第33話 手術室の惨劇

 呼び鈴を鳴らしながら、返事も待たず鍵を開けてさっさと玄関に入った。

「失礼します」

 靴を脱いでどかどか上がり込むと、さっきの居間に二人の姿はなく、奥の部屋から廊下へ不機嫌そうにして水神先生が出てきた。

「なんだね? 今度は勝手に上がっていいとは言ってないぞ?」

 先生はジャケットを脱ぎ、ワイシャツの襟をくつろげていた。

「トモキ君は?」

「眠ったところだ。二人でお楽しみだとでも思ったか?」

「おやじのセクハラギャグはいいですよ。……まあトモキ君には眠っていてもらった方がいいか……。先生、是非うかがいたい話があるんですが」

 先生は断る気満々のようだったが、いっしょにいるサオリの深刻な顔を見て、

「どうぞ」

 とさっきの居間に向かわせた。薄暗くなっているので天井の電灯をつけたが、オレンジっぽく点いた灯りが、青白くなった。シーリングライトで、先生が壁のパネルで調節したのだ。寒々とした照明に浮かび上がったのは、深い緑と茶の、落ち着きすぎた感じの調度にまとめられた男性的な趣味の部屋だ。自分は座り慣れたテレビ正面の二人掛けのソファーにどっかと座り、ヒロとサオリにはテーブルの左右の一人掛けの椅子にそれぞれ座らせた。

「それで? なに?」

「急いでいるんですが、話も聞かなければならないんで回り道なしにお願いします。

 石田が病院に行ったようです。旧・葉山台光済病院です。先生のお父さんが院長を務め、義理のお兄さん、先生の自殺したお姉さんの旦那さんが若先生として勤めていた病院です」

「フン、昔のことを嗅ぎ回ってくれたようだね?」

「白々しい。あなたが石田を使って掘り起こさせたんでしょう? それが分からない。それは、僕に教えるためだったんでしょう? そればかりじゃない、危険だからやめろというようなことを言っておきながら、先生は僕の周りに怪しい状況をばらまいて、僕に奇怪な出来事に遭遇させた。いったいなんなんです? 先生はいったい、何をしようとしているんです?」

「答えを言えばだね、わたしは君が嫌いなんだ。トモの前からさっさと退散願いたかったんだが、そうしてわたしがトモに嫌われたのでは元も子もないのでね、回りくどいことをした」

「そうなんですか? 先生が僕を嫌っているのは事実として、でも僕自身は、たいして危険な目にも遭っていないし、そもそも何が起こっているのかさっぱり理解できていなくて、それでトモキ君の前から消えるなんて、結びつきませんよ?」

 先生は小憎たらしく笑った。

「君は鈍いのと論理的なのとまだらで困るなあ。君が『赤いドア』に捕まるような人間でないのは分かっていた。……本当のところを明かせば、君が万が一、将来トモを愛するようになったとき、あの子の身に起こったことを誤解せず、あの子が苦しまなくて済むように、君に理解させるためだ。わたしとしてははなはだ面白くない作業だったが、どうかね?この一点でもどれだけわたしがあの子を本気で大事にしているか理解してもらえるだろう?」

