第21話 先生の素性

 水曜日。朝一番に水神ルームを訪ねた。水曜日は一日3、4年生相手のゼミの日で、もうちらほら学生たちが顔を見せていて、先生には迷惑そうにされたが、ヒロもこれから二人に会うのだ、確認しないではとてもまともに顔を見られたものじゃない。頑固な決意を見て取ると先生は「ちょっと出てくるから」と学生に断り、ヒロに来いと合図して廊下に出た。

 適当に空いている講堂に入り、

「で?」

 と腕を組んだ。

「実はわたしも君に尋問したいことがあったんだが、その顔を見るに、昨日、覗き見したんだね?」

 先生はきつい目で軽蔑するように睨み、ヒロも負けじと同じように睨み返した。

「ドアは鍵を掛けていた。覗くとすれば窓しかなく、恐らく、D棟から覗いていたのだろう?」

 先生は腹を立てているようだが、悪びれているようでも、弱い立場に立って言い訳しようと言うのでもないようだ。先生は白い目でヒロに訊いた。

「なんだと言うのかな? まさか講師と学生の危険なアバンチュールをけしからんと道徳心から憤っているわけでも、親切に外から丸見えですよ?と注意してくれるわけでもあるまい? 君は、わたしたちの何に、そんなに腹を立てているのかな?」

