めて異物が在るなと認識される。学生がいる、自分はその流れに逆らって歩いている、どこへ、何故、といった具合に眠りから覚めるように現実世界を踏み固めて自己に出会う。そしてケンドーという学科の友人の言葉を、真剣に手のひらに乗せて重さを計ることになる。乗せてみれば、その言葉はまるで空想の様に軽く、現実に戻ったばかりだと覚えたばかりの自分の意識を撹乱した。

 ケンドーはさも当たり前のことのように、竜が孵ったと言った。さも当たり前のように、というのは冗談めいた調子でも、騙すための妙な真剣さもなかったことになる。例えばそのいずれかであれば、疑うのを待っていたはずで、僕が曖昧な意識の中で返事していることも知らずに、最後まで白状しなかったのもおかしい。そもそも、どこの誰が竜を信じようか?そうなると竜がごく頻繁に扱われる比喩や隠語である可能性だが、言葉の不自由な僕に対してそのような言葉遣いをするとも思えなかった。竜と名付けた小鳥が生まれたのかもしれないな、と僕は思った。いずれにせよ、行けばわかるのだ。竜だろうが小鳥だろうが僕が損することはない。ピートとケンドーに会うのは数か月ぶりだ。ピートは単位を取りこぼしすぎていて、単位を先取りしすぎている僕と同じ授業を受けていないし、ケンドーは交換留学から帰ってそのまま田舎に引っ込んでしまった。久しぶり会えるのを喜ぶ自分を観照して珍しいなと思う。同じ通りに住んでいる為、一年のころはよくピートが帰り路原付の後ろに乗せて送ってくれていた。彼が落ちこぼれていなければこのことも懐かしいとは思わなかっただろう。

 会うなりケンドーは僕の背中を手のひらで叩いて「久しぶりだな」と言いながら肩に手を回した。

「髭剃ったんだな」

「ああ。最近はインターンに行ってるからな。もうすぐ卒業だ」

「早いものだね。もう大学生活も終わりか」

 ケンドーは歩き始めた。

「夕食買ってかないか?せっかく外にいるんだしさ」

「竜を見に行くんだぞ!飯なんか後でいいんだ」

 それもそうだ。あまりにも当たり前のようにケンドーが言うのでこちらも普通のように歩いていたが、竜を見に行くのならいくらか普段より張り切っていた方がいいだろう。寮のフェンスの前で待っていると、奥からピートが笑顔で出てきた。相変わらずくるくる巻いた黒い髪は、能天気さの象徴だ。カードキーを使って扉を開けると、ピートは「早く!早く!」と僕たちをせかした。三人で一段飛ばしで階段を上がっていく。一階のコインランドリーへ洗濯物を抱えて運ぶ少女とすれ違う。彼女もまさか竜がこの寮で生まれたなどと知る由もなく、ゆっくりと降りていく。普通の夕暮れ時の景色に、僕たちだけが半分足を向こう側へ突っ込んでいるような気がした。

 シャワーを浴びたばかりなのかピートの部屋はジメジメしているし、白いタイルに反射している夕日は細く、陰気さを際立てているように思える。こんな小さな窓しかない部屋は、竜の誕生とは程遠い、むしろ正反対の性質を含んでいるようにさえ思えた。ピートは床にある段ボールを指さして「あそこだ」と言った。僕とケンドーは恐る恐る、そして興味津々に近づき、覗きこんだ。段ボール箱の中で、竜は弱った鳥の様に、床に敷かれた新聞紙に蜷局を巻いていた。やはり小鳥ほどの大きさで、しかし小鳥ほどの覇気もなかった。大げさな装飾と羽をつけられただけの、生まれつき少し凛々しい蛇といったところだった。竜というよりは玩具のようだった。棘のように逆立った鋭い鱗には、夕日の中で金と赤に光っているが、何故か筆で雑に塗られたような印象を抱いてしまう。とっておきの赤と金で塗られたのではなく、近くに赤と金の塗料があったので塗っておいただけのように見える。しかし、そのそっけなさを睨んでいると、逆に現実味を帯びてくる。あまりに当たり前に竜がいるからか、ケンドーは腑抜けた声で「これは竜だな」と言った。

「これはタイではよくあることなのか?」と思わず聞いてしまった。ここに住んで四年だったが今まで僕は玩具屋と劇場以外で竜を見たことがなかった。

「竜は空想上の生き物だ」とケンドーは返した。だが、それはそこに竜がいない時に発されるべき平坦な声だった。ここにいるのは誰がどう見ても竜なのだが、僕にも彼にも、指輪物語及びハリー・ポッターなどの映画で竜を見た時の高揚感と、今の感情の釣り合わなさすぎるせいで、この現実をこれまでの空想から来た知識と重ね合わせることができずにいるのだ。誰も騒がないで、じっと竜を見ていたが、挙句の果てにピートが言った。

