第11話 呼ぶドア

 ヒロも固まったが、男の方もヒロの出現にギョッとしたようだった。てっきり店長が最後に出てきたものと思い込んでいたのだろう。その店長は男に突き飛ばされたのか、袋小路になった通路の奥にしりもちをついて、売上金の入った黒い皮鞄を必死と抱きかかえていた。これを近くの銀行の夜間金庫に預けてから帰宅するのだ。

 男は、20代の後半か、30代の頭といったところだろうか、格闘になったらヒロなんかとてもかないそうにない肩幅の広いがっしりした体をしていたが、そのなりでも大それたことをしでかす緊張があったのだろう、予想外の事態に戸惑いがあらわだった。外でさっさと鞄を奪ってしまえば良かったものの、ドアの外にはこういう場合の用心に煌々と外灯が照らしている。深夜0時を回って交通量も減ったとはいえ表の国道から丸見えであるから、いったん中に押し込んで、縛り上げるかなんかして悠々金を奪っていくつもりだったのだろう。

 運の悪いことに清掃員がこうして残っていたわけだが……、それは、どっちの不幸になるのだろう?

 男はナイフを握る手に力を込め直し、ヒロを威嚇するような態度を見せ、奥で店長が、

「ラッキー君! で、電話っ、ひゃ、110番!」

 と叫ぶに及び、マスクの中でチッと舌打ちするように、男はくるりと背中を見せてドアを出ていこうとした。

 た、助かった……

 強奪を諦めた男にヒロはすっかり腰から力が抜けきったようにへたり込みそうになったが、強盗も、ヒロも、ギョッとする事態が突如わき起こった。

「うわあああああああああっ」

 桝岡が、大声でわめき、物凄い形相で飛び出してきて、ヒロを突き飛ばすように、ウエスタンドアを跳ね開け、強盗の男に飛びついた。

「桝岡さん!」

「桝岡君!」

 ヒロも店長も仰天して声を上げ、

「うわああああっ」

 わめき、組み付く桝岡に、強盗は半開きにしたドアから外へ、そのまま躍り出た。

「わああ・」

 二人の姿を向こうに、ドアがバタンと閉まる。

「ま、桝岡さんっ!!」

 いったい何をとち狂ってるんだ?

 ヒロは男の手に握られたナイフのきらめきを思い出し、ゾッとした気持ちでドアを開けた。

 果たして。

 黄色い光の向こう、男に組み付いた桝岡の背中があった。

「桝岡さんっ!」

 ヒロの大声から逃げるように、男はドンと桝岡を突き飛ばして、国道と反対の住宅街の中へ駆け込んでいった。

 桝岡は、力無くよろめき、黄色い光の中で仰向けに倒れた。

「桝岡さん!?」

 桝岡はがくがく痙攣し、目をパチパチと激しくまたたかせ、半開きの口をパクパクした。くたびれたクリーム色のシャツの、左の脇腹が真っ赤に染まっていた。刺されたのだ。

「ら、ラッキー君?」

 ギイとドアが開き、店長がこわごわ顔を覗かせた。桝岡の隣にしゃがみ込んだヒロは性急に訊いた。

「110番は?」

「う、うん、まだ…」

「急いで電話して。それに、救急車も。桝岡さんが刺されました」

「ひっ、ひい!?」

「急いでください!」

「う、うん。」

店長は青い顔で引っ込み、ドアが閉まった。

「桝岡さん……」

 ヒロはいったいどうしたらいいのか、痙攣し震えながら刺された脇腹を押さえる桝岡の手に手を重ねた。ドクドクとした血の噴出が伝わってくるように感じた。

「なんだってあんな無茶を……」

 実害は何もなかったのだ、危険な強盗犯の逮捕なんて警察に任せておけば良かったのだ。まさか恩義ある店や店長のために義侠心が働いたわけでもないだろう。桝岡は泡を吹きそうな口からうわごとのように言った。

