第14話 年上美人

 ヒロは今週は二つともバイトは休ませてもらうことにした。倉庫のバイトも顔なじみの同僚にあれこれ好奇心で訊かれるのも鬱陶しそうだし、電話をしたらあちらの方から気を使って休んでもいいよと言ってくれたからお言葉に甘えることにした。パチンコの方は、店は翌日一日だけ休んで二日後から通常通り営業再開したそうだ。店に実害は何もないんだから問題ないのだろう。事件翌日の夕方店長に電話すると、昼間桝岡の見舞いに行ってきたそうで、その時は眠っていたが、意識は回復したそうだ。病室の前に警官が警備に立っていて、枕元には奥さんがついていたそうで、このたびは主人がご迷惑をおかけしまして、なんて頭を下げられて参っちゃったよと苦笑していた。


 木曜午前に水神先生の「ジェンダーと社会学」の講義があった。これは水神ルームではなく小さな「B−5講堂」で行われる。

 講義の時の水神先生は、研究室で見せた砕けたところはみじんもなく、折り目正しいスーツそのままにビシッと背筋を伸ばし、ハキハキと講義を行い、ただ一方的にしゃべるだけでなくしばし学生に意見を求め、気を抜く間がない。先生は学生たちに自分の意見を持つことを求めながら、そのくせ、確実に自分の「社会的女性論」を学生たち一人一人に刷り込もうとしているかに思える。弁舌の巧さでそれと気づかせないように。


 午後の講義でヒロは石田たちといっしょになった。「マス・コミュニケーション論」で、トモキとサオリは取っていない。

 講堂で隣の席に座った石田は肩をぶつけてきて訊いた。

「なんか危機一髪だったみたいだな? やっぱ悪霊に憑かれちまったか?」

 無神経な言葉にムッとしたが、それを察した石田は先回りして、

「そんなおまえのために取っておき情報用意してやったからさ、ま、終わってからな」

 と、入ってきた教授に襟を正すふりをした。白々しい奴と思いつつ、講義に集中しようとして、しかしヒロは石田の言う「取っておき情報」が気になって身が入らなかった。どうせろくなもんじゃないだろうと思いつつ、そもそもこいつに「赤いドア」伝説だの「葉山台光済病院」だの吹き込まれたのが今回の発端だ。

 長い講義が終わり、ますます悪化させられやしないだろうなと疑いつつ、

「で? なんだよ、取っておき情報って?」

 と訊いた。石田の向こう隣にカノジョの鈴音もいる。

 講義を終えた学生たちがぞろぞろ出ていくのを後目に、石田は「実はな」とさも一大事そうに顔を怖くすると言った。

「君にたいへん強い興味を抱いている年上美人がいるのだよ」

 ヒロはテキストの糊の固まった角で殴ってやろうかと思ったが、ソフトな表紙でもじゃもじゃ頭を叩いてやった。

「アホたれがあーー」

「イタッ…くもないが、ひどいなあ、我が同郷の友人よ」

「ま、一応聞いてあげよう。年上の、美人、だって?」

「いやあ、君も男の子だなあー」

 へらへら笑う石田を

「本当なの?」

 と指さし鈴音に訊くと、彼女は呆れたように肩をすくめた。

「誰?」

「3年生の尾崎ちえみさん。教育文化学科だってさ」

「そんな年上美人には心当たりないな。教育文化学科? 接点ない…よなあ?」

「ないね」

「どういうことなのか説明してくれるだろうねえ?」

 興味を向けるヒロに気をよくして石田は大威張りで言った。

「昼休み、食堂で君を見初めたそうだ」

「嘘だな」

「嘘なもんか」

「じゃ、美人というのが嘘だ。なにゆえ年上美人が俺なんかを見初めるか?」

「ま、嘘か。彼女が興味津々なのは……、『赤いドア』だ」

 ヒロはギクッと冷や水を浴びせられたように思った。

「なんだよ、それ……、どういうことだ?」

「おまえ、見たんだろう? 現場で、『赤いドア』を?」

 へらへらした石田の顔が妖怪に見えた。ヒロはカッと怒りに顔を赤くした。石田は「おいおい」と手を振って押しとどめた。

「おまえだろう? 辺りに気も配らないで…川上たちにべらべらおしゃべりしたのは?」

 ああ…、そういうことか、と合点がいって、ヒロはすっかり面白くなく、不機嫌になった。

「確かに。不注意だったのはいなめない。…それを聞いて、なんだ?、俺にもっと詳しいことを聞きたいってことか?」

 どんな悪趣味オカルト女だよ、と、すっかり「美人」の部分は興味をなくした。

「ま、そういうこと、だろうな? 俺はおまえとのつなぎを頼まれたんだけど。なにゆえ俺にかと言うとだな、彼女は『赤いドア』って聞いたことはあっても詳しくは知らなかったんだそうだ。で、それに詳しそうな学園の人間を当たって、俺っち『葉山オカルト愛好会』にたどり着いたってわけで」

