第7話 お返し
ヒロのアパートは駅からだいぶ離れた住宅街のただ中にあったが、近所に町工場があって、これがゴム製品を扱っているらしく、風向きによってけっこうひどい臭いが漂ってきた。今日も、けっこうきつい。
自転車をコンクリートの土台に持ち上げ、玄関脇に置きながら、
「気分悪くならない? 俺も最初の頃は頭痛くなっちゃってさー」
と、こういうのに弱そうなトモキを気遣った。
「ううん。大丈夫だよ。平気」
「そう? ま、このおかげで家賃も安いんだろうけどさ。どうぞ、入って」
鍵を開け、ドアを開け、壁のスイッチを押して灯りをつけ、トモキを招いた。ヒロの部屋は2階建て奥へ長いアパートの1階の一番手前だ。
「お邪魔しまーす」
「狭くてむさ苦しいところですけど」
ヒロは部屋の灯りをつけ、真っ黒なガラス戸のカーテンを閉めた。
「あ、うがいする? コップ出すよ」
ユニットバス、トイレ兼の洗面所の灯りをつけ、玄関を上がってすぐのキッチン台の下の収納を開け、ビニールの被ったままの予備のコップを出してトモキに渡した。
「お気遣いなく」
せわしないヒロに苦笑しながらトモキは受け取った。ヒロは洗面所を覗いて、
「外国じゃ普通なのかも知れないけど、トイレも風呂もいっしょって、日本人にはけっこう抵抗あるよなー。ま、これも省スペースでお安い家賃のためか」
と、なんとなく自分の生理的なところが剥き出しの気がして恥ずかしく思った。
「お気遣いなく」
トモキは再び笑って、
「じゃ、お借りします」
と、洗面台に向かった。
ヒロは自分はキッチンで手洗いを済ませ、さあてと、と、冷蔵庫からやりかけの食材を取り出した。ガラガラガラ、とうがいをして出てきたトモキに、
「悪いけどしばらく待ってよ。今作るから。テレビでも見てくつろいでてよ。あ、ウーロン茶か麦茶、飲む?」
「じゃあウーロン茶」
「うけたまわり。……はい」
冷蔵庫から出した1リットルパックのウーロン茶を新しいコップに注いで渡した。
「ありがとう」
「水道水の水は飲まないから常備してるんだ。昼間はウーロン茶、夜は眠れなくなるから麦茶、ってね。じゃ、待ってて」
「うん…。ヒロ君、料理するの?」
「フッフー、一人暮らしを始めてから目覚めた。もうけっこう慣れたもんだよ?」
「へえーー、そりゃあ楽しみ」
「あ、なんか上から目線?」
「いえいえ。それじゃあ気を散らせちゃ悪いから待ってまーす」
トモキはニヤニヤしながら部屋に行き、テレビをつけた。7時のニュースをやっていて、そのまま見続けた。ヒロは、
「あちゃ、ご飯も炊いてないんだった。ま、ちょうどいいか」
と米を、
「1合半……でいいよな? トモキ君、ご飯食べる方だったかなあ?」
学食のランチを思い出しながら測り、研いだ。時間がないのでそのまま炊飯器をスタートさせ、おかずの調理に掛かり、
『俺って案外主夫系?』
なんて可笑しく思いながら手を動かした。
それから40分ほど後、横長のテーブルに料理が並べられ、二人互い違いに向かい合って
「いただきまーす」
とすっかり遅くなってしまった夕飯を食べだした。
メインのおかずは「レンコンのはさみ揚げ」であるが、そこは男の大学生の料理なので、油を張って揚げることはせず、レンコンは薄めに切って多めの油で炒めるだけで、挟む肉も「鶏の挽き肉をよくこねて」なんて面倒もしないで、ビールのおつまみの四角い大きな味付きソーセージを切って挟めるだけだ。あとは出来合のマカロニサラダにひじきにインスタントみそ汁。ヒロの料理の実力と手際はこんなものだ。
簡単レンコンのはさみ揚げを食べたトモキは。
「あ、美味しい」
「フッフッフー、意外だったかなあ〜?」
「いえいえ、そんな」
トモキは白くきれいに揃った歯で「サクッ」と噛んで、
「ふんふん。本当に美味しいよ」
と驚いたように目を丸くして褒めた。ヒロは
「ま、手抜き料理だけどね。案外いけるだろう?」
と少々得意になりつつ、
「そういえば手料理をご馳走したのはトモキ君が初めてだぞ? フフン、天狗になっちゃいそうだなあ」
と、この程度の物で無邪気に喜んだのが恥ずかしくなって照れた。
「美味しい、けど」
トモキが目を笑わせてヒロを見た。
「実は僕も料理は得意なんだよ? このお返しに、今度ご馳走するよ」
「へええ〜〜〜?」
トモキの挑戦にヒロは目を細めて見つめ返した。
「そいつは楽しみだなあ。是非とも食べてみたいものだ」
「いいよ? スケジュールを見てアレンジするよ」
トモキは笑って、楽しそうにご飯を食べた。
※ ※ ※ ※ ※
食事が終わるのを見計らって、ヒロは言った。
「ところでさ、トモキ君って……、霊感…あるの?」
トモキはひどく答えづらそうな顔をした。
「うん……。多少はある……方かな?」
「以前、光済病院に行ったことあるの?」
トモキは首を振った。
「ううん。今日初めて行った」
「じゃあなんであそこが危険だって、……あんなに心配したの? トモキ君、あの病院について、何を知ってるの?」
「うん……。僕……じゃないんだ。水神先生なんだよ」
「え? 先生の用はもう終わってたんじゃないの?」
ヒロはサオリから話を聞いたその場に水神先生がいたのかと思ったのだが。
「いや、前に聞いたことがあるんだ、あそこには近づいてはいけないよ、って」
「ふうーん。意外だなあ。先生って、オカルトなんて全然信じないタイプに見えるけど?」
