オドラサレル・キャスト
一度は駅まで行ったものの、やはり遠野の言った言葉が気になって、亜紗美はもときた道を引き返してきていた。しかし亜紗美が困ったことには、遠野を追おうにも彼がどの方向へ行ったのかがわからない。
横道や細い路地に入って、亜紗美は手当たり次第に歩き回った。三十分もそんなことを繰り返していただろうか、もう諦めて帰ろうとした亜紗美は、人通りのほとんど無い裏路地で遠野を見つけた。
「トオノマモルッ!」
亜紗美が呼びかけても、遠野は返事をするどころか見向きもしない。声をかけた次の瞬間、遠野に密着している女が亜紗美の方を振り返った。気まずい場面に出くわしてしまったかと亜紗美は勘違いした。
「あなたはだぁれ?」
遠野の真正面、亜紗美から見て左側に立つ女性がそう訊ねてきた。
「だぁれって」
そこで亜紗美は遠野の足下に広がる黒っぽい染みに気づき、これは遠野と中年女性の逢い引きの現場などというふざけたものではなく、もっと深刻でただならぬ状況であることを感じ取った。黒っぽい染みは街灯を反射して光っている。
「何? それって」
「血とおしっこよ」
女性と遠野の間で何かが光ったのを亜紗美は見た。
「アンタ、何を」
「この人、わたしに包丁で刺されてるの」
物騒なことを口にしているわりに、その女がやたらと落ち着き払っていることが亜紗美は怖かった。亜紗美は今にも逃げ出してしまいたい衝動に駆られたが、足に根が生えてしまったかのようになって、立ち尽くしたまま一歩も動くことができない。
「こいつが……」
遠野が絞り出すような声で何かを言ったが、最後の部分を亜紗美は聞き取ることができなかった。
「何て?」
「ケメ子、殺し、た」
「しぶといわねぇ。まだ喋れるの?」
この女がケメ子を殺した? 亜紗美は今聞いたばかりの遠野の言葉に耳を疑った。ケメ子が死んだ?
「一体何が、どういうこと? ケメ子が何で?」
「宇和ヶ亀さんのことね。あら、あなた。もしかしてあの子のお友達なの?」
ただの通り魔女ではないらしいことを、亜紗美は女の言葉から想像した。
「アンタ、誰なの」
「わたし? わたしはね、ミチコっていいます。アイハラミチコ」
アイハラ? 相原?
「娘のルリをね、たくさんかわいがってくれたらしいのよ。この人たち」
「相原瑠璃の母親、なの?」
すると、それまで穏やかだった女の顔が、聞き捨てならない言葉を聞いたかのように一瞬だけ険しくなった。
「瑠璃を知ってるのかしら? そうよね。大きくは報道されなかったけれど、新聞にだって載ったんですもの」
亜紗美は急いで考えをまとめようとしていた。
遠野の言葉を信じるのならば、ケメ子は殺されてしまったことになる。ミチコと名乗る相原瑠璃の母親によって。その瑠璃はずいぶん前に死んでいる。ということは、ミチコが言った「たくさんかわいがってくれた」というのは言葉通りの意味ではないだろう。さらに「この人たち」は一人は遠野、もう一人はケメ子を指しているように聞こえた。
「あのお嬢様には死んでもらったわ。当然よねぇ」
「何が当然なのよ。ケメ子が何したっていうの!」
「知らないのね。あなた」
亜紗美にとっては知らないことだらけだった。さっきまで一緒に話していた遠野が死にかけており、目の前の女はケメ子を殺したという。
「この男もあなたのお友達も、それからハヤシ君にリクドウさんも。みんなでよってたかって娘の瑠璃をいじめ殺したのよ」
遠野にケメ子、それからハヤシ。三人の名前を聞いて亜紗美はふと思い至った。ハヤシが言っていた『あの事』を知っているメンツと一緒だと。リクドウとはきっとチエという子のことだろうと亜紗美は考えた。つまり、『あの事』とは瑠璃いじめのことだったのだ。
「あなたのお友達が何をしたのか教えてあげましょうか?」
女の凍るような冷たい声に亜紗美は身震いした。
「最初のうちはね、冗談のようなものだったのよ」
まるで女は自分で見てきたかのような言い方をする。
「でもねぇ、それが次第にエスカレートしていったのよねぇ」
「変な言い掛かりを作ってね、自分に気があったハヤシ君を利用して暴力を振るわせたのよ。それにね、瑠璃が簡単にエッチなことをさせる女の子だって噂まで流したりしたのよ」
