第19話 日常の再開

 月曜日。午後1時間の授業を終えると、ヒロは水神先生の研究室に出頭した。同じ時間、トモキと石田が先生の「ジェンダーとメディア」の講義を受けていた。ヒロが先にB−302号室の前に来ていて、…次の講義があるはずだが講堂からいっしょに歩いてきたトモキに待ってもらって、中で先生と二人で話した。

 先生はデスクの椅子に座り、ヒロを立たせたまま説教するように言った。

「わたしがあなたの指導教諭と言うことで警察から連絡を受けました。また、危ないことに巻き込まれたんだって?」

 呆れたように冷たい目を向けている。

「気を付けるように、と、忠告しておいたはずだね? 自分から罠に飛び込むような真似をして」

「すみません」

 水神先生が自分の指導教諭だったとは知らなかった。前の事件で自分から手を回したのだろう。

「神社でお祓いを受けるというのはどうしたのかな?」

「はあ、週末は予定が立て込んじゃって……」

「土曜日はトモ君たちとデートだったんだって?」

 先生には隠し事がまったく無いんだなあと、背中で廊下で待っているトモキを睨むようにした。

「教育文化学科3年 尾崎千恵美。彼女と付き合ってるのかい?」

「先生は尾崎さんをご存じですか?」

「ふうん……、顔は知っていた。あっちにもたまにゲスト講師として出張講義をするから。美人、だね?」

 ニッと面白そうに笑った。

「紹介してくれないかな?」

「どういう興味です?」

「非常に熱心な反面、思い込みが激しく、どうでも自分の意見を押し通そうとするところがあって、正直なところ手を焼いている……と、ゼミの助教授に聞いた。そういう子かい?」

「まあ……そうです……」

「いいね。好きだよ、そういう子の相手をするのは。美人だものねえ?」

 ふっふっふっふっふ、と、先生はいけないことを考えているように笑った。なんだかどんどん自分に対して態度があけすけになっていくような気がする。美人を紹介しろだなんて、先生自身美人の女でなければただの軽薄な軟派中年だ。

 しかしひょっとすると先生なら上手く千恵美の思い込みの強さを無難な方向へコントロールしてくれそうな気もする。自信家の先生には難しい学生に対してそういう野心もあるんじゃないかと思われる。

「今日は? 彼女と会わないの?」

「はい。平日は忙しいそうで。僕も今日からアルバイト再開です」

「平日が忙しい、か。彼女、もう院生に進むことを決めているのかな?」

 先生はちょっと考え込むような仕草をした。ヒロは彼女の口振りから就職する気満々のように思っていたのだが。そういえば、土日こそ、黒いリクルートスーツの学生を駅や街でよく見かけるが……。

「君も、偉いね? まあ、今どき大学生はたいていそうだろうけれど。社会に出て経験を積むことは良いことだよ」

「先生もアルバイトなんかしたんですか?」

「ああ、したよ。かわいい高校生の家庭教師をね。優秀で、引っ張りだこだったんだよ?」

「そうでしょうねえ、先生なら。ちなみに教え子は男の子ですか?女の子ですか?」

「もちろん、女の子。かわいい子限定でね。選び放題だったから。いやあ、楽しかったなあ」

 あはははは、と軽やかに笑う。これで講堂ではまじめくさって女性の権利云々と講釈しているのだから、とんだセクハラ中年だ。

「さて。トモ君を廊下に立ちんぼうはかわいそうだ。君、もう帰りたまえ」

 あからさまにひどいえこひいきぶりだが、まあこちらもトモキをいつまでも待たせるのはかわいそうだ。

「はあい。失礼しましたあー」

 と答えたものの、ヒロはそのまま突っ立って、ちょっと後ろを気にしながらそっと尋ねた。

「トモキ君、これから講義に出るんじゃないんですか?」

 確か月曜日は放課後ここには来ないと言っていたと思うが?

 先生はチラッとこちらに視線をくれて、不機嫌な声で言った。

「君のせいだ」

「ええっ!? …なんで?」

「君がカノジョを作ってデートなんかするからだ」

「はあ……、それがどうしてここに通ってくる理由になるんです?」

 先生はしつこいヒロに忌々しそうにこちらを向いて言った。

「彼も年上の綺麗なお姉さんに甘えたくなっちゃったんだよ」

「贅沢だなあ、いくらでもサオリちゃんに甘えられるのに?」

 ヒロが不満そうに口を尖らすのを先生はじっと睨んでいた。

「失礼しました。出ていきます」

 くるり回れ右で出ていこうとすると。

「長谷川君。彼女、尾崎千恵美が興味を持っているのは『赤いドア』なんだろう?」

 ヒロは立ち止まり振り返った。

「石田が仲立ちしたんだってね? そういう興味があるなら、それをエサにここに連れてくるといい。わたしが詳しいから、と。いいね?」

 先生は鋭い目つきでまるで命令するように言った。


 ※ ※ ※ ※ ※


 夕方からの倉庫のアルバイトは年輩の人が多かった。これでけっこう愛想のいいヒロはそうした同僚たちにかわいがられていた。強盗事件に巻き込まれたヒロを心配していた彼らは出勤してきたヒロの元気な姿を見て喜んだ。そんな彼らの温かな笑顔にヒロは感謝し、嬉しく思った。