「『赤いドア』ってなんなんです? あれは先生と、光済病院と、どんな関係があるんです?」

「『赤いドア』は、必要なボランティアを募るための窓口だよ」

「ボランティアという言葉は『赤いドア』から出てきた赤いドレスの女にも聞きました。ボランティアって、なんのための? 何をさせるんです?」

「性別適合手術の装置を作り上げるための材料になってもらうのだよ」

「性別適合手術の? それは、トモキ君のための?」

「もちろんだ」

「それは当然……普通の装置なんかじゃないんでしょう?」

「もちろん。非合法だよ」

「そういうことじゃなくて……分からない、それは……オカルト的な、悪魔の祭壇みたいな物ですか?」

「まあね。それよりずっと……、生の、肉で出来た『器官』だけれどね」

「生の肉って、じゃあやっぱり、『赤いドア』に引き込まれた人たちが……その材料に…………」

「引き込まれたわけじゃないさ。自分から呼び寄せて、自分から入っていったんだ」

「そういう風にし向けられたんでしょう?」

「閉店後のパチンコ店に強盗に入ったり、生命保険欲しさにわざと刺されたり、不倫した助教授を刺し殺したり、そんなのがみんなわたしの仕組んだことかね?」

「それがなんで僕の周りでばっかり起こるんです?」

 先生はヒロを見て、これは参ったというように笑った。

「確かに。君の周りにそういう網を張ったのは認めるよ。でも、起こったこと一つ一つは、それぞれ勝手な事情で起こったことだ。そこまで他人様の事情に介入はしていないよ」

「それでも、やっぱり…」

「世の中にはねえ、

 自分をどうしようもなく不幸だと感じて、人生を捨てて、この世界から消え去りたいと思っている人間なんて、いくらでもいるんだよ。

 いいじゃないか? 彼らの望み通りにしてやったまでだ」

「そんなのは……欺まん…だ……」

「フフン、自信なさそうだね? …どうでもいいじゃないか、自分から人生やめちゃおうなんて連中は」

「そういう人を利用しているんでしょう? 人の不幸を食い物にするようなことして、ひどいじゃないですか?」

「トモのためだ。あの子のためならわたしはどんなひどいことだってやってのけるさ」

「トモキ君はそれを知っているんですか? 自分のために関係ない人たちが犠牲にされているなんて」

「だから、こっちから死んでくれと頼んだわけじゃあない。君も分からない奴だなあ。わたしたちのやっているのは、いわば、そう、」

 先生は悪魔のように笑った。

「廃品利用だよ、どうせ死ぬしかない肉の、ね」

 ヒロはゾッとした。まともな神経じゃない。

「トモキ君は、知ってるんですか?」

「ああ、うるさいなあ。教えてないよ。やっぱり君と同じ反応をするだろうからね。ただ…、なんとなく感づいているだろうとは思うけれどね……」

 と、先生は考え深い顔つきになって視線を反らした。

「トモキ君がそんなことを受け入れるはずない」

「そうかな?」

 先生は首を傾げた。

「ちゃんと説明して説得すれば、受け入れてくれると思うよ?」

「だったらやったらいいじゃないですか?」

「うるさいなあ、君。悪人はわたしだけでいいんだよ。罪はわたし一人が引き受けるさ」

 ヒロは先生を男らしいなと少し感心した。しかし先生の精神はもっと屈折していた。悪魔の影を顔に刻み、憎々しげに言った。

「どうでもいいんだよ、あんな連中。甘ったれやがって。自分は不幸だ?恵まれてない?運が悪かった? ケッ、くっだらねえ。世の中不幸なんて、いくらでも溢れているさ! 上を見ても切りがないように、下を見れば、この世にも底なしの地獄があるんだよ。君ら、ちゃんとわたしの講義を聴いているかね?」

 先生はふふっと笑い、続けた。

「ま、別にいいんだよ。人は結局自分の事情でしか生きていない。他人と不幸比べをしたって意味ないさ。ただ、自ら敗者を認めて、うじうじ愚痴ってる連中は、虫ずが走る。たいていの事情にはその気になればいくらでも解決の道はあるものさ。だが。世の中には、どうにもならない事情もあるのだ。本人がどんなにあがいても、どうにもならない不幸な事情がな。本人がどんなにポジティブに幸せになりたいと願ってもどうにもならない事情がな。借金だ?不倫だ? 実にくだらん。死ね。そんなくだらん理由で死にたい奴は、勝手に死ぬがいい!」

 先生は毒々しく吐き捨て、すっかり不機嫌に、語りだした。


 ※ ※ ※ ※ ※


「わたしの姉は若くして子宮ガンを患い、子供が産めなくなってしまった。これは姉の不幸ばかりでなく、わたしたち家族全員の不幸だった。何故なら、家族にはもう一人わたしという娘がいたが、そのわたしは、体は女のくせに心は男という変態で、男とセックスして妊娠するなど、死んでも嫌というどうしようもなく困った奴だったからだ。

 そこで、一つの大胆な解決策が考えられた。

 女でいたくない妹から子宮一式摘出して、ガンで子宮を失った姉に移植しようという計画だ。

 当時子宮移植の成功例は世界でも一件も報告されていなかった。3年前にサウジアラビアで世界初の生体移植が行われたが失敗している。生体移植を行うには病院の倫理委員会にはからねばならないが、前例のない、成功の確率が著しく低い手術が許可される可能性はほぼゼロに等しかった。許可されるにしろ、世間の好奇の目が注がれるのは必至だった。成功するにしろ失敗するにしろ、ごうごうたる非難がわき起こるのも必至だった。

 しかし、わたしたち家族には是非必要な手術であり、有り体に言って、特にわたしには、移植が失敗しようとどうせ切り捨てたい器官だから、どうせ捨ててしまう物ならば、可能性に懸けてみたいじゃないか? わたしたちは年齢も近いまだ若い実の姉妹なのだから、成功の可能性も比較的高いだろう。……当時わたしが26、姉が29だ。

