第24話 帰り道の公園で

 大学の駐輪場へ自転車を取りに行く道すがら、コンビニに入って500mlの缶ビールを買った。近くの児童公園に行き、ベンチに腰掛けて缶をあおった。ゴクリと飲み込み。

「ウゲエ、苦ええ〜〜。ノンアルコールと全然違うじゃん」

 買ったのは発泡酒ではなく本物のビールだ。二口目を飲んだが、三口目はなかなか飲もうという気が起きなかった。飲み慣れない物に体が拒否反応を示している。

 なにやってんだかなあ…、と、ぼうっと街路灯の明かりとそれに作り出される黒い陰を眺めた。

 ベッドにもたれたサオリが本当に眠っていたのか怪しいところだ。お邪魔虫はさっさと退散しろと言うことだろう。

 今頃は二人で……

「あーあ、ちくしょう」

 勢いでもう一口飲んだが、げえ〜〜、と、胸がいっぱいになった。350mlで十分だったと後悔した。深夜の駅のおやじサラリーマンみたいにべろんべろんに酔っぱらってやろうと思ったのに、これではとても無理なようだ。

 それでも缶を握ったままぼうっとしていると酔いが、それもかなり急激に回ってきた。頭の中が水に浸かって波に揺られているように座っているのにバランス感覚が怪しくなってきて、目をパチパチさせた。動くと胸が劇的に気持ち悪くなりそうで、耐えるようにじっとしていた。酒に酔っぱらうなんて、まだまだ4ヶ月は早かったようだ。

 四角い小さなトイレがある。一応男女別だ。いよいよ危なくなったらあそこに駆け込む羽目になるかなと眺めていると、その隣に、ドアがあるのに気づいた。

 トイレの建物の隣に、少し離れて、枠にはまったドアが立っている。

 はて?、と、ヒロはかなり怪しい頭で思った。

 ドアは、それだけがそこに立っていて、その後ろは、少し離れて金網のフェンスがあって、その後ろは民家の壁がある。

 何か子供向けの遊具の一種かな、最近の公園はしゃれた物があるなあと思った。

 ドアは赤い、つるんとした金属製の物であるようだ。トイレの影がかかって半分真っ黒になっている。

 ヒロは何とはなしにぼうっと見続けていた。半分眠っているような感じだ。

 キイ…、と、ドアノブが回ったように見えた。なおもぼうっと見ていると、ドアが開いた。

 こちら側に、ゆっくり、スーッと開いて、向こうに、赤いワンピースを着た女が立っていた。

 あはは、こんな所で遊んでらあ、と、ヒロはのんきに思ったが、女はまっすぐこちらを見て微笑を浮かべ、ヒロはようやくハッとした。

 女はドア枠を越えてこちらに歩いてきた。街路灯の明かりが半身を照らし、明かりは女の歩いてくるのに従って後ろに回ったが、近づいた女の微笑を浮かべる顔は、若く、美しかった。ヒロは目を細め、瞬かせ、それを知っている女だと思った。

「こんばんは。こんな所で一人で酒盛り? 何かいいことでもあったのかしら? それとも、悲しいこと?」

 女は美しく魅惑的に笑った。やはりよく知っているように思ったが、同時に、いや、他人のそら似だと思った。……他人の……だろうか?………

「ねえあなた、わたし今ボランティアを募ってるんだけど、協力してくれないかなあ?」

「ボランティアって、なんの?」

「そうねえ…、献血…みたいなものだけど……、もっと、献身的な協力が必要なのね。まあ…、ぶっちゃけ?、臓器ボランティアみたいな?」

 ヒロは目を剥き、ギョッとした。女は、うふふ、と魅惑的に笑った。

「駄目かなあ? とっても、必要なんだけど? そうね、後2人、是非、必要なの。それで、完成できるわ」

 ヒロはゴクリとのどを鳴らして震える声で訊いた。

「完成って、何が?……」

「とっても、素敵な物!」

 女は目をクリッとさせ、顔を前に出して、ニイッと歯を見せて笑った。

「素敵な物って?」

「教えてあげなーい」

 子どもが意地悪するように言ってくるりと身を翻した。赤いスカートの裾が舞った。

「あなたには……病院で…、会った……」

 ニイッと笑い、

「分かっちゃった?」

 ぬらりと濡れた光沢を放つ目でヒロを見つめた。

「あなたは……誰なんです? ……先生の……お姉さん?…………」

 女は水神先生によく似た顔で、猫のように目を細めた。

「さあ……わたしは誰でしょう? うふふふふ」

 からかっている。

「それよりも、ねえっ? ボランティア、志願してくれないかなあ? 代わりにねえ、素っ晴らしい体験させてあげる!」

「なんですそれ? 思いっきり怪しいじゃないですか?」

 ふふふーん、と女は横目にヒロを眺めた。

「君は……、他のボランティアさんみたいにはいかないなあ……。みんな、自分から志願して来てくれるんだけどなあ? 君にはもっと、積極的な理由が必要かな?」

「そんなもの、あるわけないじゃないか……。ま、桝岡さん! 桝岡さんも、あんたが連れていったのか?」

「そうよ。呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーーん! ふふふふふ、あの人にも、我を忘れる極上の気持ちよさを体験してもらったわ。もう、この世にはなんの未練もないようにね?」

