第186話「聖竜領の領主からのありがたい申し出に、俺は心の底から礼を言った。」
その日の夜、俺は屋敷に用意された自分の部屋でゆっくりと時間を過ごしていた。
聖竜領の夏の夜は比較的涼しい。とはいえ暑さの苦手なサンドラは今年も俺に冷房の魔法を依頼してきて部屋に設置している。体力回復のためにも安眠は大事だ。
「そろそろ夏も終わるか……」
今日は窓を閉じていても良いくらいの気温だった。単純に夏のピークを過ぎたのだろう。室内に設置する魔法が暖房になる日も近そうだ。
魔法具で作られた明かりに照らされる室内で、窓から机へと視線を戻すと、目の前の書き物に戻る。
そこに広がるのは大量の書類。沢山の計算式や魔法陣が並んでいる。
冬から時間を見て続けている、アイノを救うための魔法の研究だ。
ロイ先生にユーグ、それにサンドラの協力も有り、研究はかなり進んでいる。
魔法の種別としては精神防御。目的は聖竜様がアイノの魔力を浄化する際に、その余波で心まで影響が及ばないようにすること。
実験として俺が魔法を発動し、ロイ先生が特製ポーションを飲むというものを繰り返している。
その結果が、最近は良好だ。屋敷内に奇声が響かなくなった。
このままいけば、眷属印のポーションを原液そのまま飲んでもロイ先生は無事だろう。
そうすれば、魔法の道具による精神への影響を防げたと言えてよいはずだ。
『遂に完成じゃのう……』
『そうですね。これで上手くいくかどうか……』
『上手くいくと思うぞい。そもそも、浄化の力はワシが調節できるしのう』
聖竜様がアイノに使っている浄化の力は、以前見た遺跡の技術を利用してかなり効率化している。その上でこの魔法を使えば一気にアイノは目覚めるはずだ。
『調節ですか。聖竜様の力の影響は俺でもわかりませんしね』
『まあ、なんじゃ、ワシを信用するが良い』
『世界で一番信用していますよ』
これ以上頼もしい存在はなかなかいないと思う。本気で。
『うむ。褒められるとやる気がでるのう。もう魔法はほぼ完成しておるように見える。お主の覚悟が決まったら、実行にうつすが良い』
『はい。そうさせてもらいます』
心の中で何百回めかわからない感謝と畏敬の念を込めて、俺は聖竜様に返事をした。
準備は進んでいるが、今日すぐに実行というわけにはいかない。
そう思って書類を片づけようと思ったとき、部屋のドアがノックされた。
「サンドラ達か、入ってくれ」
外の気配から察するにやって来たのはサンドラとリーラだ。
ドアが開くと予想通りの二人が見えた。リーラの方は小さな籠を持っている。
「こんばんは。きっと今日も作業をしていると思ったので差し入れにね」
「それはありがたいが、サンドラの方も遅くまで仕事をしているだろう?」
「ですので、お二人とも休憩です」
そう言ってリーラが室内のテーブル上に置いたのは暖かい紅茶とアップルパイだった。こういう時のためにトゥルーズに作ってもらっておいたものだろう。
「ありがとう。いただくよ」
「リーラも食べればいいのに」
「お気になさらず」
一瞬だけ笑みを浮かべて言ったリーラはそう言うと、壁際に下がった。俺達に好きに話せと言うことだ。
「妹さんを助ける魔法、もう完成なのよね? 最近はロイ先生の叫び声が聞こえないから」
「ああ、おかげさまでな。ロイ先生には大分負担をかけてしまった」
「あれはあれで本人が望んでいるからいいと思うの……」
冷静に考えると自分から人体実験に志願してるみたいでロイ先生は凄い。今度何か差し入れを持っていこう。
「目覚めさせるのはいつぐらいに秋でいいのかしら?」
サンドラには以前から研究の進捗と共に『秋ぐらい』と時期を告げていた。だから、その質問に驚きはない。
「今のところ、そのつもりだ。ちょうど仕事が一段落する収穫祭の辺りを考えている」
「いいわね。きっと賑やかになるわ。でも、住むところなんかの準備はまだよね?」
「そこが悩み所だ。今年は忙しくて予定していた家の増築ができていない。住む場所の問題が出てくるな。それに、すぐに冬になるのもどうだろう」
生活用品なら少し時間があればどうとでもなるが、建物となると話は別だ。今からどうにかして家の増築を開始すれば、秋の終わりにはアイノの部屋ができるだろうか?
「春まで延期するのもありだと思うのだけれど。来年はもう少し落ち着いているでしょうし」
「それはそれでありかもしれないな……」
返事をしながら、サクサクとパイ生地を切り分けてアップルパイを口に放り込む。うん、うまい。
「思ったより落ち着いているのね。待ちに待った瞬間なのだし、もっと焦っているものだと」
俺が普通に応答したのにサンドラが少し驚いていた。
「急いでいないと言えば嘘になる。しかし、今更急いでどうするという気持があるのも事実なんだ。だいたい、こういう詰めの作業の時に焦るとろくなことにならないしな」
家に帰るまでが戦争だ。帰り道で酷い目に遭った経験が何度もある。
特に今回はアイノのことなわけだし、慎重になっても損はない。
「なんにせよ、贅沢な悩みだ。だから、頑張って考えてみるよ」
治療が絶望的な難病、存在が疑わしい六大竜の探索、いつ終わるかわからない治療、それらと向き合っていた時期と比べれば、今がどれだけ恵まれた時間か。計り知れない。
「そうね。この悩みは、アルマスのものだもの。きっと、良い結果がでるわ」
俺の意志を尊重する、サンドラはそう言ってくれた。
いつの間にか夜食を食べ終わっていた彼女は紅茶のカップを手に取ると、一言こう付け足した。
「でも、困ったらちゃんと相談してね。協力は惜しまないから」
まっすぐに俺を見るその目は、真摯そのもの。彼女の本心からの申し出であることは、疑う余地も無い。
出会った時と背丈はそれほど変わらないのに、佇まいはしっかり成長しているな。
「ありがとう。頼らせてもらうよ」
聖竜領の領主からのありがたい申し出に、俺は心の底から礼を言った。
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