第17話 見舞い

 バスを待っている間、乗車中も、ヒロはほとんど口を開かなかった。

 尾崎千恵美がいったいどういうつもりなのか、疑問だったし、恐かった。

 一つだけ、何故彼女が桝岡の入院先を知っているのかだけ訊いた。

「店長さんが教えてくれたの。あなたの彼女だって言ったらべらべら教えてくれたわ。別に、かまわなかったわよね?」

 千恵美は両手でヒロの手を包み込んだ。興奮しているのか、千恵美の手のひらは子どものように汗をかいて熱かった。ヒロは何だか逃がすまいと捕まえられているような気がした。

 ヒロは桝岡の見舞いに行く気はなく、入院先も聞いていなかった。

 もちろん桝岡の容態は気になっていたが、あの人に関わるのは気が重かった。

 病院に到着すると、千恵美は先に立ってさっさとエレベーターに向かった。桝岡の病室は403号室だった。

 4階に到着してエレベーターを降りると廊下が左右に延びていたが、千恵美は配置が頭に入っているように迷うことなく右に進んだ。

 進むと、ドアから一人の女性が出てきた。軽く会釈して行き違いながら、そのドアの前で立ち止まり、思わず振り返り、あちらも立ち止まっている女性と顔を見合わせた。

「あの、もしかして桝岡にご用でしょうか?」

「ひょっとして桝岡さんの奥さんですか? 僕は桝岡さんのアルバイトの同僚で、長谷川と言います」

「長谷川さん? じゃあ、あなたが主人といっしょにいた?」

 桝岡の奥さんは戻ってきて、改めて深々お辞儀した。

「その節は、救急車が来るまで主人の傷を押さえていてくださったそうで、ありがとうございます」

「いえ。命が助かってなによりでした」

 ヒロもお辞儀を返しながらなんとも重苦しい気分を味わった。

「こちらは?」

 千恵美を多少怪訝そうに見た。

「ヒロ君の彼女です。すみません、場違いのようで。その、彼も事件のショックがひどくて、今日ようやくお見舞いに来る決心が付いたんです。その、何かあると困りますから、わたしが彼の支えに……」

 千恵美はいけしゃあしゃあといかにも申し訳なさそうに言った。奥さんは納得して

「そうですか。仲がよくていいですね」

 と、何だか懐かしむように微笑んだ。ヒロは千恵美が恐ろしい女に思えてきた。奥さんはちょっと困った様子で、

「すみませんが、わたしちょっと用事で離れなければならないんですが……」

 とヒロの顔をうかがってきたが、千恵美が横から

「いいですよ、わたしたちがいますから。何かあったら…、ナースコールすればいいですよね?」

 と、いかにも誠実そうな顔で言い、奥さんもそういうつもりではなかったのだろうが、

「ではお願いします。いえ、主人はもう危険な状態は脱してますから心配ないと思うんですが。わたしもそれほど長くは掛かりませんから」

 ヒロが牽制のつもりで

「僕らも長くはお邪魔しませんから」

 と言うと、奥さんも

「わたしが戻ってこなくても気になさらずにお帰りください。主人は……大丈夫ですから……。本当に、お見舞いに来てくださってありがとうございます」

 ともう一度お辞儀して、では失礼します、とエレベーターに向かうようだ。見送って千恵美は

「綺麗な奥さんね?」

 といかにも仲良さそうにささやいた。もうすっかりカノジョ気取りだ。ヒロはもう早速千恵美を本気で愛する自信が無くなっていた。

 しかし桝岡の奥さんは本当になかなかの美人だった。年はまだ30代の初めの方じゃないだろうか?旦那より10は若そうだ。こんなことがあったので疲れて冴えない顔色をしているが、美形で、元はかなり華やかな感じだったんじゃないだろうか? おとなしいニットの服もかえってプロポーションの良さを表に見せていた。あの人生にくたびれきった愚痴だらけの桝岡の奥さんがあんな美人とは、まったく思いがけなかった。

 ……地方の田舎町出身の自分は女性に対する評価が甘過ぎるだろうか?

