第23話 誕生日
金曜日。
金曜日はヒロはアルバイトはないので昼から1時間の講義が終わると、トモキが水神ルームに行くのを見送って、サオリと明日のトモキの誕生プレゼントを買いに街に出かけた。
ヒロのサオリへの思いは複雑だ。
先生とトモキのセクシャルな行為が、トモキの抱える問題のせいだ、と、一応は納得したものの、その後の先生への疑惑で怪しいもやもやした気持ちになってしまった。
「ねえ、サオリちゃんはトモキが毎日水神先生の所に通っているの、心配じゃないの?」
前にもした質問だが。
「別に。二人とも信じてるもん」
と、これも前と同じ答えだが、受け取るヒロの事情がちょっと違う。
サオリは、恐らく、トモキの問題のことを知っているのだろう。トモキが先生の所に通っているのはそのカウンセリングのためだと知っているのだろう。
しかし、二人が抱き合い、キスまでしていることは知らないだろう。
それを思うと、今すぐにも、電車に揺られ隣に座っているサオリを抱きしめたくなる衝動を感じる。
腕が触れ合い、そのわずかの体温を感じるだけでも、ヒロは彼女を堪らなく愛しく思ってしまうのだ。
それはもう自分から切り捨てた感情だと思うのだけれど、その決心は彼女を見る度、近くに寄る度、激しく揺れ動くのだった。
おしゃれなショッピングモールを二人で歩きながらヒロは可笑しくなった。
「こういうところを知り合いに見られるとさ、二人が付き合ってると勘違いされて騒ぎが起きるんだよな?」
「ラブコメのお約束ね?」
サオリも可笑しそうに笑った。
「実は彼氏彼女の誕生日プレゼントを選ぶのに付き合ってもらっただけ、っていうのもお約束よね?」
「だな」
さて、トモキに何を贈ったら喜ばれるか? 服か? 小物か? ちょっとした家電品か? 二人それぞれ別々に贈るか? 二人いっしょに一点豪華主義にするか?
あれこれ見て回ったが、トモキのプレゼントなんだから男の自分がイニシアティブを取ってしかるべしと思ったが、サオリはヒロのチョイスをいちいち「いまいち」と却下し、自分のセンスで選びたがった。
「チェー。自分のプレゼントと勘違いしてないか?」
「いいの。あたしの方がトモの趣味を知り尽くしているんだから」
「あっそう」
そりゃまあ恋人の選んだプレゼントの方が男友達の選んだプレゼントより気持ちの上では嬉しいだろうが、実用性となれば同性の選択の方が絶対正しいと思う。が、まあ、サオリの好きにさせた。何を買ったかは明日のびっくりお誕生会のお楽しみだ。
「ディナーの方はよろしいかな、シェフ殿?」
プレゼントを買ったサオリは自分の物みたいに上機嫌にヒロに訊いた。
「まあ任せておきたまえ! ……初挑戦メニューでちょっと不安ではあるんだけど……」
「だいじょうぶう〜〜?」
「ベストを尽くします!」
「結果がすべて」
「厳しいなあ」
「期待しておるよお?」
よおし、あまりの美味しさにびっくりさせてやる、とやる気が出た。
「駅を出たスーパーで野菜と肉の買い物付き合ってよ?」
「いいよ。……それこそトモとばったり会って誤解されたりして……」
「大丈夫かな?」
「まだ先生の所にいるわよ」
「ふうーん……」
時刻はもう5時になろうとしている。大学は院生なんて9時過ぎまで残って研究にいそしんでいるなどざらなようだが、それにしても長く二人でいるもんだ。
「じゃあ大丈夫だな。明日も頼むぜ? 昼間はデートを楽しんで、夕方上手く誘導して腹ぺこのまま帰ってきてくれよな?」
「了解」
心がウキウキして、楽しくてしょうがなかった。
※ ※ ※ ※ ※
土曜日。
昼ご飯を食べて自転車で大学へ行き、駐輪所に自転車を止め、歩いてトモキのアパートに向かった。アパートの自転車置き場に自分の自転車があってはびっくりパーティーが台無しだからだ。サオリは5時ちょうどにアパートに帰ってくるようにトモキを誘導してくる手はずになっている。5時ならまだ灯りをつけずに待っていられる。
階段を上がり、奥の205号室の前に立つ。サオリから預かった合い鍵を刺し、ドキドキしながらひねった。
「おじゃましまーす」
隣近所に宣言するように声に出してドアを開けた。相変わらず爽やかな石鹸の匂いが香った。
どさりと床に野菜の入ったビニール袋と肉の入った保冷バッグを置いた。肉の出番はまだ後なので、冷蔵庫に入れさせてもらった。冷蔵庫の中もきちんと整理されていて、豆腐やヨーグルトのパックがトモキのヘルシーな食生活を思わせた。
さて。
今夜のディナーのメインディッシュは、
ビーフストロガノフである。
肉じゃがに対抗するお嫁さん料理と言えばこれだろう。
ふふふう…と怪しく微笑みながら、実は食べたことがない。王道の名前に恐れをなしつつレシピを見てみたら……なんだ、カレーやハヤシライスの親戚で、ロシア風の要するに牛丼ではないか?
