第35話 赤いドア

 先生の車で光済病院の門前に到着すると、石田の車が止まっていた。

 建物は真っ暗だ。星空にとけ込むように黒いシルエットでそびえている。

 ヒロは手本を示すように飛び上がって門扉に股がり、手を貸そうとするのを先生はフンと断って一人で乗り越え、サオリは手を取って乗り越えるのを助けてやった。

 先生は懐中電灯を持って先頭で歩き出した。枯れた雑草を蹴散らしながらエントランスに向かい、

「持ってろ」

 とヒロに懐中電灯を渡そうとしたが、ヒロが先に出て力任せにガラス戸を押し開いた。

「どうぞ。俺の方が力ありますから」

「フン」

 先生は面白くなさそうに鼻を鳴らして玄関に入り、サオリも続いた。力を抜くとドアはガガガガ、と重く元通り閉まろうとする。ヒロは中へ滑り込み、ドアは少しの隙間を残して閉まった。

 懐中電灯の筋がホールをぐるんと駆けめぐり、廊下の奥を指した。

「急ぐぞ」

 先生は後の二人のことなんかお構いなしに自分の足下だけ照らして階段へ向かい、駆け上がっていった。

「ちぇっ、ひでえ奴」

 ヒロはもう全く女とは思わず先生をののしった。携帯電話を開くと暗闇の中けっこうな明かりを得られた。

「サオリちゃん、気を付けて」

 ヒロはサオリの手を取って支えながら歩こうとしたが、サオリはヒロの手を拒否した。

「わたしはいいから。ヒロ君も早く先生を追って、トモを」

「うん…」

 ヒロは行きかけたが、思い直して強引にサオリの手を握った。

「いっしょに行こう」

「わたしはいいから」

「駄目だ。いっしょに行くんだ」

 ヒロはぎゅうっとサオリの手を握りしめた。絶対放すものかと思った。サオリの考えてることなんか分かる。自分が「赤いドア」を呼んで入るつもりだ。代わりにトモキを解放してと頼むか、自分を犠牲にしてトモキを女の子にしてあげてと頼むか、どちらかだろう。そんなことは、絶対、させない。

 ヒロの強引さにサオリも仕方なく一生懸命急いで歩いた。知らない場所で、暗闇で、足下が見えないというのは理性で考えるより遙かに恐ろしい。真っ黒い陰の中にぽっかり穴が開いていて、足を踏み込みそのまま奈落の底に落ちていくような、そんな想像を足先がしてしまい、震えてくる。その躊躇を握り合った手の熱で振り払い、先を急いだ。先生の姿はとっくに消え、足音だけが甲高く降ってくる。

 結果的に…トモキの将来がどういうものになるのか分からない。しかし、トモキが望まなくても、自分は友人としてずっといっしょにいてやりたいと思うのだ。それが辛いことであっても、トモキを絶対に一人で泣かせておきたくはないと思うのだ。そしてその思いはサオリに対しても同じだ。自分との関係がどうであろうと、大好きな女の子だ、幸せになってほしいと、本気で思うのだ。

 俺は男だ。ふられたって、好きな女に尽くすのだ!、と、馬鹿みたいに思うのだ。

 サオリがつまずいて手をついた。

「だいじょうぶ? 頑張って」

 握った手で支えになってやり、立ち上がるのを待って再び先を急いだ。今はトモキを救うこと。先のことなんて、後で考えればいい。

 8階に着いた。廊下に走り出て、手術室のある右を向く。

 真っ暗な廊下の奥でダアン、ダアン、と広い鉄のドアを叩く音が響いている。

「開けなさい由布子! 勝手なことをするんじゃない! ここを開けるんだ!」

 先生が大きな声で叱りながらダアン、ダアン、と扉を叩いている。

 赤いドアは開くときにドア自体赤い濡れたような光を放つ。今真っ暗で懐中電灯の光だけが踊っているところを見ると先生も赤いドアを開けられないでいるようだ。

「行こう」

 ヒロはサオリの手を握ったまま廊下を駆けた。

 近づいて気づいたのだが、ドアは緑色をしていた。左手、北側を見てみると、準備室の小部屋があり、その隣が通路になって北側の壁まで伸びているようだが、その奥まった窓からでは夕日が直接手術室のドアに当たることはなさそうだ。ヒロがここを「夕日が当たって赤くなっている」と思ったのは、実は「赤いドア」が開こうとしていたところだったのだ。トモキが止めてくれず、そのまま開けてしまっていたらと思うと改めてゾッとした。しかし実験室は間違いなくここにあるのだ。

