第12話 昨日の今日

 翌朝10時過ぎ、ヒロはアパートに二人組の刑事の訪問を受けた。刑事から手術を受けた桝岡が一命を取り留めたことを聞いてほっとした。

 ヒロはパジャマ姿で、訪問のチャイムに起こされるまでぐっすり眠っていた。もっとも寝たのが3時過ぎで、興奮で神経がギトギトしてとても眠れる気分じゃなかったが、桝岡の血に汚れた衣服が気持ち悪くて、シャワーを浴びてパジャマに着替えたら、疲れが出てあっさり眠れてしまった。事件現場でのんきにいびきをかいていた店長を笑えたざまじゃない。

 犯人はまだ捕まっていなかった。犯人が逃走用の足を用意していたのかどうか不明だが、表の国道へ向かわず入り組んだ住宅街に逃げ込んだのが犯人に幸いしたようだ。いつもなら犯人の狙い通り最後に一人で店を出る店長を狙った点と言い、土地勘のある地元の人間なのかも知れない。と、予断を持ってはいけないのだけれど、と、ヒロは改めて犯人について何か気づいた点はなかったかこうして刑事の訪問を受けている。防犯カメラは店内には不正防止の脅しの意味で付いていたが、表にはなかった。その店内カメラも営業時間終了と共に切られていて、犯人の姿は映っていなかった。ヒロからも特に言えることはなく、これでは犯人を逮捕するのは難しそうだ。

「ところでねえ、刺された桝岡さんのことなんですが」

「はい」

「なんで、あんな無茶をしたんでしょうねえ?」

「さあ……」

「店長さんは桝岡さんが勇敢に犯人に立ち向かっていってくれた、と感謝して身を案じていたんですが……、ナイフを持っている……長身のがっしりした若い男に、素手で立ち向かっていくなんて、桝岡さんは武術の心得でもあったんでしょうかねえ?」

「さあ? 僕は聞いたことありませんから、分かりかねます」

「まるで自殺行為ですよねえ?」

 刑事は一瞬酷薄そうな目でヒロの表情をうかがった。

「何か心当たりはありませんか?」

「いえ。何も」

「桝岡さんは大きな借金があって、奥さんを受取人にご自身に多額の生命保険を掛けていたそうです」

「ずいぶん、調べが早いですね?」

「まあ、こちらは専門家ですから」

 中年の刑事は自慢するでもなく穏やかに笑った。

「それが、犯人を逮捕するのに何か問題ですか?」

「いいえ。何も。きっと、犯人にとっても迷惑な武勇伝だったことでしょう。きっと人を刺したことで大きく動揺しているでしょうから、こちらとしてはつけ込む隙が出来てありがたいです。桝岡さんの行為は無駄にはしませんよ。ただ……」

「ただ?」

「犯人が逮捕されて、強盗致傷で裁判に掛けられることになるでしょうが、そうしますと、被告弁護人はほぼ確実に、桝岡さんの不自然な英雄的行為を問題にし、無用な罪を犯させられた犯人の情状酌量を訴えてくるでしょう。桝岡さんの事情も明らかにされ、桝岡さんは、厳しい立場に立たされることになるでしょうね」

 ヒロはまた暗たんたる気分になった。

 刑事は桝岡の事情については気の毒に思いながらも特に興味はないようで、

「じゃ、何か気づいたことがありましたらよろしくお願いします」

 と、丁寧に挨拶して帰っていった。ヒロは、世間の冷たさを思って桝岡への同情を新たにした。


 さて今日はこれからどうしようと思って、習慣的に携帯をチェックするとトモキとサオリ両方から電話が掛かってきていた。それぞれ留守電に「大丈夫? 出来るようになったら電話して」という内容が吹き込まれていた。朝のニュースで見てびっくりして掛けてきたのだろう。

