第32話 苦しみの告白

 水神先生の住居は背後の丘よりもうんと高くそびえる高層マンションの一室だった。隣の丘に旧・光済病院が望める、近所だった。この辺りでは一番高い建物で、なるほど、この高層マンションも電車に乗るたび目立って眺めていた。

 先生は軽自動車を付属する立体駐車場に止めた。マンションのセキュリティーは厳重で、建物の入り口から鍵がなくては入れなかった。先生は壁のインターホンで自分の部屋、1711号室を呼び出し、鍵を持つサオリに迎えに来るよう頼んだ。驚いたことにドアは内側からも鍵がなければ開けられない。不便そうだが住人がうっかり鍵を忘れて出た場合の用心だろうか。鍵は特殊で複製が出来ず、スペアと2本きりしかないそうだ。

 マンションは内装も高級ホテルみたいで、家賃はずいぶん高いだろうと思ったら、分譲だそうで、先生はお金持ちなのだ。……先生の実家が、だろう。大学の講師の給料なんてそんなに高いとは思えない。

 呼び出されて降りてきたサオリは、泣いていたのがありありと、血の気の失せた蒼白の顔に鼻と目の周りだけが赤くなっていた。

 ヒロは聞くのも怖いような気がしたが。

「トモキ君は、どんな様子?」

 サオリはううんと首を振った。

「あんなにひどいの初めて。ヒステリー起こしちゃって、全然あたしの話なんか聞いてくれない……」

 サオリはもうすっかり自信喪失してしまっている。ヒロは慰めてあげたいと思ったが、言葉が見つからなかった。

「行こう」

 先生がさっさと歩き出し、サオリが降りてきたままになっているエレベーターに乗り込んだ。

 エレベーターの箱に収まって、ヒロはサオリの手に触れたくてしようがなかったが、今のサオリは何者も受け付けない悲壮な雰囲気を発散していた。とても攻撃的で、痛々しかった。


 トモキは部屋の隅にクッションを抱えて丸くなっていた。

「トモ」

 先生の声に反応して顔を上げたが、ヒロがいっしょにいるのを見ると目を張り裂けそうに見開き、

「嫌だ!」

 と叫んだ。

「僕を見ないで! 気持ち悪いでしょう? 僕は変なんだ!変態なんだ! もういいよ、放っておいてよ!」

 感情の高まりを抑えられないように抱えたクッションを叩き、床に叩きつけ、自分自身床に投げ出すと、髪を振り乱して身をよじり、肩を震わせて泣いた。

 ヒロは痛ましくて見ていられない思いがしたが、ここで見捨てては絶対いけないと思い直した。

「トモキ君。君を気持ち悪いなんて思わないよ。だけど、その…、俺も驚いちゃって、どう考えていいのか分からないんだけど……。今まで通りじゃ駄目かな? トモキ君といっしょにいるのは楽しいよ。これからもずっと変わらずにいたいよ」

 トモキは肩越しに恨めしそうに濡れた目でヒロを見た。

「僕は君が好きなんだよ?」

「それは……」

 ヒロはじっと見つめられ思わずゴクリとつばを飲み込んだ。セクシャルな意味ではなく、ナーヴァスな緊張からだ……。トモキはほら見ろと言うように目を細めた。

「僕は君に触れたい。僕に触れてほしいって思う。そういうのはどう? 僕を受け入れてくれる? 男同士馴れ馴れしく肩に触れたりふざけて首に腕を回したりして、本当は僕は、エッチな気分で興奮してたんだ。どう? そんな僕を、ヒロ君はどう感じる?」

