二 僕と田中と山田と

――例えばSという少女がいる。少女が分裂すればそれは§と表され、二つに割れるか串刺しになればそれは$と表される。横になれば∽と表され、それら全てが一人の少女を示している。僕とはつまり、この逆であるといえる。(作者不明の奇書『少女S』より)


「僕は過去からやってきたんだ」

と、田中はいった。

 田中はえらく変わったやつで、田中という名前の割にちっとも田中らしくなく、かといって田中以外の何に例えるのだと問われれば、うっと言葉に詰まってしまう。そんな田中に出会ったのは生まれて初めてだったので、僕はすっかり動揺していた。

 そこへ来て、この発言。

「何だって!」

 僕は驚いて聞き返した。

 後から考えればそれは驚くべきことでも何でもなかったのだけれど、そのあまりの田中らしからぬ田中に心を乱されていたから、僕はすっかりその術中にはまってしまったのだ。

 こんな小細工を仕掛けてくるあたり、いよいよ田中らしくない。やはりこいつはただの田中じゃないぞ、とそんなことを考えながら、僕はいつしかこの奇妙極まりない田中という男と一定の関係を築きつつあった。

「僕は正義の味方なのさ」

 昼休み。田中はニヒルな笑みを浮かべながらそういった。

「君は正義というものを信じているかい?」

 うん、と僕は答える。すると、田中はこういうのだ。君は田中の友人にはふさわしくないな、と。

 だったらなんで話しかけたのだといいたくなる。もちろんいわない。どうせ訳のわからない横文字の弾幕で、煙に巻かれるだけだろうから。

「なあ田中」

と、代わりに僕は話しかける。

「僕が田中だなんてひどい思い違いをしてるぜ」

 田中は目を見開いて、いった。

「まあ、田中ではあるんだけどね」

 こんな調子だから、田中の話をまともに聞くやつなんているはずがなかった。

 クラスメイトは田中の発言だけを綺麗に無視して、教師はチラリと目を向けるだけでやはり無視した。

 それを見て田中は、

「なるほど。年をとると無視するのが下手になるらしい」

と、新たな発見に手を叩いて喜んでいるのだから始末に終えない。

 そして休み時間になると、田中は一目散に僕のところへ来て、この発見についてたっぷり小一時間語りかけるのだ。次の授業が始まってもお構いなしに。

 田中の発見の中には、おっと思うものがないでもなかった。もともと不完全ながら田中の性質を持っているのだから、当然といえば当然だろう。

――例えば目玉焼きが内包する宇宙について。

――例えば弁当に隠された円周率について。

――例えばラテアートの社会的側面について。

 突き詰めれば博士論文ができあがりそうな大層な話は、けれどそれ以上発展することなく放棄された。

 飽きっぽいのだ。田中だけに。

 かくして田中は僕以外の友人を作ることなく――作ることができなかった、ともいえる――、ただ頭の中で妙ちきりんな理論をこねくり回す毎日を過ごしていた。

 別に悪いとはいわない。

 ただこれがちっとも田中らしくないことは誰の目にも明らかだし、何より田中を名乗ることへの責任を果たしていないから問題なのだ。

 本人もそれは自覚しているようだった。

 僕が田中の田中というおよそ田中らしくもない田中に与えられた姓について言及すると、田中は居心地悪そうにあたりを見渡し、こういうのだ。

「本当のことをいうと、僕は山田になりたかったんだ」

 笑ってはいけない。当人にとっては切実な問題であり、山田になれなかったことは田中の人生で最大の不幸だったともいえる。少なくとも田中よりはずっと田中の性格に合致しているし、何より山田は寛容だ。多少の破綻は見逃してくれる。もしも田中が山田だったなら、今よりずっと丸くなっていただろうことは想像に難くない。

 不幸だったのだ。固有名詞的な田中も、それを集団の一員として受け入れる羽目になった一般名詞的な田中も。

 僕は田中の肩に手をやって、慰めてやる。田中はうふんうふんと涙を流しながら、「山田は三つのひらがな」とかいう古くさい曲を歌う。

 田中はいつもこんな調子だ。


 そんな田中に異変が起きたのは、ある夏の日のことだった。

 いつも通り登校した僕は、席に着く間もなく田中に話しかけられた。

「僕は佐藤かも知れない」

 そう、深刻そうな顔でいうのだ。僕は戦慄した。

 生まれてこの方、佐藤というものを見たことがなかった僕は、あくまで漠然としたイメージしか持っていない。けれどもいわれてみれば、田中の特殊性は佐藤と名乗るにふさわしいかも知れなかった。

