第36話 開かれたドア
静まり返った廊下に、
「ううん……」
とかすかなうめき声がして、サオリが体を起こした。眠ったまま危なっかしいので上着を脱いで敷物にし、寝かせてやっていた。
「サオリちゃん、大丈夫?」
床に膝をついたヒロが腕を取ってサオリを座らせてやった。
「……トモは?…………」
冷たい床の感触に自分が現実の世界に帰ってきてしまったことを悟り、サオリは絶望し、すさんだ顔で尋ねた。
その問いにヒロは上を指さした。
閉まったドアの上に、
「手術中」
と、ランプが灯っていた。サオリは目を丸くして驚き、改めて強い声でヒロに訊いた。
「トモはどうしたの? トモは、だいじょうぶなの!?」
「大丈夫…みたいだよ? 先生がそう請け負っていたから」
「先生は……?」
「中に入っていった。トモを幸せにするのは自分だって。自分と自分の分身が犠牲になって、トモキ君の性別適合手術をするつもりなんだろう」
「そうなの……、先生が…………」
サオリは複雑に、ちょっと悔しそうな顔をした。そうしたサオリの顔を見るヒロも複雑だ。
「思うんだけど、先生は最初からこうするつもりだったんじゃないかな? 全部計画通りで」
沈黙の後、サオリが言った。
「なんのために?」
「トモキ君と、俺たちに、すべて納得させるために。先生は、トモキ君が無事に手術を終えて現実世界に戻ってきた後のことまで考えて、そうしたんじゃないかな? 俺たちがちゃんとトモキ君の身に起こったことを理解して、トモキ君の心を理解して、しっかりと支えになってあげられるように」
「……かっこよすぎるわよ……」
「そうだな。男らしすぎるな。かっこつけすぎだよ」
ヒロは元気なく微笑んだ。胸は熱く感動しているのに、表面には悲しみしかわいてこない。涙が出そうで悔しい。
「あ、そうだ、鈴音ちゃんに電話しておいたよ。石田の奴を無事見つけたって。グーグーのんきに居眠りなんてしてやがったって。……こっちがアパートまで送っていけるようになったらまた連絡するって言ってあるんだけど……」
石田は廊下に転がってグーグー眠っている。起こそうとしたが、よっぽど薬が脳の奥深くまで効いているのか、まるで起きそうもなかった。この分では3日間くらい眠り続けそうだ。ここで目を覚まされてもせっかくの雰囲気が台無しだから眠っていてくれてありがたいが。自分たちの体をぬるぬるに濡らしていたピンクの粘液だが、表に出てきてから急速に乾いて消えてしまった……感触は濃厚に肌に残っているけれど。
「じゃあ鈴音ちゃんが心配してるからこいつを運んでくるけど……、サオリちゃんは?」
サオリは首を振った。
「ここにいる」
「うん…。懐中電灯、置いていくから」
電池が心配で消しておいたのをサオリが目を覚ます気配につけて、床に置いてある。
「いい。足もと危ないからヒロ君持っていって」
「そう。じゃあ借りていく」
ヒロは懐中電灯を取り、どっこいしょと石田を背負った。まったく怪我人に何させやがるんだと心の中で悪態をつきながら。
「じゃあ待っててね? すぐ戻ってくるから」
「うん……」
心残りだがサオリもしばらく一人でいたいだろうと思って、ヒロは階段に向かった。まったく、ひどい重労働だと文句を言いながら。
アパートへの道のりより石田を車まで運ぶのに手間取り、けっきょく1時間近く掛かって石田のアパートに到着した。その前で待っていた鈴音と協力して石田を部屋のベッドまで運びあげて寝かせ、また石田の車で病院の麓まで戻ってきた。帰りは鈴音が運転していき、ヒロももちろん免許だけは持っていた。礼を言う鈴音を手を振って送り出し、すっかり町の灯も消えて4割り増し星の輝く夜空をバックに魔法の塔のようにそびえる病院目指して坂を上っていった。