「先生、開かないんですか?」

「ああ、駄目だ」

 先生は忌々しそうにドアを叩くのをやめた。

「由布子の奴わたしを無視してやがる。くそ、わたしのお気に入りのトモを材料に使ってしまう気だ」

「どうするんです?」

「向こうにその気がないのではわたしにはどうにも出来ない」

「どいてください」

 ヒロは先生をどかせてドアノブを掴んだ。鍵が掛かっていて少し回るとガチッと止まる。

「くそっ」

 両手を握り合わせてドアノブめがけて振り下ろした。こうなればノブを壊して強行突破するしかない。ガン!、と殴りつけたが、手が痛いだけでびくともしない。続けて打ち下ろそうとしたら先生に腕で止められた。

「やめろ。この中に実験室があるわけじゃない」

「ええ?」

「重なり合った異次元の、狭間の世界にあるのだ。向こうからチャンネルを合わせない限りアクセスできない」

「じゃあどうすれば!?」

「ボランティアが現れるのを期待するしかないな、一刻も早く。彼女も被験者の選定をしているはずだ。その間はトモを解体はしないだろう。だが彼女はウキウキして、すっかりその気だ。じきに被験者を決めてしまうだろう」

「ちくしょう!…………」

 ヒロは、正直な気持ち、今すぐボランティアが現れてくれることを祈った。見ず知らずの、この世から消えたがっている誰かさんより、トモキの方がずうっと大事だった……自分も先生のことを非難できないと思った。

 ふと、背後の赤い光に気づき、なんとなく外の車のライトでも差し込んだかと思ったが、ハッと、ギョッとして、振り返った。

「サオリ!……」

 離れた、薬品庫か何かのドアをサオリが開いていた。中から赤い光が射し、ドア自体、赤くぬめっていた。

「よせ……、やめてくれえっ!」

 ヒロは悲鳴を上げ、体中の血液が一瞬でザアッと抜け出るような冷たさを感じた。人間がこんな感情を抱くものだなんて知らなかった。大切なものが目の前で失われようとすることがこんなにも悲痛なことだとは知らなかった。

「ごめんね、ヒロ君。わたしやっぱり、トモキが大好きなの。愛してるの。彼のためなら…、彼のためになれるのなら、わたし、嬉しいの。ごめんね。さよなら」

「サオリいーーーーっ!!!!」

 ミシッと骨が鳴った。物凄い圧力が体の自由を奪っている。抵抗して前に進もうとすると、足をすくわれ、わっと後ろに転がされた。床に一回転してガン!、と壁に背中を打ち付けられた。

「サオリ……」

 サオリの姿が赤いドアの中に消えていき、光が消えると、空気の圧力も消えた。

 真っ暗な廊下に虚無だけが広がっていた。

 先生の冷静な声が言った。

「湖南さんはトモを女性に生まれ変わらせることを望んだようだな? これでトモが被験者になり、やがて、手術が始まるだろう」

「サオリ…………………………………

 ………………………くっそおおお……………」

 ヒロは目を怒らせ、振り返ると、観音開きの二つのドアノブを掴んだ。

「望めば赤いドアは現れるんだろう? だったら出てこいよおおー? 俺も中に入れやがれええっっ!!!」

 ドアノブを真っ赤に燃え上がらせるように握りしめた。

「沙織を返せええーー。沙織を殺してみろ、きさま、許さんぞおおーーーー」

 ヒロは鬼になった気でドアノブを握りつぶさんばかりに握りしめ、喉の奥から呪いの言葉を吐いた。こうなったら他の者なんてどうだっていい、自分さえどうでもいい。ただただ沙織が大事だった。彼女だけが大切で、愛しくてしょうがなかった。

