第8話 先生のこと

 月曜日、昼休み。食堂。

 ヒロはテーブルに向かい合って、「う〜〜〜ん」としかめっ面で悩んでいるサオリを眺めていた。

 トモキがやってきた。ヒロは「お疲れ」と軽く手を上げて挨拶した。トモキは軽く微笑んでうなずき、サオリの隣の席に鞄を置くと、

「何してるの?」

 と訊いた。

「見ての通り。気が散るから話し掛けないで」

 トモキはニヤニヤしているヒロに肩をすくめ、

「ふうーん、今日はクリームコロッケ定食? 中身は?」

「ただのコーン」

「そう。じゃあ僕も」

 トモキも配膳カウンターで同じメニューをもらってきてサオリの隣に座った。邪魔をしないように静かに食べ始めると…

「ああっ、もうっ、わっかんないっ!」

 サオリが頭をかきむしるような勢いで、10分くらいずっとにらめっこしていた「間違い絵捜し」の問題にギブアップした。土日二日間アパートで謹慎していたヒロが、暇を持て余して買い物のついでにスーパーにあった雑誌を買ってきて、暇つぶしのつもりが思わずはまってしまったものの、いくつか、七つ八つとある間違いの内どうしても最後の一つ二つが見つけられない問題があって、悩むあまり大学まで持ってきてしまった。既に見つけた間違いはえんぴつで丸してある。自分で解くつもりでいたのを、サオリに奪われてしまった。「なあにー? こんなの楽勝じゃあーん」とか言ってたくせに、とうとうヒステリーを起こしてしまった。

「まあねー、星五つの最高難度問題だからねえ〜」

 二日間さんざん悩んだヒロが慰めというよりバカにして言うと、

「どーせすっごく細かい、答え見たってこんなの分かるわけないわよ!ってやつでしょ?」

 サオリが悔し紛れにいちゃもんを付けた。

「煙突の長さ」

「へ?」

「ほら、3本並んでる、一番奥の煙突。短いよ?」

「え? え? えっ? ええ〜〜〜〜っ!!??」

 左右の絵を見比べてサオリが大げさに思えるほど驚き、

「どれどれ?」

 椅子から腰を浮かせて覗き込んだヒロも確かめて、

「あっ! ほんとだ! うっそーー、なーんでこれが気づかないんだあ? うう〜〜ん、く、悔しい〜〜!」

 難問を先にあっさり解かれて地団駄踏む悔しさだが、それはサオリも同様で、

「さてはトモ、この雑誌持ってて、先に問題を解いてたわね?」

 と詰問したが、トモキは迷惑そうに苦笑して、

「たまたまだよ。たまたま、目が向いたところに、あれ?って、見つけちゃったんだよ」

 と恋人の不機嫌に言い訳した。この雑誌は問題ごとに懸賞が付いている。

「この問題は5000円のグルメ券か。よし、当たったら二人で山分けしよう」

「なんで二人なわけ? あたしは?」

「サオリちゃんは一つも間違い見つけてないじゃん?」

「簡単なのをヒロ君がみんな見つけちゃったからでしょーが!?」

「しょうがねーなー、じゃあ三人でぱあーっと使おうか?」

「あたしイタリアンがいいー!」

「おいおい君たち。そういうのを『捕らぬ狸の皮算用』って言うんだよ?」

 呆れるトモキも、ヒロもサオリも、そんなことは承知で、ニヤニヤ笑っていた。ヒロは腰を落ち着け。

「ま、5000円程度じゃな、ちょっとしゃれた店に入れば赤字になっちゃうだろうな。よーし、じゃ、他の問題も片づけようぜ? さーて、次のタヌキちゃんは…」

 テーブルの真ん中にページを広げ、パクつくコロッケの味も分からないくらい集中しながら星5の難問に挑戦したが、遅れてゆったり食べているトモキが「あ、それ」と、次から次に当てて、「ごちそうさま」と食べ終わる頃にはことごとく見つけてしまった。サオリは「ポンッ」と隣のトモキの肩に手を置き、