 何も答えられないでいるヒロに、トモキは露悪趣味的に続けた。

「僕は男の君が好きだ。するとね、僕はエッチな興奮をして……体が反応しちゃうんだ……それがね、僕は、死にたくなるほど自分で気持ち悪いんだ。なんで僕の体はこんななんだろうって、悪魔に魂をこの体に閉じこめられているように思うんだ。この体は、僕の魂にとって牢獄なんだ! でも、これは間違いなく僕の体で、僕自身なんだ。それが、僕は、堪らなく嫌で、嫌で、嫌で、しょうがないんだ。僕は、女の子の自分が好きなんだ、男の体の自分なんて、気持ち悪くて、仕方ないんだよ。こんな体、自分で殺してしまって、僕の魂を、本来の自分のいるべき世界に送り出してやりたいって、何度も思ったよ。僕は……生きているのが辛いんだよ……」

 トモキは同情を誘うようにヒロを見つめて、それはどうせ得られないだろうと諦めて、向こうを向いてしまった。

「帰ってよ。僕を、これ以上、死にたくさせないで……」

 先生が前に出て、ヒロにぐいと親指を立てて後ろを指し、

「君はもう彼女を連れて帰りたまえ」

 と冷たく命じた。トモキの背にかがみ、その両肩を優しく抱いた。

「トモ。わたしの美しいトモ。君は気持ち悪くなんてないよ? さあ、わたしの言葉を聞きなさい。君は美しい。君は、わたしにとって紛れもなく美しくかわいらしい女の子だ。わたしは君が大好きだ。わたしの言葉は、信じてくれるよね?」

 先生はトモキの肩を抱き起こすと、その背に抱きついて、腕を前に回した。トモキの髪に頬をすり寄せ、耳に熱く語りかけた。

「君を救ってあげる。必ず。約束しただろう? わたしを信じなさい。この世界すべてを敵に回したって、わたしは君を守り、幸せにしてあげる。だから、ね? そんなに悲しまないでおくれ? わたしのかわいい、最愛の女性よ」

 先生に抱きしめられ、ひっくひっくとしゃくり上げていたトモキが、落ち着き、安心したように先生に甘えだした。

 先生は後ろを向くと、まだいるのか?、というように睨んだ。

「行こう」

 ヒロはサオリの手を取り、部屋を抜け、玄関に向かった。思い出し、部屋に戻って訊いた。

「あの……」

「なに?」

 トモキの頭を掻き抱いていた先生は不愉快そうに聞き返した。

「鍵……。借りていっていいんですか?」

 鍵がなければ内側からもエントランスのドアは開かないのだ。管理人室を通れば出られるだろうが……。

「ああいいよ、明日返してくれたまえ。トモは…、今夜はここに泊めるから」

 先生は美しい女の顔を好色そうに笑わせ、トモキをかわいがる続きを始めた。ヒロは無言で立ち去り、玄関で待っているサオリに

「行こう」

 と促した。


 ※ ※ ※ ※ ※


 時刻は4時20分だった。外の景色は、そろそろ日の光が弱くなってきたようで、色彩が落ちて沈んで見えた……そう見えるのに心理的な影響が強いことは容易に想像できた。

 高級な高層マンションには広い広場があった。子どもたちの遊具が集まる児童公園も含まれていて、きゃっきゃと幼い子どもたちが歓声を上げて駆け回り、端でその母親たちがぺちゃくちゃおしゃべりしていた。

 ヒロは静かな一角のベンチにサオリを誘い、並んで腰掛けた。

 ヒロははっきり言ってサオリが好きだ。初めて会ったときから、ずっと好きだった。一目惚れだった。

 美人だと思う。でも尾崎千恵美や水神由布子先生のような、すれ違う男がハッと振り返るような、そんな特別綺麗な美人でもなかった。でも、ヒロにとっては……、例えば千恵美や水神先生が120点、150点の美女だとすれば、サオリは百点満点の美人だった。色が白くて、細くて、柔らかそうで、優しそうで、笑顔がかわいくて…、ヒロが思う女の子らしさを理想通りに形にしたのがサオリだった。でもサオリにはトモキという理想的な彼氏がいて、トモキの隣で楽しそうにはしゃぐ彼女は、ヒロの第一印象とはちょっと違っていた。ヒロの思う湖南沙織という女の子は、もうちょっと物静かで、昼の日差しに辟易して木陰でのんびり洋書でも読んでいるような、そして離れたところから眺めているこちらに気づいてはにかんだ笑顔を浮かべて「何見てるのよ?」と怒ったふりをするような、そんな、もっと女の子女の子したイメージだった。実際のサオリは太陽の日差しをいっぱいに浴びて元気に笑っている子だったが、それは、やっぱり、違ったんだと、今、となりでうなだれているサオリを見て思う。その元気のなさはヒロの心も傷つけ、悲しくさせた。

