第31話 石田
石田寿司はいったん大学に出てきたものの、午後からのこの日唯一の講義をさぼると、一人でマイカーに乗り、旧・葉山台光済病院に向かった。
水神由布子の秘密が、ここに眠っていると確信するのだ。
石田は水神講師が嫌いだった。美人ではあるが、それ以上にお高く、人を馬鹿にした態度があからさまで、総合的にはムカつく嫌な女だった。
水神由布子の姉が自殺し、元部長医師が謎の事故死を遂げ、女の幽霊の目撃例が絶えない、呪われた廃病院……。
まあ今さら自分が調べたところで謎の解明につながる手がかりが見つかるとも思っていないが、これから色々調査を進めるにおいて現場をきちんと知っておいた方がよいと考えたのだ。
石田は自分が幽霊を「見ないこと」に自信があった。そういったオカルト話は大好きで、あちこち「本物だ」と噂される心霊スポットを巡って、写真を撮ったりビデオを回したり、「おらおら出てきやがれ!」と壁に落書きしたりしてみたが、怪奇現象に遭遇したり祟りにあったことはない。
自分には「アンチ」の霊能力があるに違いない。そんなマイナスベクトルの自信があった。
自分ならどんなに恐ろしい心霊スポットだろうと、無事に行って来られる。そうした自信があった。
だから、「本物だ」と噂される旧・光済病院も、怖くなかった。
石田が病院の正門前に到着したのはまだ1時半にもならない時刻だった。真っ昼間、車で乗り付けてしまったが、かえって堂々としていた方がいいだろう。昨日はどうやら警察も尾崎先輩の捜索に来ていたようで、見つかったらこっぴどく叱られそうだが、石田のような人間にとってはそれも話のネタになって自慢できる。かえって夜中コソコソ侵入したところを見つかったりしたらそれこそ連行されて取り調べを受けるかも知れない。
入り口はモーターが壊れているのか、自動ドアの重いガラス戸を手で押して開くことが出来た。
昼の日差しの中、乱雑に椅子が倒されている待合所など、ゾンビ映画のワンシーンみたいでなかなかシュールだ。面白い。
8階だったな、と階段を上がっていく。
外から窓辺で目撃される女の幽霊は、どうやらさまよっているらしく、入院病室のある4階から7階まで目撃例はまちまちだ。ダイキチが見たのも最初は6階だったという。それから上で音がして、8階奥の手術室のドアに赤いスカートの裾が滑り込むのが見えたと。
面白い。
石田は我知らずニンマリ笑っていた。
本当に幽霊という物がいるのなら、是非見てみたいものだ。
6階。
石田は廊下へ出て左右を見渡した。階段は建物のだいたい中央を通っている。
「おおーーい、美人の幽霊ちゃあ〜〜ん、お兄さんに姿を見せてくれよーー?」
ふざけた調子で呼びかけた。白々と静まり返る廊下には、もちろん誰の姿もない。
「ちっ、面白くねえなあー。いい加減期待はずれもつまんねーぞ」
ぶすっとした顔で悪態をつき、ニヤリと悪らつな笑いを浮かべるともう一度呼びかけた。
「おーい。鶴橋今日子さーーん。水神由布子先生のお姉さーーん」
石田はじっと様子を眺めていたが、
「フン」
出るわけねえかと、上へ向かうべく階段に向き直った。すると、
視界の上の方に赤い色が見えて、ギョッと心臓を躍り上がらせて視線を上に向けた。
赤いワンピースを着た女が踊り場に立っていた。
……ように思ったのだが、窓から光が射すだけで、誰も、何も、いなかった。
はあーー……と息をつき、
「なんだよ、気のせいかよ」
と言いながら、気のせいで良かった、と思っている自分に気づいて、バッカ野郎、と自分を叱った。柄にもなく怖じ気づいてんじゃねーや、と。
胸にズーンと重い固まりを感じながら階段を上がりだした。先ほど女が立っていた……ように見えた踊り場を通り、先へ、上へ上がる。
薄雲でも出てきたか、下より一段暗く感じた。ここにはいないはずだと7階を飛ばして問題の8階に上がった。
8階は更に暗くなっていた。
気のせいだ、気のせいだ、と盛んに思う。俺には霊感なんてねえ、幽霊なんかに会うわけねえ、と。
しかし石田は気づいていない……ふりをしているだけかも知れない、気のせいだ、と思うのが、そもそも霊の存在を身近に感じ、近づいている証拠だと言うことを……。
石田は右手の廊下を奥に向かって歩き出した。準備室や待合室と言った部屋のドアの覗き窓から外の窓が見えるが、空は青い色をしているのに、室内はひどく暗かった。
突き当たり、観音開きの大きなドアが近づいてくる。
ドアは、濃いグリーンをしていた。
大手術室。
ここで、水神先生の姉、鶴橋今日子は首をくくって自殺したのだ。
二つのドアノブに手を掛け、思い切ってひねった。
キリリ、
嫌なこすれる音をさせながらノブは二つとも回った。石田は方向を確かめ、手前に二つのドアを引いた。
キイイイーー……、と廊下にきしみ音を響かせて、ドアは開いた。
思いがけず白っぽく明るく、手術室の全貌が見渡せた。右の奥、高い位置にはめ殺しの明かり取りの窓がある。採光のためというより多分停電などの際に完全に真っ暗になるのを防ぐためだろう。左右に広い部屋には二つの手術台があったが、それぞれ天井から大型の照明がアームで提げられている。このいずれかにロープを掛けて鶴橋今日子は首をくくったのではないだろうか?
