少女とソムニウム

明乃ゆえ

Prologue 交差

 闇の中を、ただひたすらに駆ける。駆ける、駆ける、駆ける。終わりはない。救いもない。

 足と足が絡まって、転びそうになる。喉の奥で血の味がする。耳のすぐ傍で、不明瞭な何かが風のように囁いた。

「お前は失敗した」

「お前は殺しすぎた」

「お前はもう死んだ」

 頭が、痛い。肺がちぎれそうに冷たい。助けて、と声をあげられない。

 何故なら、聞いてくれる人がいないから。

 急がなくては、の元へ、帰らないといけない。

 そうしないと、わたしが生きる意味は消えてしまう。わたしが、わたしである意味が終わってしまう。

 神様はいない。幸せは落ちていない。

 いるのは何処までも汚い大人と自分の利益のために手段をも厭わない悪人で、落ちているのは打ち捨てられた動物の死骸ばかりだ。

 わたしは失敗した。何も為すことができず、ただ彼の優しさに甘えてしまった。

 わたしは、確かに殺しすぎたのかもしれない。けれど、長い時が経ったばかりか、今更どんな感触も覚えていなかった。


 ……わたしは、死んではいない。


 まだ地の底を這っている。命は生きることにしがみ付いて離れない。どうしても、生きていたかった。

 走って、走って、苦痛に壊れてしまいそうでも、生きたいと思ってしまった。

 わたしのたった一つの祈りは、普通の生活を繰り返せる、安寧の日々を生きること。

 神様はいない。

 だから、わたしには、が必要なのだ。


 *


 最悪だ、と思わず声が出そうになった。

 何が魂の重さは21gだ。

 可視化できないものを恐れ、その透明に言葉という色を無理に塗りたくる人間は馬鹿だと思う。

 私から21gという概念が取り除かれたところで世界はエラーを起こさないし、そもそも死は救済の対義語ではない。私の命は既に私のものではなくなった。有機物でもなくなってしまった。

 目の前のことにのみ縛られていた思考が、裁断機のように動き出し、言葉が散らかる。

 唯一、文脈を保っているものが喉の奥に張り付く。


 死のうとしていたのに助けるな。


 声にしようとして抑え込んだ言葉。


「大丈夫?危ないよ?」


 重力に体を預け、投身しようとしていた私の手が背後から掴まれ、浮いていた踵が地につく。

 振り返ると、疑問符を浮かべた少女の大きな瞳が、建物の屋上特有の開けた青空に負けじと澄んでいて眩しいと思った。

 彼女は私と全く同じセーラー服を着ている。小柄で身軽そうな身体や高めの二つ結びに、高校生にしては幼い印象を受けた。


「何してたの?」


 これまた太陽にも負けない笑顔で少女は私に問う。危ないよ、とか、何をしいてたのか、とか見れば分かる。


「自殺」


 彼女の手を振り払い、低くて頼りない柵越しに、私ははっきりと意志を伝えた。

 私は自らの命を捨てようとしていました。学校からほど近く、何か月も前から目星をつけていた廃ビルの、腐った柵を乗り越えて、一歩、空中へ足を踏み出したのです。それなのに、どういった訳かあなたが引き留めた。顔も名前も知らないあなたが。


「そっかー、……もしかして、止めたらダメなやつだった?」

「……当たり前じゃない」


 少女の、この世の汚れを何も知らないような笑顔とか、善意で満ち満ちた瞳が、私の気持ちをより急き立てていく。握りしめた両手の震えが止まらなかった。


「えっと……、ごめんね。でも、あなたが……、名前、何ていうの?」

「……」

「私は白本琴音っていうんだけど、えーっと……そんなことはどうでもよくて!私も学校の帰り道だったんだけど、同じ制服着たあなたがあまりにも思いつめた顔をしてこのビルに入っていって、そしたら屋上のふちに立ったものだから、びっくりしちゃって」

「もういい」


 学校が同じであるからか名前はどこかで聞いたことがあったが、顔も知らぬような他人が私を助けた理由なんて、興味がなかった。怒鳴ってやろうかとも考えたが、そのような気も失せた。

 いまの私にとって、『死ねなかった』というその事実だけが最も重要だった。

 私は屋上の柵を仕方なしに跨ぎ、安定した場所へ戻る。真摯に私と目を合わせて話そうとする少女を屋上へ置き去りにして、ビルを後にした。

 今日のところは諦めて、また明日から考えよう。

 生憎、私が生きることを選び続ける限り、死へ至る選択肢は山ほど存在している。

 反省として、もっと人目につかない場所を選ぶべきだった。学校の近くはやめにしよう。投身自殺そのものを廃止にして、別の方法をとれば良いのだろうか。だとしたら何が最適解になるのか。

 世界から見たら些細で馬鹿げた計画を頭に描きながら、私の足は帰るべき場所へ歩みを進めている。


 *


「ただいま……」


 ドアを開けると、暗い玄関の灯がつく。奥の方から、人影がこちらへ駆け寄る。


「おかえり友梨!どうしたの、遅かったじゃないか!」

 世間的には小学生だと間違われてもおかしくない見た目の、少女。身長差を利用して私に勢いよく抱き着いてくる。

 彼女は、少々事情の込み入り過ぎた、私の保護者的立場の。……ということで自己解決している。そうでもして事象を簡略化していかなければ、私の頭はとうの昔にパンクして駄目になっているだろう。


「そう」

「いつも以上に暗い顔して……もしかして、また死にたくなった?また死のうとしてきた?……駄目じゃないか、ぼくの居ないとこでそんな!」

「そんなの私の勝手」

「違うよ、友梨の体は、君だけの物じゃないって何回も言っているだろう?勝手にされたら困る」

「私を死にたい気持ちにさせているのは、いつもアンタ」

「それは、ゴメンって」


 この通り、と手をあわせる彼女に、何の感情も感じられなかった。いつものことだとは分かっていても、嫌になる。


「私は私だけのものだよ」


 そう言った自分の声が強張っていたことに、驚く。何を恐れているのだろう。

 途端、手首を掴まれた。そこには、まだ屋上の彼女に掴まれた感覚が残っていた。


「君に限りそれは違う。ね、友梨、悪く思わないでよ。君はぼくの物でもあるし、君の体はちょっと特殊だって何回も言ったじゃないか。それに死ぬときは、ぼくが殺したげるからさ、その時まで我慢してくれない?」

「……夕飯つくる、離れて」


 冷蔵庫には何があっただろうか。

 また、私は私に対して臆病になり、日常へ戻ろうとしている。

 否、この生活すら気味が悪いほどに日常から乖離していて、どこが非現実との境目かを見失っているというのが正しい。戻れているのか、私自身には判断がつかない。

 まだ覚束ない身体を引き摺るような心持で薄暗いキッチンに立つ。真っ先に左手で包丁を手に取る。いつもよりも、随分と軽く感じられた。

 目の前に右手の人差し指をだし、切っ先を滑らせる。

 赤がゆっくりと滲み、痛みよりも先に、傷口がふさがり、何事もなかったかのように元に戻る。


 私は、半ば人間の矜持を手放していた。


 何の感情も湧かなかった。



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少女とソムニウム 明乃ゆえ @sakuha

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