「トモキ君が、本当に好きだったんだね」

 しばらくしてサオリは、

「うん」

 と答えた。

「知っていたんだね、トモキ君が……心は女の子だってこと……」

「うん。幼稚園の時からの幼なじみでね、ずっと好きだったんだけど、中学2年生のバレンタインデーに思い切って告白したの、好きです、彼女として付き合ってください、って。……絶対、うん、って言ってくれると思い込んでいたから……、わたしの申し出にきちんと向き合って答えてくれたトモキの告白は……、衝撃的だったわ……、僕は心が女なんだ、だからサオリちゃんの思いには男としては答えてあげられない、ごめんなさい、って……。トモキも告白するのは一大決心が必要だったと思うわ。幼なじみの自分に、どんな反応されるだろう、って、物凄く不安だったと思う。わたし、訳が分からなくなって、泣きながらトモキを抱きしめていたわ。いいよ、友だちでもいいよ、わたしがトモキを守ってあげる、わたしはずっとトモキの親友よ、って。わたしはそれからずっとトモキのカノジョとしてトモキを恋する女の子やがさつな男子どもから守ってきてあげたわ」

「すごいね。サオリちゃんは、トモキ君をすぐに受け入れてあげられたんだ?」

「言われてみるとね、なんとなく納得できるところがあったんだと思う。トモキ、女の子っぽいのが好きで、わたしの真似ばっかりしてたから。変なの、ってからかったこともあったけど、トモキが好きだったから喜んでいっしょに女の子っぽいかっこうしたりしてたの。ああ、そうだったんだ……って思ったのね」

「トモキ君のことを、トモキ君の家族は?」

「やっぱりその頃みたいね、中学校の、思春期の頃、家族も変だって思ったらしいわ。ほら、ニューハーフの人がお笑い番組なんかに出てオカマ言葉で大騒ぎしてたりするじゃない? 笑うよね、ふつう? でも、トモキの家族は、笑えなかったみたい。すごく暗くなって、いたたまれずにチャンネル変えちゃったって。そうするとユミちゃん……二つ下の妹がね、なんで変えちゃうの?って怒るんだって。トモ、ユミちゃんにすごく申し訳なかったって。そのユミちゃんもトモキの心のことを知って、……身内だからね…、わたしなんかよりずっとショックで、気持ち悪い、お兄ちゃんなんて大嫌い、わたしと同じ部屋にいないでよね、変態、って、ひどくののしったみたい。トモ、その時のことが今もショックで、忘れられないみたい……、よく泣いてたわ……」

 サオリもトモキの心にシンクロして、悲痛に眉根を寄せた。

「辛かったね?………………………………サオリちゃんも……………」

 サオリは顔を両手で覆って泣きだした。ヒロは、今はいいかな、と、そっと肩に手を置いた。

 嗚咽しながらサオリは切れ切れの言葉を吐き出した。

「好きなのよ……大好きなのよ……トモキが……トモキのために、我慢できると思った……我慢しなくちゃと思った……、女として完全な幸せでなくてもいい、80パーセントでも、60パーセントでも、大好きな人のために生きられるなら、いっしょにいられるなら、それで幸せだって、満足できるって、思ってた……、でも、でも…、我慢できなかった、やっぱりわたし、女として愛してほしいって、トモキに望んじゃった、それがトモを苦しめるって分かっていたのに……、わたしを女として愛してくれないトモキが………、だんだん……、憎くなっていた…………、わたしはトモキのことを認めて愛しているのに、トモキだって、女のわたしを理解して愛してくれたっていいじゃない?って、わたしは……トモキに男であることを迫ってしまった………、でも、でも、もう……、わたしだって……、もう、我慢できない……、限界だったのよ……………」

