第29話 キューピッドのつもりが
「おはよう」
講堂で二人揃っているのを見つけて挨拶するとトモキもサオリも驚いた顔をした。
「ヒロ君、もう大丈夫なの?」
トモキが泣きそうに心配な顔でヒロの腕を見比べた。ヒロはこっちだよと左腕を軽く持ち上げて見せた。シャツに厚手の綿の上着を着ているので外から見ても分からない。
「大きいだけで、表面を撫でたようなものだから大した傷じゃあないよ」
「本当?」
トモキは腕を見つめまるで自分のせいみたいに悲壮な顔をした。
「先生、ヒロ君は大丈夫だって言ったのに……」
「ああ…」
そう言えば水神先生は危険に巻き込まれるけれど自分自身が危ない目に遭うことはないという風に言っていた。
「俺が無理に千恵美さんを止めようとしたせいかなあ……」
「逃げて、まだ捕まってないんでしょう?」
「え…、うん……」
トモキもサオリも千恵美が「赤いドア」に入っていって消えてしまったとは知らず、野放しの殺人鬼を怖がっているようだ。構内にはまだ警官があちこち巡回している。事件から2日間、まだ尾崎千恵美が潜んでいる可能性はある。考えてみれば殺人犯が潜んでいるかも知れないのによく翌日から大学が再開されたなと思うが、はっきりした動機があり、無差別通り魔的な犯行ではないからだろう。
「俺がまた襲われるようなことはないよ。ふられちゃったからね」
ヒロはおどけて言ったが、二人には通じず、深刻な顔をするのでばつが悪くなって言った。
「千恵美さんは、愛した男といっしょにこの世から消えちゃったんだ。もう、二度とこっちには戻ってこないよ」
二人はますます訳の分からない顔をした。ヒロはそうか…と改めて思った。オカルトに関わっているのは自分と石田と水神先生で、この二人は関わってないんだ、と。それならわざわざ巻き込むこともない。
「多分……、どこか誰にも見つからない所でひっそりと死んでると思うよ……」
自分で言ってて悲しくなるが、いずれ世間でもそう見ることになるだろう。トモキもサオリもそれで納得して、遠慮がちに同情の目でヒロを見た。
「残念だったね? こんなことになっちゃって………」
「そうだね。もっと早く知り合って、思い止まらせてあげたかったよ」
ヒロは懐かしむように笑って、その目をトモキに向けた。もう過去の思い出で、自分はもう大丈夫、と。
ヒロには二人の方が気になる。自分のことを心配してくれているのだろうが、元気がなく、どことなく白々しい空気が感じられる。お互いに目を合わさない…というか、サオリが遠慮がちに探るように向ける視線を、トモキが無視し、サオリもそれで意気消沈してうつむいてしまう。
仲直りしてくれていればいいがと思っていたが、昨日一日自分抜きで二人がどのように過ごしていたのか、考えるとこっちまで気分が沈んでしまう。
教授が入ってきて話はそこまでになったが、やっぱり自分が何とかしてやらなければなと思った。
講義が終了して昼休み、
「ごめん。僕、ちょっと先生の所に行って来る」
トモキが二人を避けるように先に立って出ていくので、
「あ、ちょっとトモキ君」
ヒロはサオリに「待ってて」と手で合図してトモキを追って廊下に出た。
「トモキ君、ちょっと、いいかな?」
ヒロはぞろぞろ歩く学生たちを避けて階段を越えて廊下の端の袋小路までトモキを誘った。
「あのさ、俺が言うのも余計なお節介だろうけどさ、サオリちゃんとケンカでもした?」
「ケンカなんてしてないけど……」
トモキはあまり触れてほしくないように視線を下向きに逸らした。
「ごめんね、お節介だってのは分かってるんだ。でも、二人には仲良く、幸せでいてほしいんだ。あんなにお似合いの二人だもんね、大丈夫だって分かってるんだけどさ、……ハハ、やっぱり余計なお節介だね、ごめんごめん。邪魔しちゃったね、それじゃあ」
ヒロは何言ってんだろなと我ながらかっこわるい三枚目だと思い、退散することにした。トモキの抱えている問題は深刻なのだ、ろくに事情も知らない自分があれこれ、それこそ余計なことを言って、ますます二人の関係を悪化させないとも限らない。それは先生に任せて、自分は友人として温かく見守っていればそれでよし。
「ヒロ君」
「なに?」
退散を決めて歩き出したヒロは呼びかけられ振り返ったが、思わずサッと冷たい物が体の中を駆け上がるような感じを受けた。
「ヒロ君は…、いつも僕に腫れ物に触るみたいに接するね?」
「え?… そんなつもりはないけど……、トモキ君が上品だからさ、自然とこっちも改まっちゃうかな……と……」
トモキが近づき、手を上げ、そっと、ヒロの左の二の腕を触った。ヒロは何となくむず痒いような感じがした。
「ひどい女だね、ヒロ君にこんなことして……」
「……どうしても、逃げたかったんだろうね……」
「ヒロ君を、少しも愛してなんかいなかったんだよ」