 今、午前の講義を受けている最中だ。今日は午後の2時間目に三人いっしょの講義がある。

「行きますか」

 ヒロは二人を安心させてやるため……いきなり顔を見せて驚かせてやろうと、悪戯っぽく笑って、出かける準備に取りかかった。



 トモキの携帯に電話を掛けた。

『今、あなたの後ろにいます』

 昼休みの食堂で、都市伝説の怪談を気取って電話を掛けつつ二人並んで座る後ろに立って、

「やあ」

 と、にやけて手を上げた。

「なによ、もおーーっ。心配したんだからあーーっ!」

 サオリが怒って口を尖らせ、トモキは目を大きくして一種悲壮な顔から、ほっと表情をゆるめ、

「大丈夫そうだね。よかった」

 と、微笑んだ。

「悪い悪い。二人に会いたくてこうして出てきたわけだからさ、ま、許してくれたまえ」

 サオリはパンチの真似をし、トモキは携帯をしまいながら、

「市内でパチンコ店強盗があって、清掃作業員が刺されたって聞いてさ、まさか、と思ってたらヒロ君のバイトしている店で、ヒロ君が刺されたのかと思って青くなっちゃったよ」

 と、ヒロよりよっぽど悪い顔色で言った。

「ごめん! 心配掛けた。いやあ、でもさあ、ほんと、ビビったよ。犯人と目が合ったときなんか、マジで刺される!って思ったもんなあ」

「えっ!? ヒロ君、犯人と顔合わせちゃったの!?」

 ニュースでは詳しい状況が分からなかっただろうサオリがびっくりして言った。

「うん。ほんと、もう2メートルくらいの距離で」

「大変! 顔を見られた犯人に口止めに狙われるかも!」

「まさか」

 ヒロはサオリの子どもっぽい推理小説の発想に笑った。

「顔なんか帽子とマスクとサングラスで、全然分からなかったよ」

「あらそう。なんか典型的な強盗犯ね?」

「まったくね。おかげで警察も捜索に手間取るんじゃないかな? 刑事は自信満々みたいだったけど」

「えっ! 本物の刑事さん!?」

「そりゃそうだよ、偽物の刑事さんだったらびっくりだよ。それこそ犯人が俺が何か余計なことに気づかなかったか変装して探りに来たなんて、安っぽい刑事ドラマになっちゃうよ」

「ねえねえ、本物の刑事さんって、どんな感じ?」

 目をキラキラさせて質問するサオリに、

「どんな憧れ持ってんだよ?」

 と笑いながら向かいの席に座り、サオリの興味を満足させるために説明してやった。

 しゃべりながら落ち着いてくるのと同時に、事件のことが生々しく思い出されて、思わずブルッと震え上がった。

「やっぱりさあ、刃物って怖いよなあ。話だけ聞いてるとニュースのコンビニ強盗なんかさ、刃物だけなら周りの物でも投げつけてなんとかなりそうなもんだろう?なんて思ってたけど、違うんだな、もうさ、下半身に力が入んないんだよ。ぶるぶる脚が震えちゃってさ、抵抗しようなんて気構え、すっかり吹っ飛んじゃうんだな。いやあーー、殺されなくてよかったあって、マジでほっとするよ……」

 ヒロの告白にサオリもシュンとした顔をして謝った。

「ごめんね? あたし、なんかはしゃいじゃって、無神経だったね?」

 元気のなくなったサオリの額を、ヒロは笑ってつつくふりをした。

「いいよ。生きてて良かったあーーって、二人の顔を見て実感してるもん」

 サオリは照れくさそうに微笑んだ。彼女もずっと心配していて、一種の躁状態になっていたのだろう。

 ヒロは自分の幸せを思って、今度は桝岡の身の上を思った。

 桝岡は一命を取り留めたという。しかし重傷だったのは間違いないだろう。手術や入院の費用など、きっと保険が下りるのだろうが、その保険も、桝岡が自殺を図ったものと分かれば、どうなるのだろう? 民間の保険会社のものなら返還請求なんかされないだろうか? それに高額な手術と入院費を、保険だけで支払えるのだろうか? 自殺を図ったと知られれば、以後桝岡に対する保険会社の目は厳しくなるだろう。自殺では保険金は下りないという話を聞いたことがある。あれは契約から何年間は、っていう条件があるんだったかな? 払い込む毎月の保険料だって少ない額じゃないだろうし、長期入院で昼間の仕事も出られないだろうし、いつまで有給扱いしてもらえるものか? 考えれば考えるほど、死に損なった桝岡の今後は、厳しそうだ。

