第18話 行方不明

 ホールまで歩いてきたところで携帯電話が鳴った。知らない番号だったが、非通知ではないので出た。

「もしもし」

『あっ、もしもし、長谷川さん?』

 ずいぶん性急な女性の声だ。聞き覚えがあると思ったら、

「桝岡さんの奥さんですか?」

『あっ、はい、そうです。あの、長谷川さん、今どちら?』

「今、1階のホールにいますが?」

 千恵美もなんだろうと真剣な目を向けている。

『夫が、いないんです』

「え……と……」

 ヒロは一瞬ぽかんとして、ごくまともに答えた。

「トイレにでも立ったんじゃないですか?」

『夫はまだ自分で立てるような状態じゃありません。今看護士さんたちにも捜してもらってますが…、あの、長谷川さん、心当たりありませんか?』

 奥さんの声にはヒロに対する疑惑が含まれていた。ヒロは、つーっと、冷や汗が髪の中を流れ落ちる嫌なむずがゆさを感じた。

「いえ……。僕たちが出るときは確かに桝岡さんはベッドに寝ていました。それは同室の皆さんがご存じのはずですが?」

 犯罪のアリバイ証言のように言うと、

『それが……』

 奥さんは言いよどみ、更に深い疑惑を含んだ声で言った。

『お二人ともぐっすり寝込んでいて、今お医者様に診てもらっているんですが……』

「医者に?」

 ちょっと普通ではないようだ。

 何か起こった。再び目を爛々と輝かせている千恵美を心配しながら、仕方なくヒロは言った。

「それじゃあ…、僕たちもそちらに戻ります」

『すみません、お願いします』

 電話を切ると千恵美は妖しい笑みが広がるのを抑えられずに言った。

「現れたのね、『赤いドア』が? ああ、残念、もっと病室で粘っているんだったわ!」

 病室に彼女を連れていくのに非常に強い懸念を感じたが、仕方がない。


 エレベーターで4階に上がると、廊下を看護士たちが各部屋を調べて歩き、403号室の入り口で青い顔の奥さんが待っていた。室内では今ようやく2人の同室者たちがそれぞれ目覚めたところだった。よほど深く眠り込んでいたようで、医者の呼びかけに形だけ頷きながら、その実意識はまだ半分眠ったままで目がとろんとしていた。

「あの、すみません、主人がどこに行ったかご存じありません?」

 堪らず奥さんが横から質問すると、二人ともぼんやり不思議そうに奥さんの様子を眺め、質問を理解しようと考えを巡らせた。

「桝岡さん……だっけ?…… どうしたんだ? いないのか?」

 仕切のカーテンを開けられた空のベッドをぼんやり見て言う。それを訊きたいのはこっちの方だと奥さんがイライラすると、

「うっ」

 二人とも急にうめき声を上げ、慌てて両手で顔を覆った。

「どうしました?」

 医者が訊くと、二人とも両手で覆ったままブルブル顔を振り、

「分からん。だが……、分からんっ!」

 ひどく怯えたような声を上げた。

「細川さん、落ち着いて。大丈夫ですよ。これを見てください?」

 医者が廊下側の若い方の患者に催眠的に落ち着かせるのと意識の度合いを調べるために目の前でペンライトをゆっくり振って見せた。そのゆったりした動きに釣られるように視線を左右に振っていた細川が、ハッとして

「や、やめろおっ、光を見せるなあっ!」

 と、邪険にペンライトを振り払った。

「細川さん。細川さん。落ち着いてください。大丈夫ですか? どうしましたか?」

「ひ、光だ……。ひ、光が………」

「光? 光が見えたんですか? それが、どうしましたか?」

「光……光……、い、いや、分からない、思い出せない……、いや、いやっ、知らねえ、お、俺は何も見ていねえ! 俺は何も知らねえっ!」

 細川はそれ以上話を拒否するように布団を頭から被って丸まってしまった。途方に暮れた医者が視線を向けると、もう一人の男性も慌てて顔を背け、目をきつく閉じた。

「知らない…。わたしも何も知らない!……」

 トントン、と、男性のパジャマの肩を指が叩いた。思わず目を開けた男性に、千恵美がニッと笑って訊いた。

「光って、何色の光かしら?」

「……色?……」

「青色かしら? それとも…………赤?」

 男性はブルルルルッ、と肩から震え上がった。

「知らない! 何も見ていない! わ、わたしを、放っておいてくれ!」

 千恵美は満足そうにニンマリ笑い、ヒロを見た。

「どういうことなんでしょう?」

 異様な同室者たちの様子に奥さんは医者に説明を求めた。医者も渋い顔で考え込み、

「薬物……の疑いもありますね……。クロロホルムのような毒性のある麻酔薬を嗅がされ、瞬間的に意識を失ったと同時に神経に強く作用して何か恐怖を伴う強迫観念に襲われたのかも知れない……」