「入りましょう?」

 千恵美はさすがに病室に自分が先頭で入るのは遠慮してヒロをせかした。ヒロもこうなったらさっさとお見舞いを済ましてさっさと帰ろうと思った。

 壁の表札を見ると病室は三人部屋で、桝岡の他二人も入っていた。

 横にスライドしてドアを開け、ちょっとした玄関で、外来者はここでスリッパに履き替え、カーテンを引いて中に入った。

「お邪魔します」

 ベッドが三つ、奥へ並び、手前二つに半身を起こした二人が、それぞれ間に仕切のカーテンを引き、一人は雑誌を見ながら、一人は小さな音でラジオを聴きながら、入ってきた二人に目を向け、ヒロは会釈しながら、一番奥、窓際のベッドに寝ている桝岡の所へ向かった。

「桝岡さん」

 ヒロが声を掛けると、横になりながら天井へぼうっとした目を向けていた桝岡が、無気力なまま視線を向け、相手を認めると一瞬カッと目を大きくし、ヒロの気まずい表情を見ると、すぐに元の無気力に戻った。

「ラッキー君か。どうも」

 小さな投げやりな声で言う。布団の上に出した腕に二種類の薬液の点滴を刺している。窓側に奥さんの座っていただろう丸椅子が一脚あり、ヒロはもう一脚予備を持ってきて、千恵美と並んで座った。桝岡は一応千恵美に目を向け、

「誰だね?」

 と訊いた。

「俺の付き添いです。俺が…ショックを思い出してパニックにならないように」

 桝岡はニコッと愛想良く笑う千恵美にも

「ああそうかね。ご苦労さん」

 とどうでもいいように言った。美人は奥さんで見慣れているんだろう。

「相部屋なんですね? てっきり個室だと思った」

「換えてもらった。個室は高いから」

「そうですか……」

 もう何をしゃべっていいのか分からない。圧倒的に居心地が悪い。

「死にぞこなった……」

「え?……」

 桝岡のいわんとする事は分かるが、鈍感を装って疑問形で言って、顔を向けた。

「医者に危ないところだった、もう少し手当が遅れたら命に関わるところだったと言われたよ。よかったよかったと、善人そうな笑顔でな。俺は……、悔しくて泣きたかったよ……」

 桝岡は天井を睨み付けた。ヒロはなんとも言いようがない。桝岡はもう一度言った。

「俺は、死にぞこなってしまった」

「すみません……」

 謝ることではないと思うし、かえって桝岡の怒りを招くかとも思ったが、つい気弱に口をついて出てしまった。しかし桝岡は。

「別にラッキー君のせいではないさ。痛みと、恐怖だ。俺は、死ぬのが恐いと思ってしまった。死から逃げた。だから死にぞこなってしまったのさ。みっともねえ……………」

 心底自分を軽蔑するようにどす黒く笑った。ヒロはこの場から逃げ出したい気分だったが、桝岡の態度に腹も立った。つい喧嘩腰に口から出た。

「生き残ったのがみっともないなんて、そんなのおかしいでしょう? 元気になってバリバリ働いて、なんでもかんでも、取り返せばいい」

 桝岡はさも可笑しそうに声もなく、馬鹿にしたように、笑った。

「取り返す? 物事には取り返しようのない事があるんだよ」

「なんですそれ? 人を殺したわけでもあるまいし」

「ああそうだ。俺は俺を殺し損ねて、おかげでこの様だ。もう……どうにもなりゃしねえや…………」

 桝岡はもう何もかも諦めきって、すっかりすねているようだ。気の毒な人なのだろうが、腹が立つ。どうにもならない。

 もう帰ろう!、と思ったら、千恵美がとんでもないことを口走った。

「民法では行方不明者は届け出から七年経たないと死亡とは認められません」

 ヒロも桝岡も何言ってるんだ?と呆気にとられたように顔を向けた。

「しかしただの失踪ではなく、例えば凶悪な犯罪事件に巻き込まれたことが予想され、高い確率で死亡が推測される場合、届け出から1年で被害者は死亡したと認定されます」

「千恵美さん、いったい何言ってんだ?」

 ヒロは怒ってやめさせようとしたが、千恵美はヒロなんか眼中になく、桝岡もまた、じいっと、女子大生の謎の問いかけに聞き入っていた。ヒロは二人の間の意志疎通に危険なものを感じた。