「ト〜モ〜〜。あんた、遠慮って言葉は、知らないのかなあ〜〜〜?」

 と、爪を立ててグリグリし、ヒロも腕組みをし、

「トモキ君。君は間違い探しの天才だ。いやあ、恐れ入った」

 と、うんうんうなずいてみせた。トモキはサオリの爪攻撃にくすぐったそうに身をよじり、

「それって自慢になるのかな?」

 と謙遜した。

「なるだろう? 観察眼が鋭いってことだろう? でもさあ、そういうのって……」

 ヒロは白々しく陰険な目をサオリに向けた。

「女の方が得意なんじゃない? ほら、奥さんが旦那の背広を調べて浮気をチェックしたりさ、ストーカー被害に遭ってる女性が自分の部屋に帰ったとき微妙に物の位置が変わっているのに敏感に気づいたりさ?」

 ムッとしたサオリは開き直って言い放った。

「そうよ。トモは頭の中が女なのよ! だからこういうのは得意なのよ!」


 食後のコーヒーを楽しみながら、ヒロは何となく気後れしながらトモキに訊いた。

「水神先生は、どう?」

「どうって、いつも通りだよ」

 トモキは可笑しそうに答えた。トモキとサオリは緑茶を飲んでいる。

 昼からトモキだけ水神先生の「ジェンダーとメディア」という水神先生の講義を受ける。これは本来ヒロたち社会学科の学生の受ける講義ではないのだが、トモキのたっての希望で特別に受講を許されている。本来は石田たちメディア学科の科目だ。そこで学科を通して連絡の行かないトモキは事前に準備する教材などないか訊きに行く…と言う口実で事前に先生の部屋を訪ねていた。

 ヒロはおそるおそる訊いた。

「先生には、俺たちが光済病院に行ったことは……?」

「言ってないよ。自分で言ったらいいだろう?」

 ううーん…、とヒロは首を後ろに反らしながら困った。

「決して嫌いじゃあないんだけどなあ…………。なんかさあー、厳しいー目つきで冷たく睨まれて、すんげえ嫌味を言われそうな気がするんだけど…………」

 トモキは笑った。

「ヒロ君はそんな風に先生を見ているの? 優しい、いい人だよ?」

「いい人なのは分かるけど、優しいかな?」

 細いフレームの薄いレンズ越しの大きくも鋭い先生の目つきを思い、ヒロは体の芯が変に水っぽく、冷たくなる思いがした。頭が良く高い学識のある人特有の、上に立った目つきだ。

「僕、今日はこれから2時間講義があるし、終わってから先生の所には行かない予定なんだけど」

 先生と個人的に会う時間がないから今わざわざ会ってきたのだろう。その後トモキとサオリはいっしょの講義を受けるが、ヒロはこの後一人で別の講義を1時間受けて終わりで、代わりに5時からバイトだ。

「講義が終わってからいっしょに行くのはかまわないんだけど……、時間、ギリギリになっちゃうんじゃないかな?」

「いいよいいよ、そこまで付き合ってくれなくても。……先生、講義の後は?」

「後はもうずっと研究室にいると思うけど」

「そう。石田の奴はどうするんだろうな? 石田は……どんな感じで講義受けてるの?」

 石田も「ジェンダーとメディア」の講義を取っている。

「そうだねえ……あんまり面白くなさそうな顔して聴いてる…かな?」

 トモキの苦笑と、ヒロも木曜日に受けている「ジェンダーと社会学」の講義の様子から教室のだいたいの雰囲気が分かった。内容的に…ガキっぽい気恥ずかしさもあって、男子で熱心に拝聴している学生はあまりいない。正直に言うと、ジェンダーと言いつつ、内容は女性の権利が社会にいかにないがしろにされているかという男社会批判で、男性として面白くないのは当然だ。男でごめんなさい。という気分にさせられるのだ。「メディア」の講義でもどうせいかに女性が型にはまったマスコット的な扱いを受けているか、偏見的な好奇の男性視線で見られているか、お説教されてるのだろう。

 石田が自分から先生に報告するとは思えない。ヒロも想像するだけでうんざりした気分になった。

「研究のお邪魔しちゃ悪いかなあ〜?」

 後ろ向きなふやけた笑いを浮かべてお伺いすると、トモキは怒った顔を作って叱った。

「ヒロ君。もし本当に悪霊に取り憑かれていたりしたら大変なんだから、ちゃんと先生に視てもらいなさい」

「はあ〜〜い」

 不承不承返事をするヒロに、トモキはふっと優しく微笑んだ。

「大丈夫だよ、水神先生は、本当に優しい人だから」

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