第13話 赤いドアの検証
講堂で社会心理学の講義を三人で受けると、そのまま揃って水神先生の教室に向かった。
ノックし、「失礼します」とトモキが先頭で入る。サオリは『この部屋に入るの初めて。緊張しちゃう』とヒロにこっそり耳打ちした。ヒロはそうなのかと意外に思った。トモキといっしょに挨拶や冷やかしくらいしているのかと思っていた。
先生は相変わらず一人でデスクに向かっていたが、トモキが入ってくるとあからさまに上機嫌にニッコリ笑って迎えた。
「失礼します」
「失礼します」
後ろにくっついて入ってきた二人にも上機嫌のままの顔を向け、
「こみなみ沙織さん。いらっしゃい」
トモキのカノジョと知っているのだろう、優しいお姉さんの顔を見せ、首をひねってヒロを斜め上に睨むようにすると、
「長谷川ヒロヨシ君。無事のようね? 何よりでした」
と、ヒロにはちょっと小馬鹿にしたような微笑を見せた。
「さて、」
先生は細い足を組み、両手の指を互い違いに組んでお腹の上に載せた。今日も黒の上下をピシッと着込んでいる。ワイシャツの首には紐タイ。
「今日は何かな?」
ヒロがトモキの隣に出て言った。
「僕が昨日遭遇した事件、あれは、僕が光済病院に行ったことと関係あるんでしょうか?」
「ふん…」
先生はなんと答えようか…、チラとトモキを見て、言った。
「関係ないと言えばないし、関係あると言えば、ある」
「どういうことです?」
「強盗犯が強盗を働こうと企んでいたのは強盗犯の事情。でも、君のアルバイトしているパチンコ店に目を付けたのは、君のせいかもしれない」
「じゃあ…、桝岡さんは俺の巻き添えで……」
「刺された君の同僚? さあ?それも、……その人の事情なんじゃないかな?」
ヒロは喉が詰まるような苦しさを覚えながら先生を見つめた。先生が強盗襲撃の様子や桝岡の個人的事情を知っているはずはないのに、すっかり桝岡の人物像を見抜いているような口振りだ。先生はガラス越しの冷たい目でヒロの目を見つめながら言った。
「君は、そういう悪い物を呼び寄せる磁力を帯びてしまっているのだよ。でも、その磁気は誰でも引き寄せる訳じゃあない。引き寄せられるのは、同じ磁気を持った人間や出来事と言うことさ」
「赤いドア……」
「うん?」
トモキが困った顔を向けたが、ヒロは先生にならしゃべってしまった方がいいだろうと思って言った。
「先生は『赤いドア』って言う都市伝説を知っていますか?」
「うん。知っているよ」
ヒロがしばらく無言でいると、先生は可笑しそうに笑って言った。
「わたしはそういう情報にも目を配っているんだよ? 子どものたわごと、なんて頭の固い見方はしない。ついでに、石田ヒサシたちがその手のことを喜んで調べていることも知っている」
石田を呼び捨てにした先生は、
「もう一つついでに言えば、自分が陰で『ウーマンリブ』と呼ばれていることも知っている」
と、意地悪に笑った。卑屈になっている様子はなく、完全にレベルの低い生徒を小馬鹿にした余裕の笑いだ。そういう顔を学生に見せるのもどうかと反省したのか、先生は真顔になると話を戻した。
「それで? 『赤いドア』がどうかしたの?」
「僕は、その『赤いドア』を見たかも知れないんです」
先生は、無表情に目をパチパチさせて、
「ほお」
と、ちょこんと首を傾げ、先を促した。
「重傷を負った桝岡さんに招かれるように、壁に赤いドアが現れたんです。パトカーが来て、消えちゃいましたけど。そんな……おとぎ話みたいな物が、本当にこの世に存在するんでしょうか?」
ふうーーん……と、先生は脚と手を組み直して考えた。
「そんな物まで招いてしまうなんて、君、相当重症だね?」
