「月の夢」

 夢を見る。そこはすすきの原で、風に揺れるそれらを月が照らしている。月はいつも満ちていて真円を形どっており、その完璧な丸さを観察しているうちにこれは夢なのだと気がつく。現実では無い世界を意識すると途端に精神が明晰になり、今迄ぼやけていた視界がはっきりとして、曖昧だった物体の境界線を認識するようになる。地を踏む感覚をとりもどしてやっと、自分がそれまで宙を浮いていたことに気がつく。世界に物理法則が持ち込まれた。重力を感じて、現実世界と夢の世界がシンクロしたことに安心する。そういった具合に、得体のしれない世界に自分の常識を少しずつ持ち込んでいく。重力の次は、呼吸を。呆れたことに生物には酸素が必要だという常識すら頭から抜けていた。気がついたとき、パニックに襲われた。必死に呼吸をしようと集中するが、息をするために必要な器官が思い出せない。仕方がないので呼吸を放棄して、心臓で酸素を生産する。断片的な知識に夢の命を救われたが、これが正解ではないと何故か知っている気がした。


 滑るようにして歩いていく。右足を出して、左足を出す。そうすれば歩けることを知っていたが歩幅と進んだ距離の計算が合わない。だから滑っているようだと表現した。歩くことに理由はない。仮にあったとして今は思い出すことが出来ない。夢とはそういうものだ、いつもその時になって、それらしい理由を思いつく。必要になればそれに応じて世界が変化する。


 沢山の時間が流れた。それでも月はまだ動かない。一度立ち止まることに決めた。理由がないなら歩く必要がないことを思い出す。ふと顎を上げて空を観察したくなった。天体は月以外には見つからない。きっと月が明るすぎるためだろう。

 目を地上に戻すとそこには古くて小さな箱型のレコード装置が置かれていた。レコード装置には黒い円盤が載っている。装置は針に触れると勝手に動き始めた。円盤が回り始める。


 装置は歌い始めた。


わたしを月まで連れていってフライミー・トゥー・ザ・ムーン


 歩く理由ができた。大したことではないかもしれないが。

 装置を持ち上げて、月の方角を目指して歩き始めた。装置はまだ歌い続けている。地面はもう必要ではなかった。もし、呼吸の仕方を思い出すことが出来たなら。歩きながら、この歌を一緒に歌おうと考えた。

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