「嘘だ。未練がないわけない。桝岡さんは、奥さんと娘さんのために仕方なく自分が犠牲になろうとしたんだ!」

「はあ〜〜ん? 君い、お子さまだなあ? 世の中のことがなんにも分かってないのね? あのおっさんはね、逃げ出しただけよ、こっちの、辛い世界から。自己犠牲なんてね、ただの言い訳よ。わたしが言うんだから間違いないわ」

 女は勝ち誇ったように腕を組んで足を開いた。

「ま、あっちの世界なんて、ボランティアさんには、無いんだけどね? アハハハハハハ」

 ヒロは女にどす黒いまがまがしさを感じた。

「あんたは、悪い物だ」

「ふふん? わたしが悪者? ふうーん。ま、そういう評価はね、どうでもいいの」

 ふざけていた女の顔が、スッと冷たくなり、ヒロを突き刺すように見つめた。

「後二人、身を捧げてもらうわ。それは決まっていること、変更はないわ。ただ、誰に身を捧げてもらうかは、よれよれのじいさんばあさんでなければ、誰でもいいのよ。ああ、赤ん坊やまだ小さい子どもも駄目。成人の肉体がいるのよ。それでね、ボランティア候補なんて世の中いくらでもいるんだけど、わたしとしては出来たら君に協力してほしいんだなあ」

 じっと冷たいままの目で見つめられ、ヒロはあえぐように声を出した。

「どうして?……」

 女は、ふふっ、と猫のように笑った。

「しゃべりたいんだけどお、しゃべると怒られるから言わない。ごめんなさいね?」

「誰に怒られるんだ?」

「こわ〜〜〜〜い人。ふふふふふふふ」

「先生か?」

「あら。さあ〜? 知〜らない」

 女は口の前に指でバッテンを作って、わざとらしくクリッと目を回した。

「どう? 君、つまんない人生なんて放っぽり出して、引き替えに、これ以上ない極上の快感を得てみない?」

「嫌だよ。どう聞いてもインチキなアダルトサイトの勧誘じゃないか?」

「あら失礼ねえ? わたしは、インチキ、ではないわよ?」

 女は笑うと、チラッと白けた表情を見せて、ヒロから身を引いた。

「ま、ちょっと挨拶してあげただけよ。君をここで強引に誘うつもりはないから。それじゃあ、さよなら」

 女は開いたドアに入っていき、気がつけばそこはぽっかり穴が開いたように真っ黒で、背中を見せていた女はこっちを向くとひらひら手を振って、ドアノブに手を伸ばした。

 ヒロはじっと凝視していたが、女がドアを閉めると、頭がくらくらして視界がぐらぐらと揺れ、ハッと見直すと、ドアは消えていた。

 ヒロにはもう、今のが現実にあったことなのか、悪酔いして幻を見ていただけなのか、判断がつかなかった。

「ヒロ君!」

 呼びかけられ道の方を見ると、サオリが強張った顔で立っていた。

「あれ? サオリちゃん? うーん…、まだ夢の続きか……」

「何言ってんの?」

 歩いてきたサオリは、確かに現実の本人だった。

「大丈夫?」

「あんまり大丈夫じゃないみたいなんだけど…、なんで?」

「今ね……」

 サオリは恐そうにトイレの方を向いた。

「ヒロ君の前に青い人魂が漂っていて、スー…っと、そっちの方に飛んでいって、消えたの」

「人魂かあ……。じゃあ俺、やっぱ幽霊としゃべってたのかなあ?…………」

「大丈夫?」

 サオリはヒロの顔を覗き込んでもう一度訊いた。

「うん…、大丈夫……になった。もうすっかり酔いも醒めちゃった」

 と、握りしめていた缶ビールを掲げた。

「あっ、こら、未成年」

 サオリが取り上げようと伸ばす手をヒロは笑って避けた。

「高いんだぞお、これ?」

「知ってるわよ」

 サオリは取り上げるのは諦めて、ヒロの隣に座った。ヒロは訊いた。

「なんで……ここにいるの?……」

 サオリはしばらくしてから答えた。

「トモ君に追い出されちゃった」

「どうして? 恋人同士だろう?」

「わたしたちってね、仮面夫婦ならぬ仮面恋人なのよ。トモは……そういうの、駄目なんだ……」

 ヒロはとっくに酔いが醒めたのに血管がドクドク脈打って、酔ってるときよりずっと体が熱くなった。

「でも………」

 ベッドの上のブラとパンティーがまざまざと思い出された。トモキにだって明らかに男の欲望がある。しかし、本番では駄目なのかも知れない。それは多分、トモキの抱える「問題」のせいなのだろう。