 医者はふと自分の医学的知識に偏った推測に眉をひそめ、

「ご主人が見つかればよし、しかし警備に連絡して外部との出入りをチェックさせましょう。……警察へも、通報しましょう、何しろ、普通の患者さんじゃあないですから……。失礼」

 医者は各連絡をしに部屋を出ようとしたが、ふと千恵美を振り返り訊いた。

「さっき光の色を訊いたのは?」

 千恵美は手で自分の目を隠し、

「強い光を浴びせられると、瞼の裏の色……赤色に見えるでしょう?」

 と、賢そうな笑顔を見せた。

「なるほど」

 医者は感心し、それどころではないと慌てて出ていった。

 同室者二人はすっかり怯えてもう何も答えない構えを見せている。

 ヒロは千恵美に警告の視線を送り、不審そうな奥さんに先に質問した。

「僕たちと会って、部屋に向かったんでしょう?」

「いえ、それが」

 奥さんはいかにも後悔するように苦しそうに言った。

「ナースセンターに寄って……3分後くらいでしょうか?病室に入ったのは………」

 そのたった3分の間に夫がどうにかなったなんて信じられないといわんばかりにやはり不審の目がヒロと千恵美に向けられた。ヒロは自分たちが出ていく前の会話を思い出し、これから出張ってくる警察にも同じく疑惑の目を向けられることを恐れて怯えている二人に訊いた。

「お二人は、桝岡さんが何か言っていたりしたのを聞いていませんか?」

 こう訊けば、「おまえたちがよからぬことをそそのかしていたじゃあないか!?」と言われそうに思ったが、

「知らないって言ってるだろう! ほっとけよ!」

 と、若いヒロには乱暴に怒鳴りつけ、怯えたまま反論しようとはしなかった。これなら警察が訊いても自分たちのことは言わないかとヒロは一応安心した。

「いったいどこへ……」

 奥さんはいたたまれないように廊下に出て、看護士を捕まえて夫が見つかったか尋ねたが、看護士はいいえと慌ただしく歩いていった。

 ヒロはニヤニヤしている千恵美の隣に行き、肘でつつくと、

「頼むから、余計なこと言わないでくれよ?」

 と念押しした。


 警官たちがやってきて、職員たちといっしょに本格的に院内を捜索したが桝岡は見つからなかった。各出入り口の防犯カメラの映像が調べられたが、桝岡の出ていく姿、人が入れるような大型の荷物を持った不審な人間の出入りも確認できなかった。

「不思議ですなあ」

 事件翌日にヒロのアパートを訪ねてきた刑事二人組もやってきて、病院に留めおかれたヒロは聴取をされた。千恵美とは別で、やはりいくらか疑われているようだ。奥さんが警察にそう訴えたのかも知れない。

「桝岡さんは麻酔もなしに自力で立って歩くのはとても不可能だろうというお医者さんの説明です。同室の入院患者さんたちの異常な様子と言い、何者かに強制的に連れ去られた可能性を考えなくてはなりませんが………」

 その口振りでは刑事はどうもそうは考えたくないようだ。

「桝岡さん、てっきり個室だと思ってましたよ。こういう場合、警察の警備とか付かないものなんですか?」

「いや、こういうことが起きてしまってはそのご批判もごもっとも。耳が痛いですな」

 と言いつつ、表面的な言葉だけだ。

「しかしあなたも証言されていたでしょう? 犯人は帽子とサングラスとマスクですっかり顔を隠して、人相は分からない、と。桝岡さんが何か犯人に、わざわざ警察が警護しているかも知れない病院に侵入して、口をふさがれるような情報を持っていたとは考えられないんですがねえ?」