 そう言われるとヒロも自分の怒りの根拠に迷ってしまった。

「湖南沙織さんだろう?」

 ヒロは黙ったまま睨み続けた。先生は困ったものだと言うにため息をついた。

「図星か。君は、彼女が好きなんだね?」

「先生には関係ないでしょう?」

 つい口を開いてしまった自分が負けのように感じ、またあの時の悔しさがぶり返してきた。

「先生は破廉恥だ。誰もいない教室にお気に入りの男の子を連れ込んで、あんなことして、恥ずかしくないんですか?」

 先生はメガネの知的な顔をひねり、面白そうにヒロを眺めた。

「おやおや、嫉妬の八つ当たりかい? 君、安っぽいな? いや、若さ故の情熱か? 失礼した」

 と、失礼に微笑を浮かべた。ヒロは体が熱くなったが、口を開けば先生に軽蔑される安っぽい罵詈雑言が飛び出しそうで、ぎゅっと口を結んで黙っていた。先生は

「川上友樹君はこの大学でわたしの1番大切な子だよ」

 とぬけぬけ言った。ふざけきった言い分だが、言葉と裏腹に先生の目はきつく、怒りに染まって、ヒロを睨み付けた。

「そこでわたしから尋問だ。君、昨日トモに何をした?」

 思わず胸の内にヒヤッと切り込まれたような先生の鋭い視線と言葉にヒロは思わずたじろぎ、尋ねた。

「僕が…トモキ君に?」

「そうだ」

 先生はきつく決めつけた。

「何をした? 何を言った? あの子を傷つける、何をしでかしてくれた?」

 ヒロは小柄で華奢な先生に刃物でも隠し持っているような恐怖を感じた。

「僕は何も……」

「フン。」

 先生は一睨みすると、怒りの力みを解き、

「座りたまえ。見上げては脅しづらい」

 と、椅子を指さし、ヒロを座らせた。ヒロが見上げると、先生はいつもの冷静さを取り戻していた。

「ま、原因は分かってる。君の新しいカノジョ、尾崎千恵美のことだろう。トモは彼女のことを悪く言い、君を怒らせた。そうだろう?」

「そういうこともありましたけど……、それでどうして先生とああなっちゃうんです?」

「自覚したまえ、君はトモにとって特別な友人なのだ。わたしとしてはいささか腹立たしいがね」

 ヒロに指を突きつけた先生は、バアン、とやるようにその指を跳ね上げた。

 その指を唇に当て、皮膚の薄い眉間にしわを寄せ、考えた。

「君は、トモの友人かね?」

「はい」

 それは自信を持ってうなずける。大事な友人だからこそ、こんなに苦しんでいるのだ。

 先生はじっと目を覗き込み、

「信用しよう」

 と言った。

「これから言うことは川上友樹のごく私的な個人情報だ。もし外に漏らすようなことがあったら、わたしは全力で君を彼の周囲から排除する。当然大学は退学だ。いいね?」

 ヒロは頷き、秘密を守ることを誓った。

「信じよう。……彼は、ご家族と深刻な問題を抱えていてね、たまに、トリガーが引かれてパニック状態に陥る。わたしはその相談を受けて、もしその兆候が起きたら、いつでもわたしの所に来るよう言ってある。わたしは、この大学において、彼の人生において、彼の抱える問題の最大の理解者である自負がある。彼はわたしを全面的に信用している。だから、自分で自分をひどく否定するような心境に陥ったとき、わたしだけが、彼を肯定し、彼を救い上げることが出来る。昨日のわたしたちの行為は、それで納得してもらえるかな?」

 ヒロは頷き、訊いた。

「トモキ君の抱える問題って………」

「それは言えない」

 先生はぴしゃりと言った。

「本人に聞きたまえ、もし、君が彼といっしょに彼の問題を我が事としていっしょに抱え込む覚悟があるのならね。面倒を背負い込むのが嫌なら、野次馬根性で首を突っ込むのはやめるんだね、わたしが、ただじゃおかないからね?」

 先生はまた恐くなった。

「分かりました。トモキ君が僕を信用して自分から打ち明けるまで、僕からは何も言いません」

「それが賢明だろう。では、わたしから君にお願いだが」

「なんです?」

「トモと仲良くしてあげてくれたまえ。ま、わたしとしてはあまり面白くないのだが」

 先生は、また優しく甘ったるいトモキのお母さんの顔になって言った。

「トモを、よろしく頼むよ、ヒロ君」

 話はお終いと出口に向かい、

「ああ、そう」

 と振り返った。

「問題の尾崎千恵美。わたしの所に連れてきたまえ。今日はゼミで学生たちがいるから、明日にでも。いいね?」


 2時間目の講義でトモキとサオリに会った。

「おはよう」

「おはよう」

「おはよっ」

 ヒロは二人にいつも通りの挨拶が出来て嬉しく、ニヤニヤした顔をサオリに

「おやおやー? 何やらご機嫌ですなあ?」

 とちゃかされた。彼女はヒロとトモキが昨日の段階で仲直りしていると思い込んでいるのだろう。トモキの方はヒロの不気味な機嫌の良さにいささか困惑気味に、

「昨日は、ごめんね?」

 と、小さな女の子みたいな声で謝った。ヒロはさっぱり心当たりがないように

「何が?」

 と訊き、また驚いた顔のトモキは、

「お昼に、尾崎さんのことを悪く言っちゃって……」

 と、これで思い出してヒロがまた機嫌を悪くすると思ってか胃の痛いような顔をしたが、ヒロの方は

「ああ、なんだ、そんなことか。いいよいいよ、彼女が難しい女だっていうのは分かっているから。正直俺もまだ全然よく分かってないし。それより、こっちこそごめんね? そんなに気にしてくれてたんだ?」