トモキは、キッ、ときつい目で睨むようにヒロを見つめた。
「ヒロ君も、本当はサオリちゃんが好きなんでしょう?」
「どうしてそういう話になるんだ?」
「サオリちゃんが好きだから、僕なんかと友だちでいるんでしょう?」
ヒロはトモキの手がぎゅっと傷口を握りしめるんじゃないかという恐怖を感じた。
「そんなことはないけど……」
ヒロはふと、トモキには自分以外男の友だちがいないんじゃないか?と思った。今ばかりじゃなく、中学高校時代もそうだったんじゃないか?とふと思った。それが何を意味しているのか分からないが、今トモキが抱いている不信感は他人には伺い知れないほど深刻なものであるようだ。
ちゃんと向き合って正直に話さなければならない、と思った。
「俺、サオリちゃんが好きだ。すごく。すごく大切に思っている。サオリちゃんがトモキ君を好きなのは分かっている。その事をすごく苦しく思うこともあるけれど、サオリちゃんが好きなのが他の誰かじゃなくトモキ君なのを、すごく嬉しくも思うんだ。これは本当だよ? 君みたいに素敵な奴って、他にいないもん。俺は君と友だちなのがすごく嬉しいし、誇らしい気持ちがする。これも本当だよ?」
トモキがどんな反応を見せるかヒロは正直怖かった。力任せに握りしめられたら、細いけれど長いトモキの指に掴まれて、まだ塞がっていない傷口が簡単に開いて、真っ赤に血を吹き出すのをイメージしてしまった。その強張りが、トモキにも伝わってしまっているだろうか?
「そう……、ありがとう…………」
トモキの指先がそっと布を撫でながら離れた。
「僕たちのことは心配しないで。僕とサオリちゃんは……ちゃんと分かり合ってるから……。それじゃあね」
トモキは青ざめた顔に無理やり笑みを浮かべて、歩いていった。
「まるっきり大丈夫そうじゃないな……」
ヒロはトモキのふらふらしそうな後ろ姿を見送り、それでも今の状態で出来るのはこれが精一杯だろうと諦めることにした。また午後の講義をいっしょに受けるから、先生のカウンセリングを受けてもっと落ち着いていることを期待しよう。……水神先生も態度は怪しいが、トモキを大切にしている気持ちは本物だろう。
講堂に置きっぱなしにしているサオリの所に急ぎ戻った。こういう事態になると二人っきりでいるのもなんとなく自分自身の気持ちを怪しく感じてしまうが、これまた仕方ない。食堂に誘って二人でランチをとることにした。
サオリは言葉少なで気まずい思いがしないでもなかったが、嫌ではなかった。サオリの方もヒロにどこかに行って一人にしてほしいとは思っていないようだ。いっしょにいることで安心感を与えられる存在であるのが嬉しくもあり、寂しくもあった。サオリにとって自分は異性としてドキドキときめくような相手ではないのだろう。
午後の講義に、トモキは出てこなかった。
水曜日はトモキとサオリはもう1時間講義を取っていたが、そちらの講堂に移ってからもトモキは姿を現さなかった。ヒロはこの「社会問題論」は取っておらず、いつもなら夕方から倉庫のバイトなのだが、このけがで倉庫もパチンコもアルバイトはしばらく出来ない。サオリは心配して携帯に掛けたが、トモキは携帯の電源を切っていた。
講義開始が迫ると、サオリはいても立ってもいられず、ヒロを誘って講堂を出た。
二人で水神ルームを訪ねたが、ゼミは前の時間からぶっ通しで行われており、すみませんと頭を下げて訊くと、トモキは昼休みも先生を訪ねてはいなかった。
「トモがいないの?」
先生はきつい目でヒロを睨んで訊いた。
「しばらく外で待ってなさい。こちらをまとめますから」
驚いたことに先生はゼミを強引に終了させる気のようだ。ゼミには女子ばかり8人の学生が参加しているが、さすがに熱心な水神女史の信奉者たちもこの強制処置には驚いたようだ。
廊下で、ドアから少し離れて、サオリと話した。
「誕生日の夜のこと…、まだトモキ君と修復できてないの?」
こうなってみるとあの夜の二人の衝突は決定的なものだったらしい。トモキのかたくなさも心配だが、きっと同じようにサオリの心も傷ついているはずで、やっぱりヒロはちょっとトモキに腹が立った。それはどれだけ自分が憧れている立場であるか、それをこんな風に拒絶して、大事な恋人の心を傷つけて、どんな事情があるにしろ同じ男として許せない気持ちだった。
「サオリちゃん、大丈夫?」
サオリはすっかり青ざめ、何も答えられないようだ。
しばらくして、ゼミの学生たちがいささか不満そうな顔をしながらぞろぞろ退出してきた。ヒロは何だか自分が悪いみたいに頭を下げて見送った。
水神先生が顔を出し、招いた。
「入りなさい。話を聞こう」
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