 うわあっと嗚咽するサオリの背中をヒロは優しく撫でたが、サオリはその手を振り払い、恨めしそうにヒロを睨んだ。

「ヒロ君のせいよ……。わたしはずっとトモを守ってあげてきた。あの子の好きになった男の子を、あの子に近づけてあげようと思った」

「え…………」

「覚えてる?学科の新入生の初顔合わせの時、わたしから話し掛けたでしょう?」

「うん………」

「トモキがヒロ君を見て、話したそうにしていたから、わたしが代わりに話し掛けてあげたのよ。トモはあなたに一目惚れしちゃったみたい。ずうっとあの子を見ているわたしはよく分かるわ、あなたがトモのすごく好きなタイプの男の子だって。優しそうで、明るくて、ちょっとやんちゃそうで、そこそこかっこよくて……」

「そう……だったんだ…………」

「嫌いよ。ヒロ君なんて、大っ嫌いよ」

 サオリは恨めしそうに言って、顔を背けた。大好きな女の子に面と向かって大嫌いと言われて、ヒロもショックを隠せなかったが、それは本心ではないと思いたかった。恨まれているのは確かだろうが……。

 空は本格的に暗くなってきて、雲やビルを夕日が赤く照らし出した。

 ヒロの携帯電話が鳴った。無視しようかと思ったが、鳴り続ける呼び出し音に仕方なく取り出すと、電話は鈴音からだった。

「もしもし」

『ああ、よかった…。ダイ君』

「なに?」

『ヒサシ君知らない? 大学には来たんだけど、すぐにどこかに行っちゃったみたいなの』

「ふうーん。携帯は?」

『通じないの。電源切ってるみたい』

「しょうがねえなあ。どこか心当たりは?」

『それなんだけど……、わたし、すごく嫌な予感がするの。携帯がつながらなかったのって……、あの時といっしょでしょ?』

「……考え過ぎじゃないの?」

『前の日に言ってたのよ、病院に行ってみたけど刑事が来ていて入れなかったって。それでわたし、どうして刑事が来ていたらお見舞いに行けないの?って訊いたら、ヒサシ君、ぽかんとして、いやだって後ろ暗いじゃん、色々と、って笑ってたんだけど……、今にして思えば、病院って、葉山台光済病院のことを言ったんじゃないかしら?……わたしがヒロ君の入院した病院と間違えたからそれに合わせて……ヒロ君、ヒサシ君に病院を調べるのは危険だからやめろって言ってたよね? それでわたしも怖くなって、彼にもうやめるよう頼んだのよ。そうしたら、うん分かった、病院には行かないから安心しろ、って言ってたんだけど、本当は…………』

 せかされるようにおしゃべりして、鈴音は黙り込んだ。重い沈黙の内にヒロはベンチから立ち上がり、隣の丘に建つ光済病院を眺めた。ここからだと今ちょうど夕日をバックにシルエットがえぐれて見える。

『ねえ、どうしようわたし……、もし彼が光済病院に行ったんだとしたら…………』

「鈴音ちゃん。だいじょうぶ。俺が調べてきてやるよ。もしあいつが忍び込んでたりしたら襟首ひっつかんで連れ戻してやるから、そんなに心配しないで」

『行ってくれる? ごめんね、ダイ君。ありがとう。他のお友だちは……怖がってもう行きたくないって…………』

「いいよ。だいじょうぶ。なあに、石田のヤツならだいじょうぶだよ、自分で霊感ゼロって大威張りしてやがるんだから。じゃあね、これから向かうから、調べたら連絡するよ。待っててね」

 電話を切った。自分が今すぐ近くにいることはあえて言わなかった。

 すごく嫌な予感がした。

「サオリちゃん、行こう」

 サオリの手を取って無理やり引っ張り上げた。

 エントランスに戻った。まず、先生に話を聞かなくてはと思った。

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