 ヒロが何も言えないでいると、

「いただき!」

 サオリが缶ビールを奪ってぐいとあおった。ごくりごくりとヤケのように飲み、

「はあーー……、美味し……」

 疲れたOLみたいに息をつき、ヒロに缶を返した。

「あっ、間接キスしちゃった」

 酔った熱い目つきでヒロを見た。

「小学生みたいなこと言って」

 言いつつ、ヒロは口を付け、ビールを飲んだ。

「苦い。こんなのが美味しいの?」

「大人の味は、ヒロ君にはまだ早いかな?」

「あーうるさい。お姉さん風吹かすんじゃない」

 意地になってゴクゴクあおって飲みきった。

「ほらおしまい。帰るぞ」

 立ち上がってサオリを待った。

「アパートまで送っていくよ」

「うん」

 サオリはのろのろ立ち上がって、どうも足下が危なっかしかった。

「そう言えばさ、本当にどうしてここにいるの?」

 サオリは空き缶を指さした。

「あたしも帰ってやけ酒飲もうと思って。ここら辺で夜お酒が買えるのあそこのコンビニだけだから」

 コンビニに寄って分別箱に空き缶を捨てた。振り返るとサオリは地面にしゃがみ込んでいた。

「ワイン一人でがぶ飲みしてただろう? まったく、危ねえなあ」

 二人の間にどんなやりとりがあったのか知らないが、こんな状態の女の子を夜の町に放り出すなんて、トモキらしくない無配慮に腹が立った。……それだけ深刻な行き違いがあったのかも知れない……。

「ほら、頑張って」

 ヒロはしゃがみ、サオリに負ぶさるよう背中を差し出した。かなり意識朦朧としているサオリは素直に負ぶさってきた。

「よっこらしょ、と。手の掛かるお姫様だ」

 くたっと力の抜けた体は重く、どっこいしょ、と膝を屈伸させて背負い直した。

 歩きながら体が熱くて堪らなかった。酔いも回ってきたし、背中に押しつけられた胸の柔らかさが気になって仕方ないし、首筋にくっつくサオリの頬が濡れているのが堪らなかった。

 サオリの幸せは、トモキと結ばれることにしかないのだろう。彼女がどれだけ彼を愛しているか、痛いほど分かって、こっちが泣きそうだった。

 アパートに到着し、奥に長い建物の横手、中央に階段がある。上ろうと足を持ち上げようとしたら、膝が変な痛み方をして危険を感じた。

「おい、サオリちゃん、着いたぞ。悪いけど頑張って上ってくれ」

「ん…うん……」

 酔って帰った経験があるのか、サオリは下ろされると壁を押さえながら階段を上がりだした。ヒロも片手を取っていっしょに上がり、

「鍵、出せる?」

 訊くとサオリは階段を上がりきったところで邪険にヒロの手をふりほどき、いつもやってることの反復運動のように鞄からキーホルダーを取り出し、

「はい。この通りです。んじゃ、お休みなさい」

 お辞儀して、ふらふら通路の先へ歩いていった。大丈夫かなあと見守っていると、ちゃんと鍵穴に差し込み、ガチャッと鍵を開けた。サオリはもう部屋に入って横になることしか考えていないようで、ヒロのことなんかお構いなしにドアを開けると入っていった。

「ったくもう、しょうがねえな。風邪ひかなきゃいいけど…」

 サオリの道路側の201号室のドアは階段から二つ目のドアで、ヒロから斜めに見えている。玄関に入ったサオリは感心に電灯をつけ、その明かりを受けて、外に開かれたドアの内側が、真っ赤だった。

 ヒロの脳裏にハッと同じ色の光が弾けた。

「サオリ!」

 ヒロはダッシュし、ドアクローザーのバネでゆっくり閉まっていくドアが閉まりきらない内に、ギリギリで手を滑り込ませ、引き開けた。

 必死の形相で体を躍り込ませると、手を伸ばしかけた姿勢のサオリが恐怖に似た表情でヒロをじっと見つめた。

「あっ、いや……」

 ヒロは狼狽して掴んでいるドアを見た。ドアは濃いブラウンで、室内の灯りと照らし合わせてみても赤色には見えそうもなかった。

「えーと、その……」

 なんとも気まずく言い訳を捜し、開き直って言った。

「俺はサオリちゃんもトモキ君も大好きだ。二人の仲を応援するからさ、元気出せよ!」

 サオリは呆れたように表情をゆるめ、可笑しそうに笑った。

「ありがとう。嬉しい」

「うん。じゃあ、それだけ。お休み。また大学で」

「うん、また、月曜日にね」

 ヒロが退き、閉まってくるドアの間からサオリが笑顔で手を振り、閉まると、カチッと鍵が閉められた。

「よし。ちゃんと布団に入って寝るだろう。よかったよかった」

 白々しくドタバタ騒ぎの言い訳をし、階段まで引き返してきたが、振り返り、ブラウンのドアを確かめた。

 見間違いだ、そうに違いない。

 サオリが、

 自分で赤いドアを招くような理由なんて、無い。

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