ヒロが深刻な顔で黙っていると先生はばつが悪そうに笑って、組んでいた脚を戻して、立ち上がった。立つと背が目線より低いので、急に小生意気な小学生探偵みたいに見えてしまう。
先生はデスクの脇に回って窓の外を眺めた。そうして緑に目を休めるようにしながら、ガラスに映ったヒロたちを見ているように感じられた。
「『赤いドア』…ね。この世に疲れ切った者を別世界に連れていってくれる楽園の扉……。そんないい物が、この世にあるなんて思えないね。美味しい話には、常に裏があるものだよ」
こちらを向いて、理知的に光る目を見せた。
「そういう組織でもあるんじゃないか、と思っていたよ。会社や家族のしがらみ、すべてを断ち切って蒸発したい、もっと即物的にどうにもならない借金地獄から夜逃げしたい、そんな人間を、例えば、タンカーの底にでも隠して、全然誰も知らない外国にでも連れ出してくれる、そんな組織でもあるんじゃないだろうか、ってね。その象徴が赤いドアで、秘密のアジトか、船倉の入り口が赤いドアなんじゃないか、ってね」
ヒロより先にトモキが堪らないように訊いた。
「誰も知らない外国って、そんな所に行ってどうしようと言うんです? それに、そんな所に人を連れていって、その組織にどんな利益があるんです?」
先生は、トモキに対しては子どもを諭すように優しい丁寧な言い方をした。
「そうだね。例えば奴隷として……、でもそれならいくらでも貧しい外国人の女子供がいるだろうね。考えられるのは、臓器移植の健康な提供者として。それとも、某国の秘密工作の情報源及び情報解説者として? まあ、いずれにしてもろくな目的ではないだろうね」
「それじゃあ誘拐でしょう? そんな物に自分から望んで行こうだなんて、いるわけないじゃないですか?」
「溺れる者はわらをも掴む。人間追いつめられると、どんなにいかがわしい物だってつい頼ってしまうものなのだよ。現に、これほどキャンペーンを張っているのにいまだに振り込め詐欺なんかに引っかかってしまう者が後を絶たないじゃないか? 同じことだよ。すっかり判断力が麻痺してしまっているのだよ」
「楽園を夢見るのと振り込め詐欺に騙されるのは違うと思うけれど……」
先生はトモキに微笑み、近づいて触れようと手を上げ掛けたが、さすがにヒロたちを前に慎んだ。
「そう、違うね。楽園を夢見るのは、自分の自発的な行為だ」
ヒロはイライラして割って入った。
「そうじゃなくて! …僕は、本当に『赤いドア』を見たんです、そういう現実の犯罪がらみじゃなく、もっと、オカルト的な……」
先生はじろっと白い目を向け、
「なんだろうね?」
思い出したように外野で小さくなっているサオリに注意を向けて、妖しく微笑み掛けた。
「そういう物がこの世に存在しうるか?ね? そう、にわかには信じがたいね。君、頭に血が上って幻でも見たんじゃないの?」
ヒロはムッとしたが、案外そうかも知れないと思った。しかし先生自身その節を、冗談だよ、と言うように続けた。
「それは幽霊のように……電波のような情報だけのものとは違うわけだね? 君たち、二人揃って見たのだね?」
「はい。桝岡さんは、確かにそれを見ていました」
「かと言ってそれが実在した物とは言い切れないが、ただのイメージでないとしたら、『都市伝説』にあるように生きた人間を肉体ごとどこか…別世界に連れていってしまうつもりだったのかな?」
「そう……ですね………」
あれはこの世の自分の人生に絶望した桝岡が招いた物だろう。しかしそれに「連れて行かれる」と思ったとき、保険金を残すべき妻子のことを思って「嫌だ」と拒否したのだろう……。
