第25話 血の月曜日
日曜日。ヒロは千恵美に招待されたクラシックコンサートのデートをした。
フォーマルに装ってこいと言うので入学式のスーツを引っぱり出して着てきた。千恵美は「かっこいいわよ」と褒めてくれて、彼女自身はフォーマルと言うよりエレガントと言った方がふさわしく、柔らかで上質なスーツを着て、ふわりと巻いたスカーフをアクセントに、メークも大人っぽく、ヒロには眩しいほど綺麗だった。自分とのデートに最上級の装いで来てくれたことに感動した。
コンサートは弦楽四重奏の室内楽で、しかもプログラムはモーツァルトとメンデルスゾーンの明るく軽やかな物で、このところ連続している緊張と興奮に、昨夜の飲み慣れないビールの余韻もあって、ヒロは演奏の間中眠ってしまわないように必死だった。
このコンサートは元々いっしょに来る予定だった友だちが急きょ都合が悪くなり、ヒロはその代役だった、と終了後喫茶店で休みながら種明かしをして千恵美は笑った。
「これはさすがにヒロ君には退屈だったかな?」
ヒロは苦笑いし、
「趣味のいいお友だちがいますね?」
と返した。千恵美は笑いをティーカップで隠すようにし、
「でも。このデートがヒロ君の特別の思い出になってくれたら嬉しいな?」
と、優しい笑みをたたえた目でヒロを見た。
「うん。俺も、そうなったらいいな。1年2年経って、こうやってお茶しながらそういえば2回目のデートの時は、って、千恵美さんといっしょに笑いたいな」
「そうね。それは楽しそうね」
この日の千恵美は装いのせいかすごく優しかった。
月曜日。
午前2つの講義をトモキ、サオリと共に受けたが、やはり二人の間には微妙にぎこちない空気が流れているようで、ヒロが間に入って明るい雰囲気を保った。
昼休み、トモキは午後1時間目に水神先生の「ジェンダーとメディア」の講義を受けるということで、さっさと水神ルームに行ってしまい、サオリも友だちに「たまには女の子同士で語り合い食べ明かそう!」と誘われ、どこかに行ってしまった。ヒロは昼休みは千恵美とランチデートなので二人とも気を使ったのだろう。
しかし千恵美は時間になっても現れなかった。
一人でランチをとりながら、トモキはまた水神先生に慰めてもらっているのかなと思った。
けっきょく昼休みの間千恵美は現れず、携帯に連絡もなく、ヒロも忙しいのだろうと思って自分から連絡を取ろうとはしなかった。
午後1時間目の講義はヒロ一人だった。トモキは水神先生の講義だし、サオリは何も取っていないから女子たちと楽しくお茶会を続けているのだろう。
講義が終了すると、夕方からは倉庫作業のアルバイトだ。いつものようにカフェで時間を潰そうかと思いながら、講義の最中マナーモードにしてある携帯にメールが入っていたことを思い出しチェックした。
サオリからだろうと思ったメールは、千恵美からだった。
至急D棟の第4ミーティングルームに来てほしい
というものだった。至急と言われて時刻を見ると、メールが来たのは30分前だった。講義中に呼び出されても困るなあと思いつつ、D棟と言われて「覗き」の嫌な思い出がよみがえった。
「なんだろなあ、ミーティングルームって、鍵が掛かっているはずだけど」
と思いつつ恋人への誠意を見せるために足早に外に向かった。
D棟は完全に独立していて屋外に出なくてはならない。渡り廊下から外に出て前庭に回ると、派手なサイレンの音が近づいてきて、パトカーが2台、正門から入ってくるのが見えた。
ヒロはなんとも嫌な予感がしてD棟に急いだ。
誰もいない建物を4階に上がり、第4ミーティングルームに来ると引き戸が少し開いていた。そっと大きく開き、
「千恵美さん」
と呼びかけた。
トン、と背中が叩かれた。
「ヒロ君」
千恵美が背後に立っていた。廊下の曲がった陰にでも隠れていてヒロが来るのを待っていたようだ。
「入って」
ヒロを押し込むようにして、自分も入ると戸を閉め、鍵を掛けた。
しんと静かな部屋に二人きりで、ヒロは心臓がドキドキと鳴った。
「千恵美さん、何?」
千恵美は今日は真っ赤な上下揃いのスーツを着ていた。下は膝上丈のスカートだ。
部屋は長机がコの字型に並べられ中央が空いている。千恵美はずんずんヒロに迫ってきて、ヒロは中央へ追いやられた。
「パトカーね」
さっき正門から入ってきたパトカーのサイレンはもう消えているが、別の複数のサイレンがまたこちらに近づいてきている。ここに向かっているのだとしたらただ事ではない。
千恵美は無表情の顔をヒロに向けて、口を笑わせた。
「ヒロ君。わたしのこと、愛してる?」
ヒロは彼女に恐怖を覚えていた。なんと答えるのが彼女の気に障らないのか怯える気持ちで考えたが、思い切って言った。
「まだ、分からないよ」
「そう。残念。でも、仕方ないわね」
千恵美は迫ってきて、ヒロの左腕に体を押し当てるようにして、左手をヒロの胸に這わせた。
「ヒロ君の鼓動を感じる」
頭を肩にもたれさせてきた。
「命って、大切かな?」
「当たり前じゃないか」
「そう? 愛と、どっちが大切かしら?」
「それは…………」
「いいよ。ヒロ君の命が欲しいとは言わないから」
千恵美は胸に当てていた手をヒロのあごに触らせた。
「ごめんね、ヒロ君、あなたはいい人よ。もっと時間があったら…、愛したかな? 思い出のキスしてあげたいけど…、ごめんね、最後のキスの味を消したくないの」