「晩飯でも買いに行こうか」という言葉がとどめとなり、僕らは振り返ることもせず部屋を後にした。

 屋台でソムタムを作っているのを見ながら、僕はピートに尋ねた。

「お前どこであれを見つけたんだ?」

「卒業研究でスパンの山奥の農村に行ってたんだけれどね、そこって風呂とかないんだぜ」

「正気かよ?まさか、池や何かで水浴びするんじゃないよな」

「近いね。川で身体洗うんだよ。もう、川にそうする為の堰なんかもあって、そこで身体を洗うんだよ。その村はタイにしちゃ寒いんだよ。何しろ山奥だからね。だから、たき火をやろうと思って僕は身体を洗ったらタオルを被って、林の中で乾いた木を探してたんだ。そしたら、木陰に卵があったんで取って帰ったんだ。まあ、あの辺りは洞窟も多いしね」

 僕には洞窟が多い、という言葉の意味するところはわからなかったが、山村での夜が如何に魅力的かを知ることはできた。

「お前それ竜の卵と知って持って帰ったのかよ」

「まさか。鳥かなんかの卵だろうとしか思ってなくって、部屋で飼いたいって思ったんだ」

 ソムタム屋台の婦人が、出来上がったソムタムをビニール袋に詰め、もち米を三人分入れるとケンドーに渡した。僕らの中に今実感を持って竜に向き合っている者はいない。もちろん冒険が始まることもない。赤かった空もいつの間にかすっかり暮れており、街灯の光に弱弱しく向かっていた。

 帰ってきて電気をつけたが、部屋の陰気な様は改善されなかった。その照明は空間を明るくする役目を全うできず、しかし中途半端な光があるせいで家具や机から影を作ってしまうので、余計暗くなって見える。僕はどこか諦めに近い感情を以てしてその青白い蛍光灯を眺めていた。狭い部屋の貧しい光の中、僕たち三人は地べたに腰を下ろし、竜をわき目に細々と夕食を食べた。身体が小さい割にピートは食べるのが早く、一番に床から立ち上がって、パソコンの机の前に座った。Googleで「竜 卵 育て方」と検索し、ケンドーに「バカじゃねえのか」と大げさに笑われると、満足げな顔で振り返り歯を見せた。彼の後ろのスクリーンにはD&Dのゲームカードの画が映っている。食べ終わった僕はケンドーに卵のあった山の場所を尋ねた。ピートはパソコン机の前から押しのけられ、ケンドーが椅子に座り、すぐに地図のサイトが開かれた。

 彼の示す村はスパンブリ県の北西の角にあり、滑らかな県境の図形から不自然な凸型で飛び出している部分にあった。ウタイタニ県、カンチャナブリ県に接している。竜の卵が見つかった山もウタイタニ、カンチャナブリの方からスパンブリにはみ出しているような場所で、その山地帯の中心はミャンマーとタイの国境部にあった。ピートが竜を拾った部分は村から遠くない場所であるものの、その村自体が国立公園の内部にある為、厳密には法律で罰せられる行為となる。尤も、村がそこにあることからも分かるよう、ある程度許される範囲内とも言えた。

「で、この辺りは洞窟が多いのか?」

 僕が訊くと、ピートが自身気に「そうだ」と言う。ケンドーはそれくらい俺だって知っていると言わんばかりに、眉を上げ頷いた。

「洞窟が竜と何の関係があるのさ?」もちろん僕のこの質問に答えたのはケンドーだった。

「ナーガって知ってるか?」

「あの竜か蛇の神様だろう」

「そうだ。タイではな、ナーガは大河に沿って信仰されているってのが一般認識でな」

「大河というとメコンとチャオプラヤの二本かな」

「そう、その二本が信仰の中心ってわけ」

 隣接するカンチャナブリ県にもメークロン川という川があったが、スパンのその村からは幾分離れいるように思えるし、大河と言うべきかは分からなかった。

「調査地の村は随分離れているようだけれど」

「そうなんだ。そうなんだよ。まあ大したことはしてないけれど、俺も一度ピートに付き合ってあの村に行ったんだがな、興味深いことに、あそこにもナーガ信仰があったんだ。しかもそれは、どうもな、他地域のものより色濃いんだ。村人の話を聞いているとどこか気味悪くなるくらい、それくらい具体的な神話だ。ナーガってもともとヒンズーの神話の存在だろ?でも、タイとかラオスではそれが伝播される前から既に似た形の蛇竜の信仰があったんだ。仏教もヒンズーも関係ない一種のアニミズムだったんだ。ヒンズー神話とか仏教の伝播されて来た時初めて、元々タイで信じられていた竜はナーガと呼ばれるようになった。だから、ここのはナーガという名こそついているものの、中身は若干違うのよ。タイのナーガは地底にあるこの世でない世界の存在なんだ。それで、大河や洞窟がその世界への入り口なんだ。だからピートはあの地域には洞窟が多いって言ったんだ。それにしても、あの地域でもナーガが信仰されているとは知らなかったし、あの話しぶりではあそこで崇められているのは他地域よりもっと原始的なナーガなのかもしれない」