「僕は見ていませんが桝岡さんは犯人と格闘したんです、その時メガネが外れて顔を見たとか、何か……体を触って特徴になるような物があったのかも知れない」

「桝岡さんはそんなこと言ってませんでしたがねえ?」

「桝岡さんが気づかなくても犯人は気づかれたと思い込んでいたかも知れない」

「なるほど、なるほど……と」

 全然本気にしていない。腹が立って質問した。

「犯人の手がかりは? 逮捕できそうですか?」

 非難がましい言い方に刑事は朗らかに笑った。

「いやあ申し訳ない。まだです。が、まあ、そうそう長くはかからんですよ」

 憎々しいと思うのも逆だが、どうやら具体的な目星はついているようで自信満々だ。

 どうやら非常に優秀らしい刑事に尋ねた。

「刑事さんは、本当のところ、どう思っているんです?」

 刑事は一瞬真顔でヒロを見て、ふうむと額を掻いた。

「予断を許さず、が捜査の基本です。桝岡氏が何者かに拉致された可能性も、可能性としては考慮します。が、現実的に、可能性は低いでしょう。医者は否定的だが、桝岡さんが自力で歩くことは決して不可能ではないでしょう。医者は言葉を濁していましたが、同室者たちを一瞬で昏倒させるような薬も……院内にあることはあるようです。もちろん管理は厳重で重症の桝岡さんが忍び込んで持ち出すことは不可能でしょうが、協力者…と言いますか共犯者には不可能ではないでしょう。もっと単純に同室者二人が狂言芝居をしているという考えもできる。出入り口の監視カメラに桝岡さんの姿は映っていないようですが、1階なら窓からだって抜け出せる。問題はそこからですが……」

「刑事さんはあくまで桝岡さんの自作自演誘拐だと?」

「…ええ。まあ、そうです」

「その場合、共犯は奥さんですか?」

「保険の件がありますからなあ、一番直接の利益を得る人だ」

「でも…、奥さんはまだここにいますよねえ?」

「ええ。ひどくご主人の身を案じてね。わたしの勘ですがね、奥さんは共犯者ではないでしょう。そこはまあ、救いですかな? さて、重症の桝岡氏が病院を抜け出すまでは自力でなんとか、死ぬ気で頑張ったとして、そこからですな。外部の協力者……借金の取り立て屋に返済を約束して協力させる……ということも考えられなくはないが、これもないでしょう。わざわざ足もと見られるような真似をして、残された美人の奥さんや娘さんを危険にさらすような真似はするまいでしょうからな。おそらく、タクシーかバスを使ったんでしょう。それこそ帽子やサングラス、マスクで変装しているかも知れない。ここは病院ですからな、昼間だし、そういうかっこうをしていても怪しまれはしないでしょう。なあに、必死の桝岡氏にはお気の毒だが」

 刑事は自信満々に、冷酷に、断言した。

「行方はじきに見つけますよ。ただ、どうせ見つかるからには、生きていてほしいものですな。そうですよね?」

 刑事はニッコリ笑い掛けた。ヒロが外部の同情的な協力者だという可能性も、予断なく、考慮に入れているのだろう。ヒロもがっかりしたため息をついた。

「馬鹿ですよねえ……。犯人が捕まってしまえば、犯人に殺されたんじゃあない、というのははっきり分かってしまうのに」

「その点に関しては」

 刑事はニコニコした目を向けて言った。

「さっきも言った、借金の取り立て屋がそそのかした、というシナリオも成り立ちますな。重症の今、行方知れずになれば、あっさり死亡認定が出て、奥さんに死亡保険が下りるぞ、ってね?」

 ヒロはギクッとした内心を見透かされないように必死になった。

 刑事はニコニコし、

「ま、それも桝岡さんを見つければはっきりしますよ。あの人は、見つかっちゃあ困るのだ、取り立て屋だって殺人までは面倒見たくないでしょうし、自殺では保険は下りませんからねえ。どうでも行方不明のままでいなければならないが……、ま、そんなことは我々が許しませんよ。必ず、早急に見つけだしてみせますよ。お気の毒ですがねえ。なあに、人間生きてさえいれば、いつか必ずいいこともありますよ」

 ヒロは、どうぞ、と帰ることを許された。自信満々の刑事に一つだけざまあみろと思う。

 桝岡は、決して見つからないだろう。

 今やヒロはそう確信していた。


 ホールの待合所で千恵美と合流し、今度こそ帰ることにした。外はそろそろ日が陰り始めた頃だ。

 千恵美はひどくご機嫌だった。

 そんな千恵美を、ヒロは気の毒に思った。

 彼女にしろ桝岡にしろ、いったい何を「赤いドア」なんかに夢見ている?

 あれがそんなにいい物とは、ヒロにはどうしても思えなかった。

 どうしてこっちの世界より、そんな得体の知れないあっちの世界に憧れることが出来るのだろう?

 あの刑事も言ってたじゃないか、人間生きてさえいればいつか必ずいいことがある、と。あれは相当な皮肉だと思うが。

 自分がこの病んだ美女の「いいこと」になれればいいなと、手を握ると、千恵美はカレシ気取り?と怪訝な顔をしたが、それでも握り返してきてくれた。

 彼女に対して本気になろうと、ヒロは決心した。

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