 一方で夜中のパチンコ店のアルバイトはちょっと複雑だった。何しろ現場で、同僚たちの事件への好奇心はあからさまだった。顔なじみの桝岡が重症のまま病院から消えたとあっては尚更で、彼らにも警察から行方を問う訪問があった。今日はヒロを含めて4人。こちらもヒロよりうんと年上の中年が多いが、彼らはヒロに事件のことを訊くより、自分の知っている桝岡の事情をしゃべり、勝手な憶測を披露したがった。いつもは黙々と作業を進めるだけなのが、まるでお昼のワイドショーみたいだ。

「あいつ、前は社長さんだったんだとよ。お決まりの若手実業家で、お決まりのITのベンチャー企業だってよ。当時はかなり羽振り良かったらしいぜ?」

「奥さん見たことあるか? すげえ美人なんだってよ。よお、ラッキー君、会ったんだろう?」

「ええ」

「どうだ? 美人だったか?」

「ええ。綺麗な人でしたよ。さすがに疲れていましたけど」

「そりゃそうだな、借金取りに追いかけられて、明るい表からコソコソ隠れる生活続けて、あげくが旦那が刺されちゃあな。そりゃあせっかくの美人も枯れちまわあなあ」

「元レースクイーンで、キャンギャルだって?」

「おう、写真雑誌なんかに載って、カメラ小僧どもに大人気だったみてえだな? せっかく玉の輿に乗ったと思ったら、とんだ大失敗の貧乏くじだったな?」

「チッ、うらやましいよな? 脚の長げえきれえなねーちゃんたち呼んで、シャンパンパーティーなんかやってたんだろう? 気に入ったのをお持ち帰りなんてなあ? ちくしょう、こっちゃあ安いキャバクラの三流イモねーちゃんでもありがてえってえのに、世の中不公平だよなあ?」

「でもねえだろう? その羽振りの良さが、バブルが弾けてそっくりそのまま莫大な借金になってのしかかってきたんだから、世の中上手くできてるじゃねえか?」

「プラマイ0ってか? ハハハ。ま、平凡が一番ってこったな?」

「チェッ、くっだらねー。何悟ったみてえなこと言ってんだよ? こんなくっだらねえ生活、全部ひっくるめて大ばくち打ったって惜しかねえぞ」

「だがよお、命まで失いたかねえだろう? 痛てえ思いしてせっかく強盗に刺されて、これでかわいい女房と娘に死亡保険下ろしてやれると思ったのによお、助かっちまって、また死に直しだぜ? あーあ、やだやだ」

「死んでるかな?」

「決まってんじゃねーか。ひっそり惨めに土の中で冷たくなってんのさ」

「これでめでたく借金返済か?」

「よかったなあ? ……借金がなくなったんならよ、美人の奥さんもらってやってもいいよな? 高嶺の花が、上手い具合にお買い時だぜ? 娘ってのは母親似かな?」

「父親似じゃたまんねえな? いいよなあ、あんな陰気な顔でも金さえありゃああんな美人の嫁さんがもらえるんだからよお?」

「昔は一流ブランドのスーツで着飾って個性的な二枚目だったんだろうぜ? ちやほやされて、のぼせ上がってやがったんだろうなあ?」

「いい気味って言やあいい気味ってな。おっと、世の中ってのは上手くできてるもんだ」

「そうそう。今度奥さんのお見舞いに行ってやろうかな? 喪服はまだ早ええか? 涙に暮れながら将来の不安に震える未亡人ってのは色っぽいよな」

「どこの話だよ? このスケベ親爺」

「へへへへへ」

 ヒロは聞いてて胸がむかむかした。口ではこう言いながらどうせこの連中に奥さんを見舞う意気地なんてないだろうが。

 自信満々の刑事の困惑と焦りが思い浮かべられて少しいい気味に思いながら、同時に寂しく思った。

 桝岡はまだ発見されていない。取りあえず警察の捜索から逃げおおせたと見ていいだろう。

 実際のところ、

 桝岡はどこに消えてしまったのだろう?

 現在桝岡に、少しでも心の安らぎはあるのだろうか?

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