ギソウサレタ・スパイ

 正面にあるカフェで遠野が注文の品を持ってテーブルへ向かうのを、道子は通りを挟んだ斜め向かいのビルの壁に寄りかかりながら、違法に改造された超小型マイクロ・ドローンのカメラを通して見ていた。昆虫に偽装させたドローンは道子の要望よりも大きく、大型のハエと熊蜂くまばちの中間くらいのサイズがある。


 自分の命が狙われているのを遠野がわかっていたとしても、まだそれが道子だとは気付かれていないはずである。それでも道子は慎重を期するため、勘づかれて遠野に逃げられないよう、まずは距離をとった間接的な接触を試みることにした。


 道子にとってスマートフォンの画面を見ながらの操作は難しく、事前に練習はしたものの思うようにドローンを飛ばせずにやきもきしていた。ただ、衝撃に対する耐久性には優れているようで、客や座席の仕切りに当たって幾度も墜落を繰り返しても何ら問題なく動いている。


「あらやだ、音が聞こえないじゃないの」


 やっとのことで遠野と九条亜紗美の座るテーブルまでドローンを飛ばした道子だったが、そこでイヤホンから全く音声が聞こえてこないことに気付き、人目もはばからずについ大きな声を出していた。


 道子はドローンの操作をほったらかして左耳のブルートゥース・イヤホンを手に取り、その電源とスマホの音量調節を確認したが特に問題はなかった。何度も墜落したせいで集音機能が壊れてしまったのだろうか。


 スマホでのドローン操作に戻った道子は、再び遠野の周りを飛びまわらせてみて音声が拾えるかを試してみた。


 しばらくしてこの数分間の骨折りと大枚が無駄になったとわかり、高いお金を払ったのに困ったものね、と道子は大きなため息をついた。


 遠野が完全に一人になるまで視界に入るのは避けるつもりでいたが、何かをぎまわっているらしい九条という娘との会話を、道子はどうしても聞き逃すわけにはいかなかった。もし遠野が余計なことを話して邪魔をされてはたまらない。


 スマホをバッグにしまいながら二人のいるカフェへと向かって歩き出した道子は、たとえ九条が決定的な証拠を掴んでいたとしても遠野をやった後で始末してしまえばいいのだと、それがさも当然かのように思いついてにんまりと顔をほころばせた。


「いらっしゃいませぇ。こんばんわぁ」


 入店するなり女性店員の明るい声が飛んできたのと、遠野と道子の目が合ったのはほぼ同時だった。次いで遠野が何事かを口にするのが見え、気づかれたかと道子は身を固くしたが、こちらに背中を向けている九条が振り返ることはなかった。


 カウンターで注文を済ませた道子は、遠野から見て右斜め前にある二人掛けの席へ彼らに背を向けて腰を下ろすと、スマホを取り出して操作し店内のどこかに転がっていたドローンを足元まで引き寄せた。


 遠野たちの会話に耳を傾けつつ、道子はドローンを床から拾い上げて集音マイクがどこにあるのか調べてみた。自分の目が悪くて見えないのか、それとも最初からそんなものはついていないのか、道子にマイクを見つけることはできなかった。


「エム・サイズのアイス・ラテでお待ちのお客さまぁ」


 注文した飲み物を取りに行こうと道子が席を立ち、うつむき加減でぼそぼそと歯切れ悪く喋る遠野のそばを通りすぎる。遠野の声は店内の様々な音に掻き消されてよく聞き取れなかったが、顔の見えない九条の声には苛立ちの色が混じっており、道子が懸念けねんするような核心を突いた会話はなされていないようだった。



 二時間ほど経つと遠野は九条を追いかけるかたちでカフェを出ていった。すかさず道子も席を立ち、見失わない程度に距離を取って二人のあとを追う。


 途切れ途切れに聞こえていた彼らの会話の内容は、核心を突くどころか入り口にかすりもしていない、道子にとってまるで心配する必要も聞く価値も無いくだらないものばかりだった。


 細い路地に入って二人が足を止めたのを見た道子は、街灯の光が当たっていない建物の陰にそっと身を寄せ、その成り行きに注意深く耳をそばだてた。


 すぐに九条らしき女性の怒声が聞こえ、充分な間を置いてから道子が様子をうかがおうと振り向くと、ちょうど遠野がそばを通りすぎて来た道を戻っていくところだった。


 何があったのかはわからないが、九条が消えて遠野ただ一人となった今、千載一遇ともいえる復讐の好機が巡ってきていると道子は確信した。遠野がいつも通る自宅のアパートまでのルートは調べがついている。


 道子はなるべく路地の暗がりを選ぶようにしながら、先ほどよりも距離をつめて、とぼとぼと歩く遠野のあとをけた。


 これから兇行きょうこうに及ぼうとしているのに頭は冷静で、それに反して心はついに復讐を遂げられるのだという異様なたかぶりを感じており、道子は思考と感情が攪拌かくはんされるような奇妙な感覚を味わっていた。


 遠野のアパート付近がもっとも人通りが少ないのを知っているため、それまでは我慢だと自分に言い聞かせていた道子だったが、角を曲がった裏路地で完全に人の往来が途絶えたことが引き金となった。


 道子はバッグからタオルを巻いた包丁を取り出し、一気に遠野との距離を縮めて声を掛けた。


「あの、もしもし」


 聞こえなかったのか、遠野は振り向きも足を止めもしない。


「もしもし、遠野護さん」


 ビクッと肩を震わせて遠野が歩みを止める。


 タオルを外した包丁を両手で低い位置に構えた道子は、遠野が振り返るタイミングに合わせ、倒れ込むようにして身体を前へ投げ出した。

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