 血を流して苦しむ桝岡にヒロはひどく同情的で、いっしょに涙を流したりしたが、今考えてみると、それも異常な興奮状態のせいだったかもしれない。今にして思えば、なんて馬鹿なことを……、と、軽蔑する思いも少しわいてきていた。

 桝岡と、その家族は、これからどうなっていくのだろう…………

 あの時のことで、

 もう一つ強烈に思い出されるものがある。

 赤いドアだ。

 まるで夢の中で見たような赤いドアのことを、もちろんヒロは警察に言っていない。あんなもの、それこそ犯人逮捕にはなんの関係もないだろう。

 あれはいったい、

 なんだったのだろう?


「赤いドア……」

 ヒロもサンドイッチを買ってきて、黙々と腹ごしらえした後、ぽつりとつぶやいた。

「え? なに?」

 トモキが不思議そうに尋ね、すっかり黙り込んでしまった座に居づらそうにしていたサオリもいかにも興味ありそうに表情を作ってヒロを見つめた。

「ん? うん……。石田が言ってた都市伝説、人生をやめたくなった人間の前に現れるっていう『赤いドア』。俺、それを見たかも知れない……」

「いつ?どこで?」

「刺された桝岡さん……同僚の人がさ、苦しがりながら手を伸ばした壁に、赤いドアがあったんだ。それが開いてきてさ、なんか……、すごく禍々しい感じがしてさ……」

「うんうん、それで?」

「パトカーが到着して、気が付いたらなくなってた」

「なーんだ…じゃなくって、よかったわね」

「うん。あれが開ききっていたら、どうなってたんだろう?ってね。あれを呼んだのは……、桝岡さんなんだろうなあ……、痛みに泣きながら、嫌だ、こんな人生、って言ってたから……」

「ヒロ君」

 トモキが静かな、重い声で呼びかけた。

「そのことは考えない方がいい。先生の言ったことを思い出して?」

 ヒロはギョッとした。先生の忠告は、すっかり失念していた。

 君の周りで、ざわめきのような物を感じる。

 君自身に危険はないと思うが、危ないことに巻き込まれるような気配がある。

 気を付けなさい。

 一言一句が、先生の綺麗で、冷たい顔から発せられるのを、まざまざと思い出すことが出来た。冷や汗が、こめかみから、先生に押さえられた頬骨の上へ、流れ落ちた。

「ま、まさか……、俺のせいなのか?………」

 トモキは首を振った。

「先生はそういう風には言ってないんじゃない? ヒロ君の周りで悪いことが起きる。ヒロ君はそこに巻き込まれる危険がある。そうでしょう?」

 ヒロはうなずいた。

「だから、ヒロ君はそういうことに巻き込まれないように気を付けなくちゃいけないんだ。僕も悪い予感がする。悪い気配は、まだヒロ君の周りを漂っているんじゃないか? また何か起こるかも知れない。けれど、ヒロ君はそれに巻き込まれちゃいけないんだ」

 トモキはまっすぐヒロを見つめ、思い詰めた、怖い顔で言った。

「ね? いいね?」

 心底心配そうに約束を求め、

「うん、気を付けるよ。ドアのことは……考えないようにする」

 ヒロが言うと、ほっと表情をゆるめながら、その実、まだ不安そうに顔を青ざめさせていた。

 そんな二人を、サオリも不安そうに見比べていた。

 そして、ガタリと音を立ててヒロの背中で席を立った女子学生がいたことも、三人はまるで気にとめなかった。

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