「千恵美さん、帰ろう」

 立ち上がり、千恵美の腕を取ろうとしたが、千恵美は邪険にふりほどくと、桝岡に言い募った。

「あなた、見たんでしょう? 『赤いドア』を? 別の世界に連れていってくれる、異次元の扉を?」

「別の世界に連れていってくれる?………」

 桝岡はその言葉にひどく心を揺り動かされたようだ。

「そうよ。あなたは、見たんでしょう?」

 桝岡の表情が、はっきりと、それを思い出した。キッと、必死のまなざしでヒロを見つめた。

「おい、ラッキー君。君も、いっしょに見ていたよなあ?」

「なんのことです? 分かりませんよ、俺は」

「わたしはこの人から聞いたんですよ?」

「やめろよ!」

 千恵美はヒロの言うことなんか聞かない。今や桝岡もヒロを邪魔者にして千恵美の話を聞きたがった。

「今なら! 凶悪な強盗犯に刺されて命の危険にさらされた今なら、消えて、行方が分からなくなったら、十分死亡が疑われるわ。顔を見られたと思った凶悪な強盗犯の仕業になる。あなたの奥さんは、1年後、あなたの死亡保険を受け取ることが出来るわ!」

 桝岡の事情を調べ上げているのか!? ヒロはどうしてそんなことまで知ってるんだと驚愕し、この女の執拗さにどす黒い恐怖を覚えた。

「あなたは一度、そのドアを呼んだ! 思い出すのよ、その時の、フィーリングを!」

「思い出す…、その時の、フィーリング………」

 桝岡はまるで催眠術に掛かったように呟いた。

「桝岡さん! 駄目だ、やめるんだ! 馬鹿なこと考えるんじゃない!」

 おい、うるせーぞお!、と隣から怒られた。

「帰るぞ!」

 ヒロは今度こそ千恵美の腕を掴んで立ち上がらせた。

「どうぞお大事に!」

 叩きつけるように乱暴に言い捨て、怒って睨み付ける二人の同室者を無視して、千恵美を連れだした。スリッパを脱ぎ、靴を引っかけさせると、乱暴に廊下に連れ出した。腕を引っ張って歩き、立ち止まると、睨み付けて押し殺した声で言った。

「何考えてんだよ? 桝岡さんにいったい何をさせたいんだよ!?」

「決まってるじゃない」

 千恵美もギラギラ興奮した目でヒロを睨み返して言った。

「あの男に『赤いドア』を呼び出してもらうのよ」

「だからっ、なんでそんなことを!……」

 エレベーターのドアが開き、桝岡の奥さんが出てきた。

「あっ、お帰りですか? どうもありがとうございました」

「失礼します。どうぞお大事に」

 ヒロは頭を下げるとエレベーターがどこかに行ってしまう前に急いで駆け寄り、「下」のボタンを押した。幸いどこにも呼ばれていないらしく、ドアは開き、ヒロは千恵美を押し込んで「1」を押した。あわただしい様子に奥さんは変に思っただろうが、ヒロが事件を思い出してパニックに陥ったと、そんな風に思うことだろう。

「痛いわ。放してよ」

 言われてヒロは千恵美の腕を放した。エレベーターは途中止まることなく1階に到着した。エレベーターを降りるとヒロはまっすぐ玄関に向かったが、千恵美はついてこなかった。振り返ると腕を組んで突っ立ち、不敵な笑みを浮かべていた。

「そんなに急がないで。喉が渇いちゃった。ジュースでも飲んで行きましょうよ?」

 勝手にしろと置いていこうかと思ったが、また何をしでかすか分からず……、冷静になって話を聞きたくなった。


 ※ ※ ※ ※ ※


 日曜にも関わらず玄関ホールの待合い席にはちらほらと人がいて、誰も人のいないところを求めてちょっとした中庭を望む隠れ家みたいな狭い休憩所を見つけて自動販売機で買ったココアを飲むことにした。千恵美がカッカした頭が落ち着くわよ?と勝手に2本買って1本よこしたのだ。

「よく桝岡さんの事情を知っていたな? 誰に聞いた?」

「アパートのお隣さん。暇そうなおばちゃんでね、週刊誌の記者だって名乗ったら、喜んでべらべらおしゃべりしてくれたわ。安普請で、丸聞こえみたいね? 恐〜いお兄さんたちがしょっちゅう取り立てに来るんですって」

 面白そうに話す千恵美にヒロは嫌悪感を抱いた。

「どうしてなんだ? どうしてそこまで『赤いドア』なんかに興味を持つ? あんなの……異常だよ……」

 本人たちだって夢か幻かと思っているものを、どうしてあそこまで執拗にほじくり返すのか? いったい「赤いドア」に、何を求めていると言うのか?