「先生は見える人みたいだよ? あ、これは他には内緒にしてね?」
訴えるようにじっと見られ、
「うん、分かった」
とヒロは約束させられた。
「じゃあ…、先生は光済病院を……、どう言ってたの?」
「えーとね……」
トモキは頭の中で整理して慎重に話した。
「女性問題から見た地域医療について調査していて、実地調査としてその廃業した葉山台光済病院に行ってみたんだって。そうしたら……見たんだって、上の方の階で、窓辺に立って外を見ている女の幽霊を」
トモキはさも一大事といったように話したが、ヒロは拍子抜けした。
「なんでそれが幽霊って分かったんだ? 生きた人間だったかも知れないじゃないか? あ、そうか、透けてたりしたんだ?」
トモキは首を振った。
「ううん。すごくはっきり見えたって。あのね、先生は見える人なんだ。幽霊って、割と普通にそこら辺にいるみたい。大学の中にもね」
「うわ、気持ち悪りいなあ」
「だから、ね?先生が見える人なのは内緒」
「うん、分かった。それで?」
「うん。幽霊ってね、テレビやラジオの電波みたいな物なんだって。受信機を持っていない人には見えないし、受信機の性能によって雰囲気だけとか音だけしか『形』に再生されない場合もあって、いわゆる『霊感がある人』っていうのもたいていはこのレベルなんじゃないか?っていうのが先生の見解」
ヒロは身を乗り出してフムフムとうなずき、話の先を促した。
「先生はかなり感度のいい高性能の受信機を持っていて、かなりはっきり『人の姿』として見えるそうなんだけど、えーとね、存在として、あやふやな場合がほとんどなんだって」
「う〜〜ん…、よく分かんない」
「例えばさ、」
トモキは苦笑して言った。
「存在の薄い人、っているじゃない?」
「えーと…、顔も名前もよく思い出せないようなクラスメート?」
「そんなところ。視界に入っていても全然意識が向かないで、居ることも気づかないような人。幽霊って、そんな感じなんだって。なんとなく視界に入っているんだけど、背景の景色と同化して、『人間』として意識されないような、そんなぼんやりした物である場合がほとんどなんだって。だから実は見えている人もそれが『幽霊だ』っていう意識を持たないでいる場合が多いんだって」
「ふうーーん…。なるほど」
「ところが、たまに、妙にはっきり意識される物がいる。そういうのは危険で、見ちゃいけないんだって」
「見ちゃ…いけない?」
「そう。はっきり見える幽霊っていうのは、はっきりした強い怨念を抱いている物が多くて、自分の存在をキャッチできる人間には、積極的に接触しようとするんだって」
「うわ、そりゃ怖いな」
「そうだよ。目が合ったりしたら……、つきまとわれて、取り憑かれて、精神を影響されて人格が変わっちゃったり、最悪、殺されちゃう場合もあるんだって。
光済病院の窓辺にいたのは、そうしたはっきり見える幽霊で、先生は直感的に、物凄く危ない物だ、って思って、慌てて目を反らして逃げ帰ったって。
あそこね、実際に人が死んだり、何人も行方不明になってるんだって」
「…………本当だったんだ……」
石田がおもしろ可笑しく話していた廃病院のうわさ話だ。トモキは心配そうな顔でじっとヒロの顔を観察した。
「ヒロ君……、姿を見たって言ったよね?」
ヒロは、うっ、と青くなった。
「………見ちゃった…………。ま、まあ、はっきりと……じゃないけど、窓にそれっぽい影と、足音と、チラッとスカートの裾が見えただけだけど…………」
ヒロは心配になってトモキの顔を見返した。
「だ、だいじょうぶかなあ?俺?……」
「無事帰ってこられたんだから大丈夫だと思うけど……、月曜日に水神先生に視てもらったらいいよ。先生なら危険があるかどうか分かると思うよ」
「うん。そうするよ。土日は……大丈夫かな?」
「大丈夫……だと思うけど……、いっしょにいてあげようか?」
心配そうに顔を覗き込むようにするトモキを見て、ヒロはかえって、
「いや。」
と、手を出して断った。
「サオリちゃんと過ごすんだろう? 邪魔をしちゃあ悪い。大丈夫。なんか危なそうな気配があったら神社に逃げ込む! ……近くにあるのは寺だったなあ、寺でも大丈夫かな?」
「神聖な場所なら……いいんじゃないかなあ?」
「そっか。じゃあ緊急避難場所は近所のお寺ということで。よし、これでオッケー。心配ご無用」
ヒロはさも安心したように脳天気に笑ってみせた。トモキも笑顔を返し、
「もし何かあったら、遠慮しないで連絡してね?」
と言った。
トモキのアパートはヒロの最寄り駅から一つ離れた大学前駅近くの学生街にある。大した距離でもないので駐輪場の自転車は月曜まで置いておくことにして、電車で帰るトモキをヒロは駅まで送っていった。
駅の前に来ると下り列車から降りてきたサラリーマン、OLたちが駅ビルの階段を下ってぞろぞろ出てきた。改札はビルの2階にある。ビルに入っている書店と総菜屋はもう営業を終えていて、いかにも一日の終わりの帰りの駅という感じで寂しい限りだ。疲れて、中には酒臭さを振りまきながら、一様に暗くうつむき加減の一団をやり過ごし、「じゃあ」と微笑んで手を振るトモキをこちらも手を振って階段に送り、さて、とヒロもサラリーマンたちの背を追って灯りの少ない冷たい空気の帰り道を歩き出した。
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