ドアが消えたのは、思い直した桝岡が拒否したためなのか? それともたまたま邪魔なパトカーが到着したためなのか? もしパトカーが到着しなかったら、あの後どうなっていたのだろう?……
「もしそうなら、それはそんじょそこらの幽霊なんかとは桁違いの物質的パワーを持っていることになる。昔から『神隠し』の伝説なんかあるが、それは天狗や神、超自然の存在の成せるわざと見なされる……」
先生はオカルトなんかを大まじめに語っているのが馬鹿らしくなったのか鼻で笑った。
「面白いね。興味があるよ。けれど」
先生は手を上げ、とん、と、ヒロの胸をつついた。
「触らぬ神に祟りなし、と、昔の人は言っているね? 近づかないことだよ、そういう危ない物には」
ヒロは先生の視線にまたドギマギさせられて言った。
「僕だってお近づきにはなりたくないですけれどね。あっちが寄って来るんでしょ?」
「フン、そうだったね」
先生は白けたようにくるりと後ろを向いて手を振った。
「やっぱり神社でお祓いを受けるんだね。ふところが痛んでも、命を取られるよりいいだろう?」
ヒロはトモキ、サオリと顔を見合わせた。
「先生。」
トモキのせっぱ詰まった呼びかけにちょっぴり迷惑そうに振り返った。
「ヒロ君は、本当に大丈夫なんですね?」
先生は、フウ、と鼻から息を漏らし、あくまでトモキには優しく、言った。
「大丈夫だよ。君の大事なお友だちが危害に遭うことはないよ、絶対に」
「なんだかなあー……」
水神ルームを後に廊下を歩きながら、ヒロは釈然としないように首を傾げて言った。
「先生とトモキ君っていっつもあんな感じ?」
「あんな感じって?」
トモキは困った笑顔を傾げた。
「水神先生ってさ、あからさまにトモキ君がお気に入りなのな? 俺たちがいなかったらもっと甘甘のベタベタなんじゃないの?」
トモキもそうだがカノジョのサオリにも遠慮がちに訊くと…、
バシン!、とサオリに背中を叩かれた。
「いてっ。なんで俺が叩かれる?」
「美しい師弟愛をそんな嫌らしい変態の目で見るんじゃないのー!」
サオリはむっつり不機嫌に眉根を寄せた。ヒロも不満を含んで、
「そうなの? 先生にセクハラとかされない?」
と、トモキにつっこんだ。
「ないない」
トモキは苦笑して手を振った。
「先生は真面目な人だよ。今日は…ちょっとはしゃいだ感じかな?」
「はしゃぐの?あのウーマンリブが?」
こらっ、とトモキもヒロを睨む真似をした。
「まあ…、珍しいかな? 研究以外の学生の来客って珍しいから、嬉しかったんじゃない?」
「そうなの? まあ…、それならいいけど……」
サオリがポツリと呟いた。
「あたしは……ちょっと怖かったけど……」
男二人に見られて慌てて手を振った。
「いや、あのね、……何か…知っていそうな感じじゃない? いえ、あの…、頭が良くてあたしたちの見えないところまで見えちゃってるだけかも知れないけど……」
それにはヒロもうなずいた。
「そうだな。『赤いドア』についてももっと色々知っていそうだったよな? なーんか最後はごまかされた感じ。それにさあ」
ヒロはじっとトモキを見つめた。
「なんで先生がトモキ君のお友だちの無事を保証してくれるんだ? 俺に直接大丈夫って安心させてくれるならまだ分かるけどさあ?」
「それは……、僕は先生のお気に入りで、えこひいきされてるから……」
トモキは自分で言ってくすぐったそうに苦笑した。
「ああ、そう。うらやましいよ」
ヒロは呆れた顔をして、内心の疑惑を隠した。まさかとは思うのだが、まるで、
水神先生が赤いドアを操っているような、
そんな疑惑を持ってしまう。
馬鹿馬鹿しいとは、思うのだが……………。
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