 と、うんと心配な顔をしてやり、トモキはほっとして、心配性の自分に照れたように

「ううん」

 と笑った。

 ヒロは我ながら白々しいなあと思いながら、変わらない友だちでいることがトモキのためになるんだろうと思った。

 いつかトモキが自分から悩みを打ち明けたとき、その時には全力で力になってやろうと。



 お昼は食堂で千恵美とランチデートだ。千恵美の話はなんだか講義の続きを聞いているようで、目の前で美人講師の個人レッスンを受けられて嬉しいのだが、疲れる。

 先生に釘を刺されていたので水神ルームを訪ねるように勧めた。

「水神由布子先生? 女性の社会問題の特別講義を受けたことがあるわ。綺麗な人よね?」

 ふうーん…と千恵美は記憶をたぐり寄せるようにした。ヒロは

「千恵美さんと気が合うんじゃないかな? 先生もかなりジャンヌダルク的性格だし」

 とセールスに努め、千恵美は

「どういう意味?」

 と睨みながら面白そうに笑った。感触は良さそうだ。

「ふうーん、あの先生、霊感なんてあったんだ? それは興味あるわね」

「先生も千恵美さんにすっごく興味を持ってたよ?」

「どういう伝え方したの?」

「あの先生はね、女のくせに美人が大好きなんだよ。自分でそう言って威張ってたもん」

「あら、妖しいわね? 襲われちゃうのも……美人の先生なら面白いかしら?」

「根は物凄く真面目な先生だから…」

「冗談よ」

 うふふ、と千恵美は上機嫌に笑った。

「分かったわ、明日にでも時間を見つけて訪ねてみるわ。先生は、いつもお部屋に?」

「そうだね。講義以外いっつもいるみたいだよ?」

「そう。分かった」

 千恵美の目の色は、もうすっかり水神先生という新しい興味との会見に向いてしまっているようだ。



 午後の1時間が終わると、ヒロだけ次の講義は取っておらず、大学での予定は終わってしまった。

「じゃあ、また明日」

 と二人と明るく手を振って別れると、石田がわざわざ講義を受けていた講堂までやってきてヒロを手招いた。

「ダイちゃん今日はもう終わりだよな? ちょっと付き合えよ」

「俺、バイトがあるんだけど」

「超重要な情報があんだよ。そんなに時間は取らないから来いよ」


 お決まりのカフェに行くとカノジョの鈴音が待っていた。

「何?超重要情報って?」

 ヒロは時間を取りたくなかったので何も飲み物を買わずに席に着いた。石田は妙にもったいぶって道すがらしゃべろうとはしなかった。ここで満を持して。

「ダイちゃん、おまえさあ、水神先生に何かおかしな物を感じないか?」

「うん? 別に。なんだよ?」

 本当はおかしな物だらけだが、とぼけておいた。

「日曜日に愛しの尾崎先輩といっしょに強盗事件の被害者を病院に見舞いに行って、そしたら、その被害者がまるで煙みたいに消失しちまったんだろう?」

 ヒロは眉をひそめた。

「なんでそんなこと知ってる?」

「水神先生に呼び出し食らって説教された。つまらないことばっかり真面目な学生たち……おまえと尾崎先輩な?に吹き込むんじゃありません、ってガミガミ言いながら、おまえらの行動だだ漏れにリークしてやんの。なんか説教にかこつけて俺におまえらの情報教えてるようなもんだろう?」

 ヒロは思わず顔が強張って血の気が失せた。

「これが自分の研究にしか興味のない世間知らずのお間抜け教授様なら別だがよお、ウーマンリブ先生はそんな大ボケじゃねえだろう? 意図的としか思えねえよな?」

 その通りだろう。先生は絶対そんな馬鹿げたミスを犯しはしないだろう。

「なあ? どういう意図があると思う?」

「さあ……」

 ヒロは喉がひりついて、やっぱり何か飲み物を買って来るんだったと後悔した。

「あの頭のいい先生様は、俺がこうしてそのことをおまえに漏らすことも当然計算済みだろう。なあ? 狙いはなんだろうな?」

「分からねえよ、そんなこと………」

 ヒロは段々得体の知れない水神先生が恐くなってきた。

「俺はさ、罠じゃないかと思うんだぜ?」

「罠?」

「そうさ。でな、ここからが超重要情報の本番だ。いいか、聞いて驚け」

 石田は不気味に笑ってもったい付けるようにあごを動かした。

「水神由布子先生はな、葉山台光済病院院長の、娘だったんだよ」

「え? 誰の娘だって?」

 ヒロは頭の回転が鈍っているを意識しつつ、目をパチパチさせて聞き直した。

「葉山台光済病院、院長の、娘、だよ。あのお化け病院の院長だったおっさんの、娘。分かった?」

「『旧・光済病院』の?」

「そう。おまえが悪霊に取り憑かれ掛かった心霊スポットのだよ」

 石田は驚きに固まったヒロにうんうんとしたり顔でうなずいた。

「でも……、それがなんだって言うんだ?」

「バイトの時間はいいかなあ?」

「いいから、さっさと話せ」

 石田はニタッと子泣き爺いみたいに笑った。

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