 手術は病院の休診日に、父である院長の腹心の医師、看護士たちによって決行された。姉の夫である義兄ももちろんメンバーだ。彼は外科手術の腕だけはよかったからね。

 決行された手術は、結果、失敗に終わった。恐ろしい悲劇と共に。

 その時そこで何が起こったのか、今もはっきりしたことは分からない。

 真相を知る者は、恐らくこの世でただ二人。

 その内の一人が、自殺した姉だ。


 手術は二つ手術台のある大手術室で行われた。

 まずわたしから子宮が摘出された。これは成功した。今現在わたしの体には生殖器官は残っていない。

 待機していた姉が運び込まれ、移植手術が行われようとした。

 ここで事件が起こった。

 その間の事情を全身麻酔で意識のなかったわたしは知らない。惨劇の後で、狂った姉を見ただけだ。

 事件とは、

 室内に大量の催眠ガスが漏れだし、スタッフ全員意識を失ってしまったのだ。そして、

 目覚めたとき、

 わたしから摘出された子宮は、

 ぐちゃぐちゃに破壊されていた。

 すっかり半狂乱の姉の状態からして、姉だけが何が起こったか目撃していたのだろう。

 姉はマスクを掛け、最後の意思確認のため全身麻酔の準備段階に留め置かれていた。体は動かすことは出来ないが、意識はまだはっきりある状態だった。皮肉にもマスクの保護のおかげで室内に漏れだした催眠ガスを吸わずに、体が動かない状態に固定されたまま、意識だけははっきりあったのだ。

 そこで繰り広げられた出来事は、姉には耐え難い地獄絵そのものだっただろう。

 何故そんな事故が起きたのか?

 いや、それは事故ではない。故意の犯罪計画だった。

 状況を検分しての推定だが、

 手術の最中、手術室内の器具をしまう棚の中に隠れ潜んでいた何者かが、頃合いを見計らってガスを噴射し、手術スタッフを眠らせ、自分はガスマスクを装着して姿を現し、体を動かせない姉の目の前で、妹から摘出した子宮を、握りつぶしたのだ、おそらくは、悪魔の笑みを浮かべて。目の前で残酷な方法で希望を握りつぶされた姉は、絶望し、すっかり狂ってしまった。


 姉の目の前でそのような残酷な仕打ちをしたのが何者か?

 犯人は一人しかいない。

 義兄の不倫相手だった若い看護婦だ。

 何故そのような犯行が行われたのか? 直接的な原因は義兄の周囲に仕掛けられた盗聴器だった。これによって彼女はこの手術の行われることを知り、妨害工作を計画し、実行したのだ。

 ではその動機は何か?

 義兄への復讐だ。

 姉は元々体が弱かった。そのせいで神経質なところがあり、夫婦生活を送る義兄には精神的に疲れるところがあったのだろう。加えて、子宮ガンだ。姉は子どもを産めない体になってしまった。これが義兄の心を急速に姉から離れさせた。一時は本気で不倫相手の看護婦に溺れ、姉との離婚も考えたらしい。しかしすっかり意気消沈した姉を見ている内、憐びんの情を催したのだろう。二人は恋愛結婚だ。元々愛し合っていた仲なのだから、昔を思い出したのだろう。

 姉に子宮をあげたいと言ったのはわたしだ。最初誰も相手にしなかったが、わたしが女の体を捨てたい気持ちは本気だったから、家族も皆本気で考えるようになった。義兄もわたしの性同一性障害を知っていた。そういう家族の恥を知っていたから妻の父親の経営する病院で平気で浮気していられたんだがな。子宮移植という可能性が生まれると、義兄の姉への愛が本格的に再燃した。義兄は不倫相手と手を切り、移植手術に懸ける決心をした。

 その義兄の心変わりを察した女は義兄の周囲に盗聴器を仕掛け、事情を知るや、憎悪に駆られ、復讐を思い立った。

 実行された復讐は、見事に成功した。元々秘密裏に行われた違法手術だから、人の命を奪ったわけでもなし、こちら側が司法に訴え彼女に罪を問うことなど考えられなかった。

 彼女は病院を辞め、どこかに去ってしまった。今どこでどうしているか、知らない」


 サオリは気を失う寸前のように真っ青な顔をしている。

 ヒロは前に石田にその話を聞いたときに疑問に思ったことを質問した。

「その不倫相手の看護婦は自分が若先生と結婚していずれは院長夫人になると大口を叩いていたそうですけど、彼女がそう思う根拠はなんだったんです? だって、若先生は院長の実の息子ではないでしょう?」

 先生は実に不愉快そうに答えた。

「義兄は元々医院のナンバーワンスタッフだった医師部長の弟子だったんだ。義兄の馬鹿が、寝物語に我が家族に新しい後継者が生まれないことをおしゃべりしたんだろう。院長が退けば医師部長が院長に昇格するのが妥当な人事で、今度は自分がナンバーワンの座に着くことになる。そしていずれは…と、自分に都合のいいシナリオを思い描き、馬鹿女がまんまと信じ込んだのだろう。くそ、二人とも餌食にしてやればよかった」

 先生の口振りからして二人は本当に健在のようで、先生としては自分の行いは私怨によって行われているものではないとの証になっているのだろう。

 呪われた病院のルーツは分かった。狂気に陥った先生の姉は、それから1年かそこらで怨念の手術室で首をくくって自殺し、かくして病院自体も廃業してしまったのだ。

 それで、

 だから、

 なんなんだろう?

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