「いつからそんな会を結成した?」

「前々から名前だけはあったんだよ、ネットのハンドルネーム。グループで持ち回りでブログやってんだ」

「知らなかったぞ?」

「おまえは変に生真面目なところがあるから仲間に誘わなかった」

「つまり、不真面目な団体だってことだな?」

「そう装ってるんだよ、気軽に胡散臭い情報を寄せてもらうためにな。大学の真面目な研究会だなんて名乗ったら、嫌われて寄りついてくれないだろう?」

「本当かよ?」

 限りなく胡散臭い顔をしてやがるが。

「信じろ。話が進まん」

「すまん。信じよう」

「よし。で、そのネットにまんまと引っかかってくれたのが麗しの尾崎ちえみ嬢でな」

「大学の研究会だって言うのは隠してたんだろう?」

「いちいち話の腰を折る奴だな? 別にここの学生だって言うのは隠してないんだよ。真面目な学生だって言うのを隠しているだけで」

「分かった。不真面目学生の石田君、話を続けてくれたまえ」

「いちいち棘が気になるが、まあよかろう。で、さっそく会うお約束をして、昨日の午後お会いして、話をしたらばまあ、元はと言えば我が友、君が興味の出発点と言うじゃないか? で、君を紹介する約束をした。ありがたがりたまえ」

「なんか…、上手く話がつながりすぎだなあ……」

 ヒロはその女に不吉な物を感じて、会いたくないと思った。

「そうか? おまえから始まっておまえに返ってきたんだから、なるべくしてまとまったんじゃないか?」

「なるべくして、か……」

「運命を感じるよなあ?ええ?ダイちゃん」

 石田は肘でつんつんヒロの腕をつついた。

 ヒロには悪い運命としか思えない。会うべきではないと強く感じる。

 鈴音が言った。

「ダイ君。尾崎さんってね、本当に、すごい美人よ?」

 鈴音は、お勧めよ?と言うように少女マンガチックに目をキラキラさせた。ヒロは激しく心を揺さぶられた。

「会うよなあ?、ダイちゃん、当然」

 ヒロは、うなずいた。

「まあ…、会うくらい会っても……な」

「オッケー。セッティングは任せろ!」

「よせ。余計なことするんじゃねえ」

「へへへえ、照れちゃってえ、うい奴め。ところでさあ、」

 へらへら笑いながら石田は言った。

「俺にも詳しく聞かせろよ、『赤いドア』のこと」



 それから尾崎千恵美に電話して、結局無難にカフェで会うことにした。

 窓際に保護者みたいにして石田と鈴音が同席し、まるでお見合いみたいなシチュエーションにヒロはドキドキした。田舎の高校で奥手な男子だったヒロは実はあまり女性に免疫がない。

 我ながらどうして先輩女子なんかと会う気になったのだろうと思う。

 美人という点に大いに興味を引かれたのは事実として、

 どうせ年上女性なんかにまともに相手にされるわけないという安心感があったのも事実。

 しかし一番大きい点は、

『やっぱサオリかな……』

 と思う。

 色白で清楚な深窓のお嬢様風のルックスとは裏腹のあっけらかんとした明るいキャラクターでつい気安く付き合っているが、彼女は、トモキの恋人だ。トモキは大事な友だちで、美男美女お似合いの二人が恋人同士なのは嬉しいが、それでもヒロはやっぱりサオリが好きだった。たまにそれが切なくなることもあった。

 だから、お馬鹿な石田の調子に乗せられて、羽目を外してみたくなったのかも知れない。

「あ、いらっしゃったぞ」

 石田が体を伸び上がらせて大きく手を振った。ヒロは顔を向けて尾崎千恵美を見た。

 思わず目を大きくして、ぽかんと口が開く思いがした。

 はしたなくない程度のミニスカートから眩しく健康的な太ももを覗かせ、清潔で女性らしい襟の大きいシャツに、学生らしく紺のカーディガンを羽織っているが、なんというか、経験の乏しいヒロが思わず生唾を飲み込んでしまうような大人の女性らしさをムンムンに発散していた。素直なストレートの髪と色白できれいな卵形の顔の輪郭はサオリと共通していたが、優しく控えめな印象のサオリに比べ、尾崎千恵美はくっきりした目鼻立ちをした、ハッとするような美人だった。教育文化学科というが、卒業後は大企業の社長秘書か、テレビのアナウンサーにでも就職しそうな感じだ。

 にこやかなまなざしでヒロを捉えて歩いてくると、華やかでいて甘い高級そうな香水が香った。そういえばと記憶に引っかかるものがあった。以前……食堂で、嗅いだことがあるように思った。自分とは別世界の人間と、まったく気にもとめていなかった要素だ。

「いいかしら?」

 尾崎は鈴音の隣に、ヒロと向かい合って座った。真っ正面に見つめられて、ヒロは自分でも顔が真っ赤になるのが分かった。尾崎は年下の男の子をリラックスさせるように微笑んだが、ヒロにとってはまったく逆効果だった。

