アノヨイキ・インヴィテーション

 遠野は自分が刺されたということはわかったが、不思議と冷静にその現実を受け止めていた。遠野が冷たい刃先を感じたのはほんの一瞬のことで、刺された場所はまるで発熱する熱源を思わせ、そこから温かさが広がっていくような気さえした。


「なん……?」


 ひざが笑って遠野は言葉を続けることができない。どれだけ頭が冷静であっても、遠野の身体は刺されたことに対するショック反応を起こしつつあった。なぜかドラマのワン・シーンが脳裡をよぎり、遠野はとっさに自分の腹を刺している女の手を両手でつかんだ。


 顔面を白く塗りたくった女は穏やかな笑顔を浮かべて、驚きの表情を貼りつかせた遠野の顔をジッと見ていた。膝の震えは今や全身に伝わり、遠野は身体を小刻みに震わせている。口からは蒸気機関車のような荒い息が、一定の間隔を置いて吐き出され始めた。


「あらあら、情けない」


 女が一度その視線をうなずくように外し、再び遠野の顔を見るとそう言った。自分でも気づかぬうちに遠野は失禁していた。思うように身体に力が入らない。尿が遠野のスラックスを伝い落ちて、地面の血溜まりに混じる。


「わかるわよね?」


 女にそう言われても遠野には何のことか理解できない。まず、この状況を把握しようとすることだけで手一杯だったのだ。遠野は何を言葉にするべきかわからず、口を開いて女を見つめ返すことしかできなかった。


「封筒の中身は見てくれたわよね?」


 笑顔のまま女は静かな口調で言った。遠野はすぐに義久の無残な死に様が写った写真を思い浮かべた。


「あん、アンタが義……ヒッ!」


「彼ねぇ。あれじゃあ、いい男が台無しよねぇ」


 遠野は女の手にさらに力が加えられたような気がした。


「なん、で?」


「困ったわねぇ。わからないのかしら? 便箋びんせんは読んでくれてないの? 娘の、瑠璃の遺書」


 その言葉で一連の謎が繋がった気がした遠野は、信じられない思いに目を見開いて顔をこわばらせた。生温かかったスラックスはすでに冷たくなって、気持ちの悪い感触を遠野の肌に伝えている。


 何かがおかしいと遠野は思った。当時の報道ではたしか、遺書は見つからなかったと言っていたはずだ。だからこそ遠野は、瑠璃のことを忘れてこれまで安心して生きてくることができたのだ。しかし実際には遺書があったということは、この女が警察に公表する前に個人的に隠したに違いない。いつか今日のような日が来ることに備えて。


「大変だったのよぉ。あなたたちのことを調べるの」


 あなたたち? と遠野は女が複数形を使ったことであることを思い出した。遠野はいくつもの疑問を抱えていたが、その一つが便箋、つまりは瑠璃の遺書に並んでいた名前のことだった。


 遠野はあの遺書を見るまで、自分以外の人間が相原瑠璃をいじめていたことなど知らなかったのだ。だから最前、アサミに「ハヤシが言っていたあの事とは何か?」と訊かれても、遠野には何のことなのかサッパリわからなかった。


 しかし今になって思い返せば、同窓会で義久が言っていた『あの事』を知っている人物と、瑠璃の遺書に書かれていた名前は完全に一致していたことに遠野は気づいた。つまり、『あの事』とは瑠璃のいじめに関わっていたことであり、さらに義久はその全貌を知っていたことになる。


 そして今、おれは瑠璃の母親に殺されようとしている、と遠野は妙に冷めた気分で思った。


「あなたも見たならわかるでしょ?」


 女が喋るたびにその振動がナイフを伝って遠野に響く。と同時に、女のキツイ化粧の臭いが遠野の鼻先をかすめる。


「だって名前しか書かれていなかったのよ? 私はね、瑠璃がいじめられていたなんてちっとも気づかなかったの。情けなかったわ。母親として」


 おれはここで死ぬのか、とそんなことばかりが遠野の頭の中を駆け巡っていた。義久のようにおれも、と。


「それでね、どうしたと思う? 六堂りくどうさんを利用させてもらったの。最初にあの子の顔を潰してね、手術費用を出してあげたのよ。それから私が瑠璃の母親だって言ったらあの子、泣きながら必死で命乞いしてきたわ」


 六堂知恵。カズハになりすましていた女。そういえばカズハ、いや、知恵はどうしたんだっけ? と遠野はぼうっとしてきた頭で欠けている記憶を探り始めた。


「瑠璃がどんなことをされていたのか知りたいわって訊いたら、簡単に何でも教えてくれたのよ。それを聞いた時に感じた感情は、怒りなんて生やさしいものじゃなかったわ」


 再び女の手に力が入る。遠野はうめいてよだれをしたたらせた。


「それからね、わたしに少しだけ協力してくれたらお金をあげるわよって言ったら、喜んで協力するってあの子」


 何がおかしいのか女はそこで笑いを漏らした。


「だから殺さないでくれって、それはもう滑稽こっけいなほどだったのよ。だからわたしは言ってあげたの。『あら、あなたは心配しなくても大丈夫よ。大丈夫だから安心なさい』って」


 スラックスが自分の尿で濡れてしまったせいだけでなく、遠野は全身に走る寒気を確かに感じていた。


「もちろん嘘よ。あなたも六堂さんがどうなったのか、知ってるわよね? でもあの写真じゃ、六堂さんかどうかもわからなかったでしょうけど」


 まさか、あのぐちゃぐちゃの肉片がカズハ? 大量の赤身魚のすり身を思わせる、あんなものがあの美しかったカズハ? 遠野はショックとめまいで膝をつきそうになったが、どうにかこらえた。


「さ、さむい……」


 遠野の唇の色は紫色に変わってきている。その顔も完全に血の気が引いて豆腐のように白く、汗が次から次へと噴き出ては流れ落ちていく。


「知らないわよ。それより、整形した六堂さん、きれいだったでしょ? あなた好みの顔に仕上げてもらったのよ。あなたって男のくせにお喋りよねぇ。どんな女にでも訊かれるまま何だって話して」


「義久……カズ、ハ」


「だからもういないのよ、その二人は」


 聞き分けのない子を叱るように、女はピシャリと言った。


「本当はねぇ、六堂さんにあなたを殺してもらう予定だったのよ。でもあの子、あなたのことが好きだったからかしら、睡眠薬を飲ませることしかできなかったのよね」


 遠野は今にも意識が飛びそうだったが、なぜこの女が自分にこんな話をするのか、その真意を知るまでは死ねないと意志を固めていた。


「でもかえってよかったわ。こうしてあなたと話ができたんですもの」


「おれが、なんだって、いうん」


 息も絶え絶えに遠野が訊くと、女はさもおかしそうに高らかに笑ってから、さらに顔を近づけてこう言った。


「そりゃ話もしてみたくなるわよ。だって、あなた。あなたが瑠璃の子の最初で最後の父親なんですものッ!」


「トオノマモルッ!」


 聞こえてきたアサミの声に、遠野は少しだけ安心感を覚えた。たとえそれが空耳であってもかまわないと、遠野は薄れゆく意識の中でそう思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る