ここも不埒な侵入者によってカーゴが倒され、手術器具が床にばらまかれ、年月を経て黒ずんだガーゼがあちこちまき散らかされていた。
「へへっ、馬鹿ども、呪われろ、祟られろ……、面白れえ」
石田は自分を鼓舞するように笑顔を作った。
しばらくその場に立って部屋の様子を眺めた。
閉鎖されて……7年も経つのに、まだ病院特有の消毒液の臭いが漂っていた。
「ちと…、寒いな」
腕を抱いてわざとらしくブルッと震え上がった。
「さて、念願の現場は見たし、帰るとするか」
裏返し。
「え?」
石田は慌てて辺りを見回した。
今ふっと、耳元で、女の声がしたように感じた。
…………空耳か………。
裏返し。……なんのこっちゃ?
石田は、ドアに向き直った。
ギョッと、思わず後ろにたじろいだ。
ドアが真っ赤だった。
なんとも悪趣味に、真っ赤に塗られていた。
表が濃いグリーンで、内側が濡れたような、真っ赤?
なんともちぐはぐで、嫌な感じを受けた。
この真っ赤な色に、入ってくるときに気づかなかったものか?
「ま、まあいいや……」
石田はノブに手を掛け、ひねり、向こうへ押した。ドアは動こうとしない。
「あれ? なんでだ?」
入ってくるときは問題なく開いたのに……
焦ってガチャガチャと押しながら、ふとひらめいた。
「押して駄目なら引いてみろ、ってか?」
どういう仕掛けでか、ドアノブをひねった側にしか開かないように出来ているのかも知れない。
引いてみると、果たしてドアは開いた。
「え・・・・・」
石田は絶句し、立ち尽くした。
真っ赤で、
血の飛沫が、辺りの空気中に濃厚に漂っていた。むせ返る濃厚な臭いに石田はおう吐を催した。
嘘だ、こんな事が起こるわけない。
俺は、きっと、大学のカフェかどっかで居眠りこいて、こんな、へんてこな、夢を見ているに違いない。俺はきっと、廃病院になんか来てないに違いない………
濃厚な血の霧の向こうに、ドクドクと、脈打つ肉の壁が盛り上がっていた。腸の内壁のように、ぐねぐねと、蛇腹に盛り上がり、ぬるぬるしたピンクの表面を、赤と青の血管がはい回って、ドクドクと、鼓動していた。生臭い血のむせ返りの中に、これまた生臭くも、甘ったるい臭いが濃厚に吹き付けてきて、石田の顔と全身を濡らした。石田は恐ろしさに腰をがくがく震わせながら、一種恍惚とするように意識を薄れさせていったが、
ポン、と、後ろから肩に何か乗っかり、見ればそれは女の手で、ヒイッと振り返ると、頭から真っ赤に塗れた女がニタニタ笑っていた。
「ボランティア君、いらっしゃい。歓迎するわ」
石田は、
「ひ、ひ、ひいいいい…………」
腰を抜かして座り込もうとしたが、いつの間にか左右からぬるりとした肉の壁が迫り、包み込み、石田は、肉に埋め込まれて、体に侵入してくるぬるぬるした湿り気を感じながら、意識を失った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます