第26話 昔の事件

 ヒロは腕を7針縫われた。幸い筋肉を傷めるような深い傷ではなく入院の必要も全くなかったのだが、半ば強引に入院させられてしまった。運ばれたのは市外の警察病院だった。それを知らされてヒロは自分が犯人に疑われているような気がした。

 夜になってあの刑事二人組の訪問を受けた。この尋問のために入院させられたのだろう。

 刑事の顔は冴えなかった。

「千恵美さんは見つかりませんか?」

「見つからないねえ。参ったよ、君が会ったD棟から先の足跡がまったく掴めない。彼女はいったいどこに消えおおせたのかねえ?」

「刑事さん、僕を疑ってます?」

「わたしが?君を?」

「予断を許さず、でしょ?」

 ふふん、と刑事は親しみを表すように笑った。

「確かに怪しいねえ? 桝岡亮二も尾崎千恵美も君に会った直後にまるで煙みたいに消えている」

 桝岡も、この刑事の自信満々の見込みはまるで外れて、まだ見つかっていない。桝岡の重症の状態から見て、これは異常な事態と見なければならないだろう。桝岡を刺した強盗犯のその後の情報もまったく耳に入ってこない。

「君、魔術師か何かかね?」

「まさか」

「だよねえ」

「僕のことも調べたんでしょう?」

「まあねえ。言っちゃあなんだがごくごく平々凡々な学生さんだあね」

「それはどうも。ほっとしました」

 刑事は何を考えているんだかよく分からない顔でじっとヒロを見た。

「君、水神由布子さんの生徒さんなんだなあ」

 ヒロはうん?と首をひねった。

「水神先生をご存じなんですか?」

「うん…、まあねえ……」

 刑事は首を巡らし、わざとらしい目つきでちらりとヒロを覗き見るようにした。

「君、口は硬いかね?」

「いえ。軽くて失敗ばかりです」

「そうかい。まあその正直なところを信じて話してやろうか」

「はあ……」

 軽いと言っているのに、どうもヒロは自分がお調子者で口が軽いばかりでなく、人の口まで軽くさせてしまう才能があるようだ。もっともこの刑事の場合、ヒロの口の軽いのを利用して水神先生に何かしら圧力を掛けたい思惑があるようだ。石田を利用する水神先生とちょうど狐とタヌキの化かし合いだ。

「水神先生が、何か刑事さんのごやっかいになるようなことがあったんですか?」

「まあな。前にもあったんだよ、君の大学の若いイケメンの助教授が行方不明になったことが。もっともあれは今回みたいなミステリーじみた脱出トリックがあるような事件でもなかったが。その後の足取りも情報もぱったり無いっていう点ではいっしょだな。いつもの日常生活から忽然と姿を消し、以後まったく音沙汰なし。事件、事故、何者かに連れ去られたのか、自分から失踪したのか、まるっきり分からん。手がかりゼロだ」

 刑事は「お手上げ」した。

「一つ、手がかりになりそうな噂が、そのイケメン助教授君がどうやら惚れていたのが、水神由布子講師だ。周りの人間の話ではかなり熱心にアプローチしていたらしい」

「それに対して、水神先生は?」

「これがどうもはっきりしないんだなあ。嫌ってはいなかったようなんだが……かっこいいだけじゃなく、性格的にも教育者としても研究者としても、なかなか評判のいい男だったようだからな、好意的ではあったようだが、それはあくまで同僚としてのつき合いで、あまりその、男女の関係としては、特に気がないようだった、とのことだったな。本人に訊いたら、助教授として尊敬はしていましたが、あくまで同僚としてのつき合いで、深いつき合いはありませんでした、とのことでな、冷てえ感じだったなあ。あの頃はもっと女らしくてまだかわいげがあったがな、今日会って驚いたね、なんというかまあ…すっかり凛々しい感じになっちまって……」

 刑事は多少皮肉混じりに苦笑いした。

「それは、いつのことです?」

「失踪か? 5年前だな」

「5年前……」

 ヒロは考えた。

「その頃はもっと女らしかったんですか?」

「まあな。ただ影があったな。その点昨日見たときはさっぱりしてたな。もっともあの頃は家族にも不幸があったからその影響かも知れんが……」

 刑事は言ってもいい事かヒロの反応を探った。

「お姉さんが自殺しているんですよね?」

「知ってたか? 水神さんが言ったのか?」

「いえ、別ルートの噂で……」

「そうか。人の口に戸は立てられない、か。そういうのは何年経っても話題になるものだな。そういうことなんだろう、今のすっかり枯れたみたいにポキポキした態度も周りのそんな目に対抗したものかも知れんな」

 ヒロはまだ5年前という数字を考えている。

「その失踪事件って、正確にはいつです?」

「約5年前の12月の初めだ」

「その年に光済病院の視察中の事故が起きてますよね?」

「光済病院の事故?」

「廃業した、旧・葉山台光済病院。そこの再開準備の視察で、新院長候補の医者が事故死してるんでしょう?」

「おう。……君、いろいろ知ってるね?」

 刑事はちょっと態度を改め疑り深くヒロを見た。

「その事故は、いつ、何月のことです?」

「あれか……、確か近かったな……10月……か?」

「9月の末ですよ」

 控えに回っている相棒が注釈した。

「おう、そうか。9月の末だ。確か市議会で予算が可決されて、本格的に再開が決まったんじゃなかったかな?」

 そうか?と振り返る刑事に相棒はうなずいた。

「それが、なんだってんだ?」

「先生のお姉さんが自殺したのがまだ営業中だったその病院の中で、先生たち姉妹は、当時の院長の娘なんでしょう?」

「そうだ。だから?」

「……いえ…、確かそうだったよなと思ったから確かめただけです……」

「ふうーーん……」

 刑事は本格的に疑いの目でヒロを眺めた。ヒロも居心地悪く感じたが、いいやと思って訊いた。

「その時、その助教授の失踪時、先生は何歳です?」

「水神由布子は29歳だったな。ついでに、君が興味を持っているようだから教えると、その3年前、自殺した姉・鶴橋今日子(つるはしきょうこ)は当時30歳、妹由布子は26歳だったな」

 先生のお姉さんは4つ上で、すると現在先生は34歳というところか。

「お姉さんの自殺の動機はなんだったんです?」

「ふむ……」

 刑事はじっとヒロを見つめ考えていたが、首を振った。

「動機は健康上の悩みだ。状況から見て自殺であるのは間違いない。事件性がない以上、それ以上のプライバシーは明かせないな。それよりも、聞きたいな? 君はいったい、何を考えている?」

 刑事は取調室にいるように真実を話さない限り絶対にここから出してやらんという厳しい目でヒロを睨んだ。しかしヒロはそんなベテラン刑事の睨みも上の空で考え込んだ。ようやく思い出したように。

「分かりませんよ、僕にも。何がどうつながるのか、つながらないのか、さっぱりです。ただ、一連の事件の中心には水神先生がいるような気がしてなりません。……素人の当てずっぽうの心証ですけどね」

「一連の事件というのは何を言っているんだね?」

「桝岡さんと千恵美さんの消失。今知った先生に好意を寄せていた若い助教授の消失」

「消失とは大げさだな?」

「桝岡さん、全然見つからないんでしょう? ……犯人はどうしました? これだって簡単に逮捕できるはずじゃなかったんですか?」

 刑事は苦い顔をした。

「当てが外れたのは認めるよ。地理的な下調べなんて住宅地図でも出来るからな、事前によっぽど上手く逃走ルートを計画していたんだろう。今や深夜営業のコンビニだのパチンコだの、強盗事件も多すぎてな、犯人側にもすっかりマニュアルが出来てるんだろう」

 ベテランらしくもなく愚痴っぽく言った。しかしそれよりヒロは。

「犯人も……消失しているんじゃないですか?」

「なんだってえ?」

 刑事は苦虫をかみつぶしたみたいにヒロを睨んだ。

「桝岡さんはそれを確信したから、素直に消えたんじゃないか…。でなければあの状況でドアを受け入れたのは納得行かない」

「『ドア』ってのはなんだ? 君は、桝岡や、尾崎千恵美を、連れ去った者を知っているのか?」

 刑事は目をギラギラさせて恐い顔ですごんだ。刑事のすごみに、ヒロはかえって毒気を抜かれたみたいに淡泊な顔で答えた。

「刑事さん、『赤いドア』って都市伝説、知ってます?」

「はあ? ……知ってはいるが……」

「本当のことを白状しますとね、千恵美は『赤いドア』に入っていって、消えたんですよ。おそらく、桝岡さんも」

「おいおい、あんまり警察舐めるなよ? 若いもんが大人をからかって遊んでんじゃあねえぞ?」

「僕は真面目ですよ。どうせ大人が信じてくれるとは思っちゃいないし、正直自分だって自分の見た物が信じられないし、僕の頭を疑ってくれてかまいませんよ。でも、教えてくれませんか、葉山市やこの県で、どれくらいの行方不明者がいるものなんですか? その中で、突然消えたままどこにいるのか全く音沙汰や情報のない人間が、どれだけいます?」

「さあ……今ここで訊かれてもなあ……」

「この5年でいいですよ、葉山市を中心とするこの地域で、そういう、消失者が多いって聞きましたよ?」

「それはないだろう。去年1年でも全国で9万人の行方不明者がいるんだ、この地域だけ突出して多いなんて事はない」

 刑事は「消失」という言葉は無視して言ったが。

「そんなに多いんですか?」

「ああ。自殺者の数も分かってるだけで3万2千人を越えるんだ、行方不明って連中も、どこで生きてんのか死んでんのか、分かりようもないね」

「そうですか…………」

 ヒロはその数の多さにすっかり意気消沈してしまった。全国でそれだけの数がいたのでは、この地域だけ抜き出して突出して多いとは言えないか。

「ほんとですね……、そんなんじゃ本当にボランティアの志願者なんて、いくらでも候補がいますね……」

「はあ? ボランティアたあなんだ?」

 ヒロはどうでもいいやと元気なくおどけて言った。

「赤いドアの管理人の女がね、そう言ってましたよ」

「そんな奴がいるのか? どんな女だ? どこで会った?」

「夜の公園のトイレの隣に赤いドアが現れて、中から出てきました。すみません、実は僕、その時飲酒してました。真っ赤なドレスを着た、なかなか美人でしたよ?」

 刑事は胡散臭そうにして、本当にヒロの頭を疑っているようだ。

「まあいいさ。今日のところは話を聞いといてやる。また絞ってやるから覚悟しとけ?」

「やだなあ、刑事さんを信用して正直に話したのに」

「アホ見たな? 刑事なんて信じるおまえさんが悪いんだよ」

 刑事はニッと笑って、

「養生しとけ」

 と言い捨てて病室を出ていった。ヒロはけっこういい人っぽいなと思った。

 ……先生に思いを寄せていた青年助教授の失踪……。

 先生は何を考えて、自分を動かしているのだろう?

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