ビーフストロガノフおそるるに足らず!
メインはこれに決まって、しかしこれは時間を掛けて作る料理ではなく、出来立てあつあつを食べてもらわなくてはならない。調理の手際の良さが勝負だ。
ではまだ時間がたっぷりあり過ぎるので、手間暇の掛かるオニオンスープをもう一品のメインに選んだ。これはカレーと同じでひたすらタマネギを焦がさないように炒め続けなければならない。
1時間以上掛けてスープをコンソメで味付けするところまで出来た。後の仕上げは温め直して食べる前に行う。
さて時計を見ると……まだ3時だ。手抜きなりに料理は定期的にやっているので思ったより手際よくできてしまった。
こうなると暇だ。立ち仕事で腰が疲れたので30分くらい休憩することにした。
「おじゃましまーす……」
テレビでも見ていようかとこれまたなんとなくドキドキしながら部屋に入ると、
「あれ?」
と、思いがけずベッドの掛け布団がめくれ、パジャマが脱ぎ散らかしてあった。
「寝坊して慌てて出ていったかな?」
と可笑しくなったが、いやいや、湿気を散らすためにわざとこうしていったのかも知れない、とトモキのイメージを守るために思っておいてあげよう。
二人の今日の予定はカラオケとゲームセンターだそうだ。トモキがどんな歌を歌うのか興味のあるところだが、ヒロ自身は音痴で洋楽派なのでカラオケは行かない。そう言うとトモキは苦笑いしながらほっとした顔をし、サオリは何やらニヤニヤしていた。案外アニメソングなんかを乗り乗りで熱唱するのかも知れない。
ヒロは今日は「残念ながら千恵美とデート」と言うことになっている。実際は明日、クラシックのコンサートにご招待されている。先週の美術館デートと言い、趣味の高尚な年上女性と付き合うのもたいへんだ。
クッションに座ろうとして、背中のパジャマが気になった。部屋のコーディネートと同じ水色のパジャマだ。いかにも清潔なトモキらしいと思いつつ、はみ出した部分が背中に当たってベッドから落ちたら悪いと思ってちょっと向こうに折り返そうとしたところで、ヒロは手が止まり、しばし一点を見つめたまま凝固してしまった。
脱ぎ捨てられた水色のパジャマの下に、薄いピンク色の艶やかな布が覗いている。
胸がドキドキ高鳴って、悪いと思いつつパジャマをつまみ上げてみると、現れたのは女性の下着……ブラジャーだった。縫い目のない、シームレスのスポーツブラと言う物だろうか? 布団につっこまれるようにパンティーもあった。
ヒロはドキドキしながら思わず、触らないように、顔を寄せてまじまじと観察してしまった。実際に装着してどうなるのか男の自分には分からないが、カップは幅が広く高さは低めのようだ。つやつやと伸縮性のありそうな素材だからこれに膨らみが包まれると丁度よく形状にフィットするのだろう。パンティーの方は、さすがに顔が赤くなって顔を寄せるのをためらった。
昨日、サオリが泊まっていったのかな?、と思った。二人は恋人同士で、昨日の深夜で今日というトモキの記念すべき二十歳の誕生日に切り替わるのだから、その瞬間を二人がいっしょに過ごしたのは十分あり得る。二人とも名実共に大人になったのだから、それは誰にもとやかく言われることではない。
昨日サオリはそんなこと言ってなかったが……まあ、言わないか……。しかし今夜は泊まろうかな?ということを言っていたように思う。予定を変えただけか……。
ヒロは正直狂おしい嫉妬を感じたが、これが自分たちの現実なのだと諦めた途端、心が空虚になって変に頭が冴えてしまった。
なんでこんな風に脱ぎ散らかしてあるのだろう? サオリがお泊まりしたとして、汗をかいた下着を取り替えたとして、こんな風に散らかしておくか? ……けっこうがさつなところがあるからささっとトモキのパジャマの下に押し込んで知らんぷりしたのかも知れない。恋人同士のちょっとした悪戯心かも。でもそうするとサオリのパジャマはどうしたのだろう?……そうか、これはサオリが着た物かも知れない。トモキに借りたのだろう。しかしそうすると今現在サオリは下着はどうしているのだろう…………。下着だけ替えを持ってきていた? お泊まり用に勝負下着を買ってきたのかも知れない……ならばここに脱がれているのがその勝負下着だろうし、これはそうは見えないけれど、ベッドで事をするにはこういうシンプルな物の方がいいのかも…………