 ケンドーは生き生きと、途中僕やピートが口を挟む隙がないほど早口で話した。ケンドーが持っているナーガ信仰に関する知識は、タイ王国の国民に普遍的にあるものなのか、あるいは大学生ならではの教養なのか、個人的好奇心の賜物なのか。少なくとも僕はここでよく見るナーガが元々はヒンズーのものと異なる存在だったとは知らなかった。外国人である僕の前で、急にこの薄暗い部屋は神秘性を帯び始めた。それはもちろん、足元の段ボールにうずくまる竜が何か神秘的な力を発揮し始めたとか、そういった類のことではない。この場所での竜の成り立ちを聞くと、初めて目の前の竜に、多少の現実味が湧き始めたのだ。そして、その現実味が竜の本来持つべき超自然的な印象を発揮させるに至ったのだ。最早、粗い金の鱗は僕に太古の息吹を覚えさせていた。

「その村ってどんな村なんだ?遠いのか?」

「カレンが住んでいる山奥の農村だ。遠いさ」

「行きたいんだよね」

「ピートの研究もまだ途中だ。次の調査はついていって見りゃいいじゃないか。交通費は大学が出してくれるぜ」

 当のピートはベッドに寝そべりゲームをしている。僕とケンドーが見つめているのに気が付いた彼は「次は今月末だよ」と言った。

「こいつをどうするかって決めているのか?」とケンドーが尋ねる。

「何も決めちゃいないさ。本当なら生物学科の棟に持って行って見せるべきなんだろうけど、それはなぁ、どうするのが正解かって僕にはわかんないな」

「どうして?見せりゃいいじゃないか。明らかに新種だろう。ピート、これは大発見だよ」

 ケンドーが竜に向ける瞳は慈しみの情緒を含み始めていた。竜は僕たちがずっと彼について話しているこの状況を理解していないようで、とろんと空を見つめている。鼻先に置かれたペットボトルキャップの水は全く減らないままだった。飲まれた形跡はない。ピートがこれからどうやって竜を飼育していくつもりなのか、見当もつかない。

「竜がみつかったとなれば本当に大発見だ。ニュースになればあそこに人が集まるぜ。そうなると、竜という種そのものの存続が危うくなるし、あの村の原始的な文化も変わって行くだろう。これまでこいつらが見つかっていなかったのは、数がとても少ないからなんじゃないか」

 やがて表層に浮かびつつある現実が、竜の神秘性を打ち消し、目の前にいるが故にその生物は人間に対処し得る現象として受け取られ始める。

「確かにこの生き物を守るためには隠しておくのが一番かもしれないな」

 ピートが次に村へ調査に行くのは月末の三連休で、その時は僕とケンドーも付き合うことになった。竜は、それまでどうにか飼育して、卵のあった森に返そうと三人で約束した。

 その日から授業が終わるごとに、我々はピートの部屋に集まり夜まで竜の世話をして過ごした。スーパーマーケットで果物、肉、魚と片っ端からあれが食べそうなものを思いつく限り買って帰って、食わせようと試みた。しかし、竜は一度グァバに噛みついたきり、何も食べず、一週間後に衰弱して死んだ。三人のうちひとりとして、羽ばたく姿を見たものはいなかった。

 結局分かったのは、竜はグァバに噛みつくことと、しかし食べはしないこと、そしてスーパーで買ってきた他の何かに興味を示すこともない、ということだけだった。ピートは特にひどく悲しんだ。あの森から卵を持ち帰ってきてしまったことを後悔しているようだった。ケンドーは竜に出会ってから毎日、記録をiPadにつけていた。大した生態こそわからなかったものの、その姿や挙動を細かく残していた。彼は「死ぬまでにどうしても竜がはばたく姿を見たいのだ」と言った。

 一匹の竜が死に、我々はそれを死なせたことを悔い、やがて明確に存在した竜を過去として実感するようになった。いずれもが、この出会いを無駄にしてはならないと決心していた。また、竜の消滅は同時にその神秘性を再び増長させることになった。竜は手の中にある現実ではなく、実感のない遠い現実に戻って行ったのだ。それは一度触れたことのある遠い現実になったのだ。

 聖獣が我々の前に姿を見せたことが、どういう真意を含む啓示なのかは判然としなかったが、なにか意味のあることなのだと僕は予感した。ピートはこう言った。

「僕が卵をバンコクへ持ち帰ろうと思ったのは、卵から産まれるあれの姿を、僕たち三人の人間が目の前で確かに見る必要がある、と竜が決めたからなのかもしれないね」

 死骸は腐らず、日に日に少しずつ固く干からびていった。そして、その色彩と神秘は決して失われず、むしろ日ごとに増していくようだった。

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