第9話 水神先生
ノックをすると、
「どうぞ」
と硬質の声が返事をした。
「失礼します」
B−302 「水神 由布子ルーム」のドアを開ける。
部屋は奥に長く…と言うより左右の幅が狭く、窓際にデスクと、向かって右の壁に向かって背中合わせにもう一つデスクトップパソコンの載ったデスクがあり、部屋の中央には会議に使う折り畳み式の長机が向かい合ってくっつき、左右にパイプ椅子が8脚。左右の壁に書類棚とぎっしり専門書の詰まった本棚。それで狭い部屋はほぼいっぱいだった。
窓際のデスクに向かっている水神先生はパチパチとノートパソコンのキーを打ち、手を止めると、しばらくしてこちらを向いた。
「長谷川ヒロヨシ君。なんですか?」
先生は、いかなる間違いも決して犯さない、日頃の生活態度にもすべて背筋のビシッとまっすぐ立った印象がある。
「失礼します」
ヒロは再び言って先生のデスクに近づいていった。接近するに従いなんとも気まずい緊張感が高まっていった。椅子に座っている先生と向かい合うのに程良い距離を置いて立ち止まった。先生は特になんの感情も見せずにヒロを見ている。
「あの先生、変なことを訊くみたいですが、先生はその…、幽霊が見える人なんですか?」
先生の細く長い眉がひくりと呆れたように動いた。それを見てヒロは、あーあやっぱり、嫌だなあ、と、ここに来たことを後悔した。
「川上君に聞いたの? 口止めしていたのに、困った子ね」
そう言いながら先生は、笑った。
「川上君は君と仲がいいらしいわね? あの子、あんまり人付き合いが上手じゃないでしょうから、いいわね、あなたみたいな子がお友だちでいてくれるのは」
まるでトモキのお母さんのような言い方だが、トモキの友だちであるというのは先生の評定がグンとプラスになるらしい。……年齢的には年の離れたお姉さんか。
「そういう場所に行ったの?」
「はあ、実はそうなんです。悪友を止めるつもりが、自分がミイラになりかけちゃいまして」
「ふん。言葉のユーモアもあるわね。わたしもあなた、気に入ったわ」
「はあ、それはどうも」
先生は上目遣いで値踏みするようにヒロをまっすぐ見つめ、ふっと薄い唇に微笑を浮かべた。なんだかお金持ちの奥様にかしずくホストみたいな心境だ。
「顔は60点くらいだけど」
あっさり言う先生にヒロは呆れた。
「先生って、そういうキャラだったんですか?」
「そうよ。人前では猫被ってるだけ」
「人前って…、僕らは人以外ですか?」
「そうよ。かわいいペットたち。ふふふ、実はわたし、女王様キャラなのよ」
「若い男の子が好きなんですか?」
「ふふふー。冗談よ」
これまたあっさり硬い声で突き放すように返され、なんなんだろうなこの先生は、と内心腹が立った。
「行ったのは、葉山台光済病院?」
ヒロは鋭い指摘にギョッとした。顔色を読んで先生はこともなげに。
「川上君に話したのは光済病院には絶対行くなということだけだから、そうだろうなと思ったのよ」
「ああ、そういうことですか。……そんなに危険なんですか?………」
「危険だね。この辺りでは突出して危険だよ」
先生は表情を隠すようにメガネの位置を直しながら言った。そうしてヒロの顔を見直して。
「君は、何か見たの?」
「ええ……。女の人の影らしいのと……、足音と、ドアに入っていくスカートの裾を……」
「ふうん。顔は見てない?」
「見てません」
「そう。それなら大丈夫だと思うけれど」
「あのー…、トモキは先生に視てもらえば霊に取り憑かれているかどうか分かるだろうって言ってたんですが……?」
「どれ」
先生は立ち上がって、左右から首の後ろを覗き込むようにした。
「ふん……。目、見せて」
指の長い細い手で左右からヒロの頬骨の上を押さえて、ヒロの顔を左右に軽く振らせてじいっと目を覗き込んだ。ドギマギして、妙に緊張した。先生は小柄な方で、サオリより少し低いくらいだ。サオリも細いが、先生は更に細い。首なんか簡単にぼきっと折れてしまいそうだ。いつも黒かベージュの、細い直線のスーツの上下を着ている。胸も小さく、お尻も小さく、髪を後ろにまとめて背中にポニーテールを垂らしている。パッと見た感じは、女性か、とびきりの美青年か、迷ってしまう。石田たち口の悪い連中が「ウーマンリブ」と揶揄するゆえんだ。すごい美人ではあるのだが……、苦手な女性というイメージを、ヒロも持っていた。