どう考えても頭の中がピンク色になってしまう。すっかり諦めたと思ったら今度はうらやましさで体がムズムズしてきてしまった。独り身の自分には刺激が強すぎる…………
ヒロはもう一つ可能性を思いついた。
これは、昨日サオリが着けていた物ではないんじゃないか? 前にお泊まりしたときに忘れていったか、今度のお泊まりの時のため予備に置いていったかしたものではないか? だとしたらトモキがそれを持ち出してベッドで何をしていたか……………
サオリは今夜ここに泊まることをトモキに告げていて、当然二人の夜の過ごし方を思って、堪らずにベッドでそのことを思いながら……………
ヒロはトモキのプライベートを覗いた申し訳なさでそっとブラジャーとパンティーを隠した。
トモキは自分よりずっと深くサオリを愛しているのだろう。彼の抱える問題が少なからず二人の関係の障害になっている事も想像できる。トモキはそのことを当然サオリに申し訳なく思って、コンプレックスになっているかも知れない。サオリはそんなトモキを温かく見つめ、守り、愛している。トモキも同じだろう。
自分は二人のよき友人でいるしかない。二人の関係に割って入って、壊してはいけない。
さて、もういいか、と、まだちょっと早いが、台所に戻ることにした。
※ ※ ※ ※ ※
「え?」
ドアを開けたトモキは、漂い出る匂いに驚いた声を上げた。薄暗い中、壁のスイッチを押して灯りをつけると、キッチンには大きな鍋が二つ電気コンロに上がり、炊飯器にご飯が炊けていた。
「よっ、お帰り。誕生日おめでとう」
こっそり階段を上がってきて後ろから声を掛けたヒロにサオリが
「きゃっ」
と驚いて悲鳴を上げた。
「なに? ヒロ君、中で待ってたんじゃないの?」
悪戯っぽく得意になっているヒロにトモキが驚いた顔を見せた。
「この料理、ヒロ君が用意してくれたの?」
「ごめんね? サオリちゃんから合い鍵預かって台所借りちゃった。決して家捜しなんて真似はしてないからどうかご容赦を」
「そう……。ううん、別にヒロ君ならかまわないんだけど……」
「ほらね?」
と、サオリがあっけらかんとした顔でヒロに笑い掛けた。
「ちょ、ちょっと待ってね? お客さん用に準備するから」
トモキは慌てたように部屋に上がっていき、サオリは
「なあに? 今さら慌てたってしょうがないじゃない?」
と笑った。その様子を見てヒロは、そうかやっぱりサオリは昨日は泊まっていなかったんだな、と思った。
「で? 今日のデートはどうだったの?」
「ジャーン。本日の戦利品」
サオリは得意そうにゲームセンターの大きなビニールバッグに詰まったキャラクターのぬいぐるみを見せた。クレーンゲームの景品だろう。
「トモと山分け。ヒロ君にもお裾分けしてあげよっか?」
「そりゃあサンキュー」
どうせ女の子向けのぬいぐるみばっかりだろうが、記念品として一つくらいテレビラックに置いておいてもいい。
「お待たせしました。どうぞ」
と言って奥の部屋からこちらに出てきたトモキは、少し潤んだ物問いたげな目でヒロを見た。
「おじゃましまーす。実はまだ最後の仕上げを残してあるんだ。じきに完成するから、オードブルを用意してあるからさ、部屋で二人で待っててよ」
ヒロは冷蔵庫から大皿に並べたクラッカーのオードブルを出した。チーズにクリームにハムに、まあそこそこ彩りよく具を載せてある。
「はい、失礼」
と、大皿を部屋のテーブルに運び、視界の端でベッドを見ると、パジャマ類は片づけられていた。
「じゃ、20分ほどお待ちください」
「ヤッホー! お腹ぺこぺこ。食べよ食べよ」
勝手知ったる洗面所で手洗いうがいを済ませたサオリがさっさとクッションに座って「おいでおいで」と主のトモキを手招いた。
「じゃあお先にいただきます」
「どうぞどうぞ」
ヒロはスープのコンロのスイッチを入れ、もう一方にフライパンを掛けバターライス作りに掛かった。
テーブルに料理が並べられた。
「待って待って! お祝いに買ってきたんだ。ジャーン」
サオリが高級そうな店の紙袋からロゼのワインを取り出した。苦労してコルクを抜き、
「トモ君。アルコール解禁おめでとう!」