「わたしが、この世から消えて無くなりたいって思っているからよ」

 千恵美の目は真剣で、嘘を言っているようには見えなかった。

「なんで?」

「この世の中なんて、生きていても、酸化して、さび付いて、薄汚れていくだけじゃない? わたしはどんどん自分が汚れていくのが、虫ずが走るように、嫌なのよ!」

「どうしてそんな風に思うの?……」

 ヒロにはすごく美人の千恵美が何故自分をそんな風に思うのか理解できなかった。美しすぎる自分に酔っているだけなのだろうか? そんなのまるっきり、変なオタクマンガに毒された中高校生じゃないか?

「人を愛するって、どういうことかしら?」

 またいきなり抽象的な文学少女的問いかけに、ヒロは困惑した。千恵美はその無知無理解を鼻で笑った。

「愛なんてものに本気になるなんて、馬鹿馬鹿しいって思う?」

「全然思わないよ、そんなこと」

「そう?」

 千恵美は不思議そうに目を瞬かせて首を傾げた。

「じゃああなたは、どこまで愛に本気になれるかしら?」

「どこまでって……」

 千恵美が具体的にどういう答えを求めているのかさっぱり分からない。

「あなたは愛のために自分のすべてを捨てられる?」

 そう問われてもやっぱり千恵美の求めているものが分からない。千恵美は軽蔑した目でつまらなそうに言った。

「あなたはあの桝岡さんのことが全然解ってないのね?」

 ヒロは不快そうに斜に千恵美を睨んで言った。

「桝岡さんが、千恵美さんの求める愛を持っているってこと?」

「そうよ! あの人は自分の命を捨てて奥さんと娘さんを幸せにしようとしたんでしょう?」

 千恵美はそこに愛の理想を見るように目を輝かせた。

「残念ながらその意志を貫き通せなかったみたいだけど、今度こそと、期待してるんだけどなあー……」

 嬉しそうに妖しく笑った。まつげの長い目がジロッとヒロを見た。

「気持ち悪い? こんな女に付き合うのはもうこりごり?」

 ヒロは迷った。自分で言っているとおり、こんな変な女、引っかかってしまったのが災難だ、と思う。こうしてまだ付き合ってやっているのは、彼女がとびきりの美人だからだ。普通なら絶対手の届きそうにないとびっきりの美女なのに、まるっきりパラノイアで彼氏に持て余されているようで、自分なんかにもつけ込む隙がありそうだという下心があるからだ……と自分で分析しつつ、でも自分の心にあるのがそれだけではないようにヒロは感じていた。千恵美は明らかに異常だが、その異常さにも芯が通っているように感じる。その中心に強く輝いている光が、自分の心を捕らえて放さないのだ。恋は盲目と言うが、自分も彼女の美しさにすっかり心をやられているだけかも知れないが。

「どうしたらいいんだ?」

 千恵美は問うように首を傾げた。

「千恵美さんは俺に何をしてほしいんだ?」

 ヒロが真剣な目を向けると、千恵美もすぐ真剣な顔になった。彼女の求めているのが自分と同じ真剣さなのだろうと思った。

「わたしを心から愛して、絶対に裏切らないって誓える?」

「分からない」

 ヒロは正直に答えた。

「俺はまだ千恵美さんのこと、全然知らないもん。愛するなんて、簡単に誓えないよ」

 また、煮え切らない男、と蔑まれるかと思ったが、千恵美はヒロの瞳の奥を見つめて、落ち着いた微笑みを浮かべた。

「今の段階は合格。軽い言葉でキスなんか迫ってきたら思いっきりビンタしてやるところだったわ。わたしもヒロ君のこと、もっと知りたくなっちゃった。真剣なお付き合い、続けてもいいかな?」

「うん。よろしく」

 千恵美は嬉しそうに笑った。その笑顔はこれまでの計算されたきれいに整ったものでも、何かに取り憑かれたようなエキセントリックなものでもなく、自然に心からこぼれ出たものだった。

 彼女が自分に心を開いてくれたのを思ってヒロは嬉しかった。

 そう思うと、彼女を一刻も早くここから連れ出したかった。彼女の心は今やはり病んだ状態なのだ。その病にとって「赤いドア」は濃厚な栄養剤みたいなものだろう。健全な明るい世界に連れ出してやらねば。

「帰ろう? 今日はまだ明るい内に」

「うん」

 千恵美も素直に椅子から立ち上がった。

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