 だけど……、と僕はいう。

「佐藤なんて見たことないぜ」

 いつからだろう。佐藤がこの世から姿を消したのは。僕が生まれる三十五年前――可逆的な時間の単位で表すならば、二百九十五郷前には、既に佐藤は絶滅していたはずだ。

 思えば姓というやつは、別の姓を持つ者同士が結婚するたびに片方が消えていく奇妙な法則を持っている。ならば代を重ねるごとにそのレパートリーは減少し、いつしかたった一つの姓に統一されるのかも知れない。どの姓が残るか――。さながら戦国時代のように。

 こんな単純な発見を、田中が見逃すはずがなかった。――もちろん、普段の田中ならば。

 けれどその日の田中はいつにも増して田中らしからぬ様子で……むしろ佐藤に近いような気さえした。

「僕は田中じゃないんだ」

 うわごとのように繰り返すと、田中はふらふらとその場を離れ、屋上まで上ると、そこからひょいと飛び降りた。

 全く田中らしからぬ挙動であることはいつも通りだけれど、それが話に聞く佐藤のイメージにあまりに合致するものだから、僕も無視を決め込んでいた教師も、思わず声を上げてしまった。

「アレは一体何だね」

 教師はうなる。

「まるで佐藤だ」

 生徒たちは相も変わらず、どこか外国のアイドルユニットの話題に花を咲かせていた。

 連中の無視は、全くたいしたものだ。田中が田中汁をまき散らしてスカートや上着を汚しても、服の内ポケットからはみ出た佐藤が足に絡まっても、何もないかのように振る舞っていたのだから。

 田中だか佐藤だかわからないソレは、事務員さんの手で教室に返却され、それっきり動くことも話すこともしなくなった。

「なあ、田中」

と、僕は話しかける。答えはない。

「いや、佐藤かな」

 ピクリ、と眼球が痙攣した。

「違う、山田だ」

 満足そうに、鼻をヒュッと鳴らす。

「君は結局のところ、何者だったんだろうね」

 窓から差し込む夕日が、内側から染み出した佐藤に浸食されつつある田中の頬を照らす。

「僕は、何となく見当がつくぜ」

 興味深そうに、まつげが僕の方を見る。

「君は何者でもなかったんだ。……ただ、自分が何者なのか決められなかっただけで」

 田中の胸から、ひょいと山田がのぞいた。緑色の、優しそうな山田だ。

「いいかい。君は田中に縛られる必要なんてなかったんだ。田中でも山田でも佐藤でもいい。そんなものに捕らわれず、君は君らしくいればよかった。君はそんな取るに足らない小さなことに気づかなかったから……、君はそんな田中になってしまったんだ」

 いつからか感じていた、田中の、田中らしさ。田中であるが故に田中らしいことは当然かも知れない。けれど田中は違う。田中の規格から逸脱したアブノーマルな田中であるはずの田中は、心のどこかで田中であろうとしていた。自らに課せられた田中という運命から、逃れることを恐れていた。

――山田になりたい。

――けれど、自分は田中だ。

 そんな煮え切らない思いが、いつしか田中を「田中ではない何か」ではなく「田中らしくない田中」にとどめていたのだ。

 僕はいう。

「君は田中でありたかった。だって不安だものね。田中ではない何かになるのは。まるで自分が何者でもないかのような気がする……」

 彼の目が、ふと開いた。

「だけどそれは違うんだ。田中であることと君が君であることは別なんだよ。君が田中でなくなっても、君が君であることは変わらない。田中でなくたっていい。山田になれなくたっていい。佐藤だってかまわない。君は君なんだ。固有名詞としての田中であることは揺るぎない事実なんだよ」

 田中は目を覚ました。

「眠っている間に面白いものを見つけた」

 いや、もはや彼のことはこう呼ぶべきだろう。


――藤原、と。

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