第227話「以上全て、数年前までの話だ。」
氷結山脈はイグリア帝国有数の危険地帯とされている場所である。北方のドワーフ王国との道を塞ぐ、山頂付近にとけることの無い雪を頂いた高峰。そこに住まう魔物は強力であり、並の剣士や魔法士では遭遇したら死を覚悟せねばならない。
なにより、氷結山脈の麓には魔境と呼ばれる地元民の寄りつかない危険な地がある。
全くもって、立ち寄ることが理に適わない地域。それが氷結山脈とその周辺。
以上全て、数年前までの話だ。
少なくとも麓の魔境については正式にイグリア帝国領となって今では人と行き来がある。
魔物の住まう氷結山脈が危険なのは変わらないのだが、そちらも以前とは少し事情が変わった。
「よーしよしよし。こっちだよー」
俺の前には不適な笑みを浮かべ、細身の剣を構えたクレスト皇帝。
対峙しているのは巨大な猪……に見える魔物だ。猪に見えるのは外見だけ、中身は別物。その証拠に、体の端からうねる触手のようなものが見え隠れしている。
動物に寄生して巨大化していく特殊な魔物だ。珍しい上に、非常に厄介な存在である。
しかも今回その寄生先は山の主かと思わせる巨大猪。普通なら一対一で戦っていい相手ではない。
小柄な皇帝とだと大きさの対比が凄い。一踏みで終わりそうだ。
「…………!!!!」
「……来たぁ!」
無言で体を震わせ、巨大猪が突進。その巨躯を生かした突撃は高速かつ凶悪だ。触れただけで体が吹き飛ぶ。
「アアアア……!!」
耳障りな雄叫びと共に、体の各所から触手が伸びて皇帝を捕らえにかかった。それぞれが意志をもって鞭のようにしなる。見た目の不気味さも、威力も洒落にならない。
「ほいっ」
なにをどうしても死ぬであろう攻撃を、クレスト皇帝は気軽なかけ声とともに躱した。
まるで綿毛のように、ふわりと空中に大きく飛び上がったのである。
魔剣の力だ。手にもつ細身の長剣が強力な魔力を発揮している。
さすがは皇帝、これは相当な魔剣だ。剣から攻撃を放つだけで無く、使い手が常に魔法に包まれているような状態を作り出している。
恐らく、風の魔法の力なのだろう。飛び上がった皇帝は魔物の真上に簡単に到達。
しかし、そこに触手の追撃がある。やわらかそうに見えて、強力な貫通力をもつ武器だ。
「おー、こわっ」
皇帝が軽く剣を一振りすると、剣が輝き、風が起きた。
猪の魔物を包み込むように魔力の竜巻が局地的に発生。触手がバラバラに切り裂かれる。
体の方は少しは丈夫らしく、そちらに目立った被害はないが。
「ほいっ。……おしまい!」
魔力の竜巻が消えた後、真上から飛来した皇帝の剣が巨大猪の背に突き立った。
大きさ的に巨獣に対しては針の一刺しにすぎない。だが、そこは魔剣だ。次に起きた現象で、皇帝の言葉は真実となる。
「……アァ!!」
くぐもった呻き声と共に、魔物が内側から破裂した。
「さすがだな」
「ひぇ……」
「お見事です!」
剣先から流し込まれた魔力で内側から吹き飛ばされたということだろう。恐ろしい攻撃だ。斬られたら終わりみたいなものだな、これは。
「ふぅ。なかなか緊張感あったわね。賢者アルマス、次は?」
軽く汗をぬぐうような仕草をしてから、皇帝が聞いてくる。飛び散った肉片をまるで浴びていない。彼女の技術の賜物と言うことだろう。
氷結山脈に入って半日。魔物の多そうな地帯を見つけてから、ずっとこの調子である。
危険だったはずの氷結山脈が、今では狩場と化している。治安的には良いことだが、帝国の皇帝とか重鎮がそれをやっているのはいいんだろうか。
「少し東に行ったところに、小さめの個体が複数いるな。狼系の魔物だと思う」
「うん、いいわね。それを狩ったら帰りましょ。今度はアイノにもやってもらおうかな」
「は、はい!」
「では、私がまた囮役ということで!」
元気よく返事するアイノとマイア。同行している側近ともども、基本的には見学だが、たまに出番がある。
どうやら皇帝はアイノの身体能力を確認したいらしい。最初は普通に魔物に差し向けようとしたが、それはさすがに俺が止めた。
「じゃあ、これとこれと……」
指示を受けたアイノが辺りの石を拾い集めはじめた。
腰に剣を佩いているものの、今のアイノに魔物と対峙するだけの技量は無い。戦闘方法は俺やマイアが動きを止めたところへの投石だ。
「今更ながら石というのも油断ならないものですね。もしアイノさんが石を投げてきたら、私は全力で逃げます!」
「昔から投石は有効な戦術だからな」
身体強化をした上で行うアイノの投石は、洒落にならない威力を持っている。体内の魔力で丈夫になっているはずの氷結山脈の魔物の頭が吹き飛ぶほどだ。その威力にアイノが驚いていたが、これはおいおい慣れてもらうしかないだろう。
「いやー、普通な子だと思ってけど、思った以上ね。やっぱり面白いわ。聖竜領」
ご機嫌な皇帝に続いて、俺達は植物の少ない山道を行くのだった。
ちなみに今日はこの後、野営である。
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