ワイングラスはないので普通のコップ二つにきれいに澄んだ赤いお酒を注いだ。
「あのー、俺のは?」
「君はまだ4ヶ月待ちたまえ」
「いいじゃんかよ〜、ケチ」
「あはは。駄目駄目。君にはこれを進呈しよう」
缶のノンアルコールビールを寄越された。
「はい、準備して。それでは。川上トモ君、二十歳のお誕生日おめでとう! かんぱーい!」
「かんぱーい!…って、誕生日のお祝いってこれでいいのかな?」
「ありがとう」
トモキは笑って軽く一口ワインを含んだ。ヒロはうらやましく、どこが美味しいのかいまいち分からないノンアルコールビールを遠慮なくゴクリと飲んで、トモキに訊いた。
「どう? 大人の味は? 美味しい?」
トモキは口の中でゆっくり味わい、飲み込んだ。
「うーーん…。よく分からない」
「こらあ〜」
「でも嬉しいよ。ありがとう」
「よろしい。じゃあ、ヒロ君ご自慢の手料理を………おお!これが噂のビーフストロガノフですな? お名前はかねがねうかがっておりましたが、う〜〜ん、初めて実物を見た」
「なんだ、サオリちゃんも? 実は俺も食べたことないんだ。トモキ君は?」
「うん、僕も」
「そうなの? なんかいかにもこういうおしゃれな料理を食べ慣れているイメージだけど?」
「無い無い。じゃあいただこう?」
「どうぞどうぞ」
ビーフストロガノフはパセリを混ぜ込んだバターライスに掛けている。
「いただきます」
トモキが食べたのを見てヒロも自分で食べてみた。
「うーーん…、ビーフストロガノフというのはこういう味でいいんだろうか?」
「うん、美味しいよ」
「美味しい美味しい。西洋風おしゃれ牛丼ね?」
「やっぱそういう感じだな」
ヒロは苦笑いしたが、我ながら美味いからよし。
オニオンスープはクルトンを浮かべただけで濃い味付けはしなかった。この間ご馳走してくれた肉じゃがからトモキは濃い味付けはあまり好まないだろうと感じた。
「うん、こっちも美味しい」
こっちは手間暇かけただけあって褒められると素直に嬉しい。
三人でニコニコと、楽しい食事会になった。
デート帰りに買ってきたショートケーキをデザートに食べながら、これは4つ買ってきてちゃんとヒロの分もあって、ヒロはサオリに訊いた。
「ところでプレゼントは?」
遠慮がちに瞳を輝かせるトモキを悪戯っぽく見つめ、ワインで桜色になったサオリは、
「あたしをあげる、というのは冗談で、ちゃんと用意してあるわよ」
と、デート中持ち歩いていたバッグからきれいに包装された細長い箱を取り出してトモキに渡した。
「はい。お誕生日おめでとう。ヒロ君といっしょに選んで買ったのよ?」
「そうなの? ありがとう。…何かなあ……」
子どものように目を輝かせるトモキにヒロは、どうぞ、と開くよう勧めた。トモキは実にらしく丁寧に包装を解き、箱を開けた。
「ネックレス……」
シンプルな黒紐だが、純銀製の、トモキの誕生月の天秤座のレリーフのペンダントだ。けっこう値の張る品だ。
「どうかな? シルバーのアクセサリーは男女を問わず人気があるから……」
選んだのはサオリなのだが、ヒロは何となく言い訳めいて頭を掻いた。
「ありがとう。大切にするね」
トモキにまっすぐ笑顔を向けられ、ヒロは何だか照れてしまった。
その後。
サオリは一人でワインを飲んで、昼間はしゃいだ疲れか、ベッドにもたれて眠ってしまった。
「無防備だなあ」
とヒロは呆れ、
「じゃあ、俺は帰るよ。あ、悪いけど後かたづけはよろしく」
「うん。今日は本当にありがとうね。すごく美味しかったよ」
「いやあ…、あれが正しい味なのか未だに自信ないんだけど」
と笑い、
「それじゃあ。サオリちゃんはよろしく。トモキ君、二十歳、おめでとう」
「ありがとう。今度はヒロ君の誕生日をお祝いするね?」
「そう? サンキュー。でも、俺の時はサプライズはいらいないよ?」
「あはは、残念」
トモキは笑いながら、また不安そうなおどおどした表情になった。ヒロは手を振り、
「サオリちゃん、大切にね? それじゃ、また大学で」
「うん。また…。ありがとう…」
ヒロは笑顔でトモキの部屋を出た。
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