 気を利かせた石田が尾崎の注文を聞いてミントティーを取りに行き、その間、ニコニコ見つめる尾崎に視線をそらせるのも不自然で真っ赤になりながら見つめ返すヒロを、鈴音がニヤニヤしながら見ていた。甘美な拷問に等しい時間を過ごし、石田が「お待たせいたしました」とカップを置き、椅子に座り直すと、尾崎は言った。

「2年生の、長谷川だいきち君、よね?」

 ヒロは隣でニヤニヤしている石田を睨んだ。

「長谷川ヒロヨシです。だいきちって書くんですけどね」

「あっ、そうなの? ごめんなさいね?」

 尾崎は赤い唇でニッときれいに笑い、そのまなざしと言い、人に見せることを計算して作り上げた完璧な表情に思えた。相手が大人という以上に自分の子どもっぽさが思われる。カップを取り上げ、フーッと冷ますために息を吹きかける唇も、丸く盛り上がって、美しい。

 ヒロはようやく不思議に思う心の余裕を取り戻した。

「尾崎さん、ですか。都市伝説なんかに興味があるんですか?」

 興味があるのはコスメやファッションで、まるっきり、子供じみた都市伝説なんかに興味を持つタイプに見えない。

 尾崎は目をクリッと丸くしたが、それはあらかじめ嘘でごまかすためのポーズに感じられた。

「意外かなあ? これでもわたし、真面目な学生なのよ?」

「教育文化学科、ですよね?」

「ええ。教員免許も取る予定よ? 多分、先生にはならないと思うけれど。でも、子どもの教育関係の仕事には就くつもり」

 きっと学習教材の会社にでも入ってバリバリ稼ぐつもりだろう。直接子ども相手の仕事をする人にはとても見えない。ミントティーで喉を潤した尾崎は、「それでね」と、テーブルにひじをつき、いかにも熱心らしく身を乗り出して言った。

「今、小学校、中学校の子どもたちの間でも、都市伝説ってブームなのよ。わたしたちが子どもの頃流行った『トイレの花子さん』なんかもまたリバイバルしてるみたい」

 自分たちに共通する子ども時代の思い出を持ち出して親しみを演出するのもあざとい。ヒロも緊張をごまかすようにテーブルの上でウーロン茶のカップを押さえていたが、その手に尾崎の息が触れた。香水と共に爽やかで甘い息が香るように感じられた。

「でもね、今の子どもたちって、もっと深刻なのよ。もう今から将来への不安を抱えていたり、いじめ問題があったりしてね。大人の社会の反映かしらね? ……自殺を考える子どもも多いのよ?」

 ヒロはセクシャルな妄想が吹っ飛ぶみたいにドキッとした。尾崎は深刻な顔でうなずき、熱心な口調で続けた。

「本当にそうなのよ? お父さんが会社をリストラされて家庭が暗く沈んでいたり、ひどいいじめにあってもう生きていたくないって追いつめられたり。まったく、ひどい世の中になっちゃったものよね?」

 尾崎は義憤に耐えないように怒って言い、そのもっともな意見にヒロも彼女への偏見を反省した。

「そんな子どもたちの間でね、今噂されている都市伝説が、『赤いドア』なのよ」

 尾崎にじいっと真剣に見つめられ、ヒロはこっくりうなずいた。それから尾崎は、ちょっと迷う様子を見せ、決心したようにまた真剣な目でヒロを見つめた。

「子どもが、行方不明になって見つからない事件が起こるでしょう? 長期の捜索でも見つからず、事故……というのはちょっと考えづらいわよね? そうすると事件……誘拐が考えられるんだけど……、親御さんには辛いことでしょうけれど、そのまま何ヶ月も、何年も見つからないっていうケースが、多いわよね?」

 ヒロはまたうなずかされた。確かに、そうしたいたましい事件をニュースで見ることがある。結局未解決でなんの手がかりもない事件が、多いのじゃないだろうか?…… 暗い表情で視線を下に向け、唇を噛んで思い詰めたようにしていた尾崎が、また強い視線をヒロに向けて言った。

「でも、もしかしたら、……本当に『赤いドア』があったとしたら? 子どもたちがそのドアの向こうに、行ってしまったのだとしたら?、どうかしら?」

「どうって……」

 ヒロはどう考え、答えていいのやら困ってしまった。尾崎はもどかしそうに更に身を乗り出してきて、顔を近づけてきて言った。

「行方不明の子どもたちの手がかりになるかも知れないのよ? ねえ、教えて?、『赤いドア』のことを、詳しく!」

 ヒロは、尾崎千恵美という女性を完全に勘違いしていたのかも知れない。彼女は実はひどく熱血の人なのかも知れない。近づいて熱心に訴える彼女のつばが、はっきり手の甲に感じられた。

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