サオリは出ていったときと同じ手術中のランプを見上げられる横の壁に背中をつけて座っていた。
「ただいま。あいつんちにいいのがあったから拝借してきた」
ランタン型のLEDランプを前に置き、タオルケットを差し出し、
「差し入れ」
とコンビニのビニール袋から温かいお茶の缶を取り出して渡した。
「ありがとう」
「おにぎりとパンも買ってきた。お腹空いただろう?」
サオリは首を振り、笑って、やっぱりうなずいた。ヒロはとなりに座って、袋の口を広げて見せた。
「お好きな物をどうぞ」
深夜で数がなかったがサオリが好きそうな物を見繕ってきた。
「ありがとう」
サオリはおにぎりを取り、海苔を巻いて食べ始めた。ヒロもおにぎりを取って食べた。
トモキの手術はもう3時間続いている。
おにぎりを食べ終わったサオリは
「いいかな?」
とヒロの肩に頭をもたげてきた。タオルケットをヒロの肩にも回して二人でくるまった。
「こういうの……、嫌かな?……」
「ううん。どうぞ、好きなだけ甘えていいよ」
サオリは思いきったように全身の体重を預けてきた。サオリが頭を載せたのはヒロの右肩だったが、やっぱり左腕がうずいた。これまたシャツを石田の所から拝借してきた。下着のシャツを裂いて傷口をぐるぐる巻きにしてきたが、朝になったら病院でちゃんと診てもらわなくてはならないだろう。今は傷のうずきがセンチメンタルに心地よかった。サオリも失恋の気分を味わっているはずだ。ぎゅっと抱きしめられ、「君が好きだ」と囁きかけられたいのかも知れないが、ヒロにはそれは出来なかった。ヒロのサオリへの思いはそんな安っぽい物ではないのだ。今は言えない。でも、時が来たらもう一度はっきり「君が好きだ」と言おうと心に決めた。「君を、悲しみで死にたいくらい、愛してる」と。
時間が経ち、空気が白んできた。
肩にもたれたサオリはいつしか疲れて眠っていた。ヒロもうつらうつらしながらぼんやり「手術中」のランプを眺めていたが、ハッと、いつしかそれが消えているのに気づいた。
「サオリちゃん、起きて! 手術が終わってる!」
サオリはビクッと顔を起こし、きょろきょろしながら、思い出してハッとランプを見上げた。
ギイ、とドアが開き、二人は立ち上がった。
ギイイ、とドアが両側に開き、緑色の手術着に帽子と大きなマスクをした人物が現れ、二人ともギョッとした。
医者はドアを片方ずつ完全に開放して固定し、二人の前に大きく入り口が開け放たれた。
「手術は成功です。おめでとう」
やたらと綺麗な目をした小柄な医者にそう言われ、中へどうぞと手で示され、その正体が気に掛かりながらもヒロとサオリは中へ急いだ。
手術台の一つに白いシーツを掛けられトモキが寝ていた。
シーツの胸がゆるやかに上下している。静かな顔で、眠っている。
ヒロはドキドキしてシーツの下のトモキの体を眺めた。
「どう……なのかな?……」
反対側からトモキの顔を覗き込んでいたサオリが、意を決して、自分の側だけそっとシーツをめくってトモキの体を見た。チラッと見えた肩は、裸ではなく患者の白い簡単な服を着せられているようだ。ヒロの視線をムッと睨んで、サオリは下半身を慎重に調べた。
「ど……どう?……………」
ドキドキして尋ねると、サオリはじいっと手を差し入れたシーツの中を凝視し、シーツを下ろすと、ようやくヒロを見て、
「女の子……」
と言った。
「トモの体……、女の子になってる…………」
ヒロも目を丸くし、ハッと、
「先生っ!」
と廊下を振り返った。朝の白い光の充満する廊下に人影はなかった。
チュンチュンと雀のさえずりが聞こえる、絵に描いたような爽やかな朝だった。
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