先生は中性的なコロンを使っていた。
「ふうん……」
先生の鼻から抜ける吐息に、ヒロはハッと我に返る思いがした。先生の手が放れ、先生はふんぞり返るように椅子に腰を下ろした。
「ま、特に危ない物に憑かれている様子はないけれど、どうもあなた、面倒な物につけ込まれやすい性格みたいね?」
ヒロはほっとしながら、ムッとした。
「それは……、騙されやすい単純な性格、ってことですか?」
先生は、また同じように笑った。
「君を気に入ったと言ったでしょう? 好もしいよ、そういう性格」
フフフッ、と笑われて、頬が火照った。こういう顔をすると、なんだか教え子をたぶらかす淫らな破廉恥教師に見える。お堅い女性闘士と対極の顔だ。
先生は笑いを引っ込め、まじめな顔になると言った。
「君の周りで、ざわめきのような物を感じる。君自身に危険はないと思うが、危ないことに巻き込まれるような気配がある。気を付けなさい」
「怖いですねえ。やっぱり廃病院に行ったのが悪かったんですか?」
「そうだね。でも、どうも呼ばれてしまったような感じがするね。霊にも…、気に入られちゃったかな?」
「嫌だなあ。神社でお祓いとかしてもらった方がいいですか?」
「そうだね……」
今度は先生はじっと長く考え込んだ。
「どうしても気になるなら、そうするといい。わたしは専門家じゃないから無責任なことは言えない」
「先生は、どっちがいいと思います?」
「わたしは……」
ヒロをじっと見つめたまままた考え込んだ。
「わたしは、行かない。君は、好きにしなさい。どっちを選ぶかが、君の運命の選択だ」
「運命の選択?………」
『そんなに大げさなことなのか?………』
先生はふっと怪しく微笑むと、くるりと背中を向けた。
「はい、おしまい。じゃあねー」
手をひらひらさせて、「帰れ」ということだろう。ヒロは先生の後ろ頭を恨めしそうに横目に睨みながら、
「失礼します。ありがとうございましたー」
と、ドアに向かった。
※ ※ ※ ※ ※
トモキから電話が掛かってきた。
『先生の所、行った?』
「うん」
『先生、なんだって?』
「トモキ君と仲良くしてください、ってさ」
『ええ? 何それ?』
「トモキ君が先生のお気に入りだっていうのがよお〜〜く、分かったよ。あのね、特に悪い物に憑かれている様子はないって」
『そう。それは良かった』
「ところがさ、俺の周りで何か危ないことが起こるような不吉な予言をされてね、いいんだか悪いんだか、かえってもやもやした気分だよ」
『先生がそんなこと言ったの?』
「うん。もしかして…、からかわれただけかも知れないけどね。なんかさー、講義の時とだいぶキャラクターが違うんだもん、なんかおちょくられて遊ばれた感じ」
『先生は…、そんな人じゃないけど……』
ひどく元気のない、悲しそうな声だ。
「トモキ君も先生が好きなんだなあ」
『…うん、いい人だよ』
センチメンタルで、嬉しそうな声だ。実にトモキらしい。
「ま、そのうち神社に行ってお祓いしてもらうよ。それで安心だ」
『そうだね。そうしなよ』
「うん。それじゃあね、また明日」
『うん。また明日。アルバイト、頑張ってね』
「はいはーい。じゃあね」
そうだ、これから倉庫の品出し作業と、パチンコの掃除がある。
「やれやれ」
これも豊かな学生生活を送るためだ。気合いを入れて頑張ろう!
ヒロは、トモキにはああ言ったものの、神社でお祓いなんかしてもらうつもりはなかった。近場に寺はいくつかあるのだが神主が常駐しているような大きな神社はなくて、いくら取られるのか分からないが高い料金も支払いたくないし、冷静に考えてみればお化けに怯えるなんて子どもみたいで馬鹿馬鹿しく思えてきた。
どうせ大したことなんて起こりゃしないさ、
と、ヒロは高をくくっていた。
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