「金……」

「金?」

 ヒロは桝岡がいったい何を考えているのか分からなかった。

「金なんて、奪われたって俺たちの給料は払われますよ、多分。それにあいつは結局諦めて…」

「金……、金がいるんだ………。俺が死ねば、女房に生命保険が下りる……」

「な、なんですって!?」

 ヒロは強盗と顔を合わせたとき以上のショックにガーンと頭を殴られたような気がした。

「それじゃあなた、わざと殺されるつもりで……」

 桝岡は頬を引きつらせ、皮肉に笑おうとしたらしかった。

「ど、どうせこんな暮らし続けていたんじゃ、莫大な借金なんて返せやしない……、こ、これ以上、女房や娘に、惨めな、不安な生活を……、送らせたく、ねえんだ………」

「だ、駄目ですよ、そんなこと!……」

 ヒロは自分も泣きたい気分になってしまった。

「そんなことして奥さんや娘さんが……」

「おまえに、何が分かるっ!」

 瞬間カッと桝岡の顔に怒りの朱が走り、

「い、痛てっ、く、くそっ、イテテテ……」

 苦痛に歯を食いしばり、桝岡は、涙を流した。

「く、くそお……、俺だって、俺だってなあ、こんな人生………」

 ふっと表情が抜け、再び子どもみたいにくしゃっと歪んだ。

「嫌だああああー……、こんな人生…………」

「やっぱり駄目だあ、こんな人生の終わらせ方、駄目ですよおー…」

 桝岡の惨めな泣き顔が、ヒロにも悲しくてならなかった。桝岡が実際どんな状態にあって、どんな人物なのか知らない。しかし、奥さんや娘さんのことを思う桝岡が悪人ではあるまい。ただ、失敗してしまっただけなのだろう。それだのに、こんなに惨めな気持ちに追いつめられて、自ら人生を終わらせなくてはならないなんて、一人の人間の尊厳を思ったとき、とうてい許されることではないと思った。

 いてえ、いてえ、とすっかり力無く泣き言をつぶやく桝岡が、ふと、弱々しい視線をさまよわせた。

 桝岡の視線がハッと止まり、目が見開かれ、すっかり濁った瞳に、一種異様な光が甦った。

 ヒロも桝岡が何を見ているのか、その視線の先、店の白い外壁を見た。


 赤いドアがあった。


 ヒロは妙に思った。こんな所にドアなんてあっただろうか?

 それは物置でも連想させる平凡な鉄のドアで、照明から外れているせいかひどく暗い赤色に見えた。

「あ……、うわあ……」

 桝岡が両手で押さえていた傷口から片手を離し、そのドアに向かって差し伸べた。

 ドアが、静かに、開いてきた。こちらから斜めの位置で、ちょうつがいがこちらにあるので開いてくるドアの向こうは陰になって見えない。しかし、開いてくるドアそのものが、今度は、ひどく赤くぬめって見えた。ぬらぬらと、まるで、ゼリーで出来ているような、生々しい水気が感じられた。

 それはひどく悪い物に感じられて、ヒロは戦慄し、手を差し伸ばした桝岡も、急に恐怖を感じたように、慌てて逆にあっちへ行けと言うように手を振った。

「うう、うわああああ…」

「桝岡さん、しっかりして!」

 桝岡も、ヒロも、真っ赤に染まり、

 激しくサイレンを鳴らしてパトカーが到着した。続いて救急車も。

 バラバラ降りて駆け寄ってくる警官と救急隊員を見て、ヒロはまるで夢の中にいるように頭がぼうっとしてしまった。厳しい様子で何か言われているが、頭が働かないで何を言っているのか理解できない。救急隊員がヒロの手をどけて桝岡の負傷具合を調べ、ヒロは警官に腕を取って立たされ、肩を激しく揺すぶられ、大声で何か呼びかけられ、ようやくハッと、目を瞬かせた。

「ま、桝岡さん!」

「刺された方ですか? 救急が収容して病院に向かいます。ご心配でしょうがこちらに協力してください。犯人は逃走したんですか? ここにいるのはあなただけですか?」

「あ、いや、店長が……」

 ヒロが答える前に、別の警官がドアを開けた中に携帯電話を持ったままぐーぐーいびきをかいて眠っている店長を発見した。電話をして役目を終えた途端、神経が弛緩して、眠ってしまったらしい。

 ヒロは強盗が飛び込んできた顛末を語り、犯人の特徴を伝え、警察官は無線で本部に連絡し、その間にも続々パトカーが集まってきて、大騒ぎに近所の住人も出てきて不安そうな顔で見守り、警察官の聞き取りに答えていた。

 そんな様子をまだぼうっと立ち直りきらない頭で眺めながら、ヒロは不思議に店の白い壁を見た。

 そこにはやはり赤いドアなどなかった。

 今は、パトカーのサイレンで、ぐるぐると、赤く染められているだけで。

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