「沙織を、返せええええええええっ」

 腕の骨が砕け散るほど、力一杯ノブをひねった。

「長谷川君」

 腕がズキリと痛んだ。左手がぬるっと滑った。傷口が開いて、だらだらと血が流れ出ていた。

「長谷川ひろよし君」

 左肩に優しく手が置かれた。

 心がふと弱くなって、泣きたくなった。先生の手が血にぬめる左手を優しく押さえた。

「君は、湖南沙織さんが好きなのだね? 彼女を愛しているのだね?」

 先生は優しく力強く微笑み、ヒロの手から上げた手のひらをビタンと鉄の扉に当てた。ざわざわと暗い緑色がうごめき、まるで口を開くようにギザギザの赤い輝きが広がっていき、2枚のドアを陽炎のように揺らめく赤色の光に染め上げた。

「開くよ」

 ドアノブが回った。手前に引くと、2枚のドアは左右に開いた。

 ムウッとむせ返る血の臭いが濃厚にして、鼓動するように明滅する赤い光の中に、きれいなピンク色の、うねうね波打つ肉の壁が左右から押し出されるように迫っていた。まるで生きたピンク色の鍾乳洞のようだ。それが、表面を這う赤と青の血管といっしょに全体がぐねぐねとうごめいている。科学番組で見る腸の内壁みたいだ。

 壁に挟まれる通路は狭い。押し広げなければヒロは奥へ進めない。そう見ている内そのぽっかり開いた奥の穴から甘ったるい蜜と練乳をかき混ぜたようなきつい匂いが吹き付けてきて、ヒロはまた頭がぼうっとすかすかになってしまった。

「おい、頑張れ、寝るな。そのまま昇天してしまっていいのか?」

 先生の冗談めかした叱咤にヒロはハッと頭をブルブル振った。

「寄越したまえ」

 先生はヒロからドアを受け取り、両腕を伸ばして左右に押し広げた。

「わたしが開けておくから、中から湖南さんと石田を連れてきたまえ」

「トモキ君は…」

「それはわたしに任せたまえ。君は、湖南さんを愛しているのだろう?」

 先生の勝ち誇ったような笑みに、ヒロは頷き、先生にドアを任せ、奥へ踏み込んだ。ぐにゃっと床が沈み、ぬるりと内部で筋肉が太くなり、持ち上がった。ヒロはぎゅうっと異物を排斥しようと縮まってくる肉の壁に挟み込まれ、頬を、全身を、ぬるぬるするピンク色の分泌液で塗りたくられた。ヒロは自分がどろどろに消化される恐怖を感じつつ、力一杯壁を押し広げ、奥へ奥へ、分け入っていった。

 ぽっかりと開いた空間に出た。ヒロのアパートのユニットバスより少し広めくらいの奥に長い球形の部屋だ。

 壁に二つの顔が目に入りギクッとした。一番奥に下半身をピンクの壁に埋め込まれ、裸の胸から上が飾り物の剥製のように突き出たトモキ。その右手の壁に服を着たまま、ゼリー状の濃い粘液にどっぷり浸かって立っているサオリ。二人とも目を閉じて意識はないようだ。そして床にこれも服を着たままの石田が体を丸めて転がっている。何かいい夢でも見ているのかのんきにだらしない顔で眠っているようだ。

「サオリちゃん!」

 まずは粘液のゼリーをかき分け、サオリの体を表に引っぱり出した。呼吸が出来るように顔にまとわりつくピンクのどろどろを手で拭ってやると、口を開いてパクパクとあえいだ。