千恵美が離れていき、ヒロはほっとした。
千恵美はスーツの内から鞘付きの果物ナイフを取り出し、鞘を取ると、刃に赤い色がこすりつけられたようにこびりついていた。
「殺しちゃった、あの人」
ヒロは腰が抜けそうになった。
「奥さんと別れるって言うから、本気で愛したのに、やっぱり別れられないから君と別れようなんて言うんですもん。あの人の愛を奥さんに取られたくないから、殺しちゃった。もうずっと、わたしの物」
ヒロは声を震わせながら言った。
「な、なんだよ、それ? ただの不倫じゃないか? 愛とか何とか言って、たった、それだけのものかよ?」
千恵美の瞳がぬらりと赤く揺らめいてヒロを睨んだ。
「あなたにとっても、愛って、そんなもの? 上っ面の言葉だけで、女の体を楽しむためのただのゲーム?」
「違うよ、そんなんじゃないけど……。誰だよ?千恵美さんの不倫相手って? そいつがくだらない嘘吐き野郎だってだけじゃないか? 誰か言ってくれれば、俺がぶん殴ってやったのに」
千恵美は可笑しそうに笑った。
「退学覚悟で? わたしのゼミの助教授よ?」
「え?……」
どんな男か知らないが、途端にその助教授も千恵美も汚ならしい人間に思えた。その表情を敏感に察して千恵美が怒りを内包した無表情になった。
「わたしたちの愛を軽蔑しないで」
「ごめん……」
ふふっ、と千恵美は能面のように笑った。
「もういいわ、こっちの人にどう思われようと。あなたに頼みたいのは、わたしのために『赤いドア』を呼んでほしいの。わたしはそこを通って、この世界にお別れするわ。もうわたし、殺人犯だし、この世界で生きていられないわ」
「そんなこと……」
「いいのよ。わたしはあの人の愛を奪った。命を奪ってね。わたしもこの世で同じ罰を受けなくてはならない。だから、さあ、『赤いドア』を呼んでちょうだい? わたしをこの世界から追放して、別の世界に送ってちょうだい!」
「そんなこと、俺に出来るわけないだろう!?」
千恵美の目がヒロの背後を見て、顔が歓喜に輝いた。
ヒロがまさかと振り返ると、あの公園で見たのと同じ、赤いドアが白いドア枠に収まって立っていた。
ヒロは思わず後ずさった。反対に千恵美は両手を差し出し、ドアに歩み出た。
「これが、世界のドア!……」
ドアの赤が、透明に光り、ワインレッドのゼリーのような質感に変わった。
ギイ…と金属のきしりを立ててノブが回り、扉がこちらに開かれてきた。
「ああ……」
千恵美が歓喜に震え、ヒロの全身に湿った甘酸っぱい匂いが吹き付けた。
ドアの向こうは、赤く光っていた。色が強烈で中の様子は分からないが、生々しい生き物の気配がした。何かの命がドクドクと脈打ち、毒々しく甘酸っぱい匂いを放って、まるで食虫花がハエを誘うように、千恵美を招いていた。
「駄目だ!」
ヒロは横から千恵美に組み付き、ドアから引き離そうとした。
「あれはあなたが思っているようないいものじゃない!」
左の二の腕にザクッと鋭い痛みが走って、ヒロは驚いて跳ね上がった。千恵美がナイフで刺したのだ、容赦なく。
「邪魔しないで」
ナイフを放り投げると、ドアの赤い光に飛び込んだ。
「千恵美さん!」
バタンとドアが閉まり、ふっと空気が吸い込まれるように、一瞬でドアは消えた。
ヒロは空気の渦に吸い込まれるように頭がグランと揺れ、気がつくと、
しんとした会議室に、ワンワンと甲高く、パトカーのサイレンの音が響いてきた。
「い、痛てててて……」
床に転がるナイフと、腕にざっくり斬りつけられた傷と、これだけ跡を残してくれては知らぬ存ぜぬは許してもらえないだろう。
ヒロは携帯でトモキに電話した。
「もしもし、トモキ君? 先生に代わってくれるかな? 俺、刺されちゃった…」
救急車で応急処置を受けるヒロを呆れた顔で見ているのはすっかり顔なじみになってしまった刑事だった。
「また君かね? 今度はあの付き合ってた彼女だって?」
「見事ふられましたよ。自首を勧めて、この有様です」
刑事は一応感心した顔でうなずき、尋ねた。
「彼女…尾崎千恵美は逃げたんだね?」
「ええ。説得むなしく」
「彼女は、使われていない会議室に隠れて、二股かけていた君に助けてくれるよう求めた?」
「ええ。それで優秀な警察から逃げるのなんて無理だから自首するべきだと説得を試みたんですが、逆上されて、このざまです」
「ありがたい皮肉をどうも。それで尾崎千恵美は君を残して逃げた?」
「ええ。僕は痛くて、とても走れたものじゃなかったです。刑事ドラマみたいにはいきませんね?」
「ふん…。彼女が大学の中に行ったか、外に行ったか、分からないかね?」
「分かりません。電話で助けを求めて、窓から捜してみましたがもう彼女の姿はありませんでした」
「ま、仕方がないか…。君には色々聞かなければならない事があるから、よろしく」
「僕も、刑事さんには色々聞きたいですねえ」
刑事は渋く顔をしかめ、救急隊員に行ってけっこうですと合図した。元々刺された助教授のために呼ばれた救急車だが、現場で死亡が確認され、緊急の用はなくなった。これからヒロを治療してくれる病院へ運んでくれる。
バタンとドアが閉められ、後の騒ぎは取りあえずヒロは知らない。
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