「サオリちゃん、しっかりして!」

 鼻と口からきれいに粘液をぬぐい取ってやるとサオリはしっかりした呼吸を確保して、ぐったりとヒロにもたれかかってきた。取りあえず生きていることにほっとして、先生にはああ言われたものの、トモキと石田とどっちを優先して助けるべきか迷った。すると、左の壁に何か感じて振り向くと、一瞬周りの壁と同じピンク色で気づかなかったが、裸の女が気味の悪い笑いを浮かべてヒロを見ていた。全身の肌も目玉も髪の毛までぬるぬるしたピンク色だった女が、サッと自然な色が付いて、黒髪の、医者の白衣を着た姿になった。あの、赤いドアから現れた赤いワンピースの女、先生の分身だった。

「勝手にわたしの材料を持ち出さないでちょうだい? まあ、こいつより君の方がいいかな?」

 と、石田の頭を踏んだ。それでも石田は肉の枕に沈んでかえってニヤニヤ気持ち悪く笑った。

「君、その子が好きなの? あらあら、じゃあトモちゃんはふられちゃったんだ?」

 女…由布子は、残念という顔でトモキの頬を撫でた。

「じゃあ…二人仲良くトモちゃんのためにご奉仕してね?」

 由布子の手がヒロの顔に伸ばされた。ヒロは慌てて顔を背けてサオリを抱いて逃げようとしたが、フウッと、また意識が蒸発するような感覚に襲われた。

「だいじょうぶよ? 痛くないからね? 気持ちよく、漂白してあげる」

 それはあらゆる個性を消し去り、ただの肉のかたまりにする、ということだろうか? ぐったりもたれかかっているサオリがすでにその処理をされたのではないかとヒロは恐怖を感じた。

 恐怖に持ち直した意識が、またグラッと揺れ、薄れていく。……女が……淫靡に笑っている…………

「由布子!」

「あうっ……」

 鋭い呼びかけにハッとすると、女が上半身を折って、ブルブル震えていた。お尻を引っ込め腰をもぞもぞ動かして、

「く、くそ、ユウ、卑怯よ……」

 顔をしゅう恥に赤らめ、恨めしそうにヒロを睨んだ。よく分からないがチャンスのようだ。

「ええい…」

 サオリを肩に抱き上げ、ついでに石田の襟首を掴んで引きずり、弛緩して開いたピンクの通路を新たに大量のぬるぬるにまみれながらすり抜け、先生の開けるドアまでたどり着いた。ドアは一枚が閉まり、先生はそれに背中を預け、片足上げてもう一枚を押さえ、手を下腹部へ差し込んでいた。戻ってきたヒロに。

「フン、こんな恥ずかしい真似をさせやがって。あいつはわたしの女の部分だからな」

 と、手をスラックスから引き抜き、ドアを押さえてヒロたちを通らせた。ヒロは石田を廊下に置き捨て、サオリを肩から下ろして横の壁に寄りかからせ、

「先生、ありが…」

 振り向いて礼を言おうとすると、先生はドアの向こうに消えようとしていた。

「待って! 先生!」

 ヒロは閉まろうとするドアにしがみついた。ドアは鋼鉄の固まりみたいに重く、ギリギリと重みで閉まっていこうとした。ヒロは挟まれ潰されそうになりながら先生に呼びかけた。

「耐えられない! 早くトモキを連れて……」

 先生は呆れた顔で笑った。

「あの子はわたしの物だ。もう君は関係ない」

「でも、…そうだ、数が足りない! 二人連れ出したからまた材料が二人分…、連れ出さなければトモキが材料にされてしまう!」

「わたしに任せておきたまえ」

「でも!」

「トモは、だいじょうぶだ」

 ヒロは呆気にとられたように先生を見つめた。先生は笑って、とてもすがすがしい顔をしていた。

「あの子はわたしが幸せにしてみせる。自分の手で。二人分の材料は、もう揃っているよ」

「誰が……」

「わたしたち、さ」

 ヒロは心がぎゅっと痛んだ。

「じゃあね、我が生徒諸君。ごきげんよう」

 先生はパイロットのように敬礼を切って、肉のうねりの中に消えていった。

 それが、ヒロが水神由布子先生の姿を見た最後だった。

 ドアの圧力は耐えられるギリギリまで重くなり、潰される寸前でヒロは抜け出した。

 バタン、とドアは重く閉まり、赤い光は消えていた。

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