ケメ子との付き合いは中学三年になってからで、それ以前の彼女のことを亜紗美はまったく知らなかった。
「その噂に実際に飛びついたのがこの男。娘はレイプされたのよ」
亜紗美は話を聞いているうちに何だか気分が悪くなってきた。
「一度や二度じゃないのよ。ハヤシ君は何度も暴力を振るったし、この男も何度も娘を襲ったの」
亜紗美はミチコの話に耳を傾けながら、卒業アルバムにあった瑠璃の写真を思い浮かべた。
「娘はね、何ヶ月も我慢し続けていたのよ。わたしたちに相談することもできずに、ずっと独りっきりで悩んでいたのよ。瑠璃は……瑠璃は」
女は声を震わせて黙り、しばらく話し出さなかった。
「耐え切れずに死んでしまった」
「何で警察に届けな」
「行ったわよッ!」
「もちろん行ったわよ。何度もかけあった。でも……無力なものね。大きな力の前では一介の主婦にできることは何もなかった」
「大きな、力?」
女は
「あなたのお友達よ。父親の力を使って学校や警察に圧力をかけて、事件の揉み消しをはかったのよ」
ケメ子が父親に頼るなど亜紗美にとっては信じられない話だった。亜紗美はケメ子の口から、何度となく実家や父親に関する愚痴を聞かされてきたのだから。
「だから娘が死んだ時に妊娠していたって事実も、長いこと知ることができなかったのよ」
「そんなの、そんなの
「そうよ。だからこうして一人ずつ、わたしが制裁を加えてきたんじゃない」
「そうじゃないッ!」
口に出してはみたものの、亜紗美は自分が何に
「アンタさっきから娘、娘って言うけど、死んだ自分の娘が復讐なんて望んでいると本気で思ってるわけ?」
瑠璃に同情はするが、それとこれとは別ではないかと亜紗美の心は訴えかけていた。復讐をしてしまったら、結局は娘をいじめた連中がやっていたことと同じではないか、と。
「望んでないでしょうね」
ミチコは躊躇なくさらりと言ってのけた。
「それなら何でこんなこと」
「これはね、わたしの復讐なの。娘は関係無いわ。瑠璃がどう思っていようと、わたしがこのゴミどもを赦せなかったのよッ!」
ミチコの気迫に気圧されて亜紗美の身体は硬直した。
「あなたにはわからないでしょうよ。娘が、瑠璃が受けた痛みがどれほどのものだったかなんて」
言葉に合わせてミチコの腕に力が入り、刺さったままの包丁が遠野の内臓をさらに奥深くえぐったようで、遠野の口から
「アサミ、助け……呼んでき」
「そんな時間あるかしら」
ミチコが片手で器用に衣服をたくしあげると、胴回りに小さな四角い箱状のものがいくつも連なった、ベルトのようなものが姿を現した。
「これねぇ、プラスチック爆弾なの。もしあなたが逃げようとしたら、悪いけど、あなたにも一緒にバラバラになってもらうしかないわね」
熊橋猛の事件といい、目下のこの状況といい、いつから日本はこんなに物騒な国になったのだ、と亜紗美の頭は現実に対処しきれなくなりそうだった。
「でも、どっちにしろあなたにはわたしと死んでもらうわね、遠野君」
ミチコはバッグに片手を突っ込んだ。彼女の頭が一瞬だけ左斜め下を向いて前髪が垂れる。亜紗美はミチコが今、自分のことを見えていないと気づいた。この隙を逃すまいと、亜紗美は一息で二人の間合いへ飛び込んだ。
「こっ」
亜紗美は狙い通り一撃でミチコの鼻面を潰した。下から振り上げられた強烈な肘鉄をまともに食らったミチコは、のけぞるようにして後ろへ倒れた。包丁からミチコの手が離れ、支えを失った遠野がその場へくずおれて地面に膝をつく。
「遠野、逃げよう!」
「無理……爆弾」
遠野がわずかに腕を持ち上げて、倒れているミチコを指差した。亜紗美はハッとしてミチコのバッグを探る。ミチコは起爆スイッチを探していたに違いない。
「残念、だったわねぇ」
ミチコの声に亜紗美は飛び上がりそうになった。亜紗美の肘鉄は完璧に急所を捉えたはずで、ミチコに意識があるとは思ってもみなかったのだ。
「あなた、勘も冴えてるし、動きも素早いのねぇ」
余裕が感じられるミチコの口調に、亜紗美はこの上なく嫌な予感がした。
「惜しかったわねぇ」
ミチコが掲げた右手には、小さなリモコンが握られていた。亜紗美は人生最後の瞬間が訪れるのを覚悟した。遠野なんて探しにくるんじゃなかったと後悔し、爆死は嫌だと亜紗美は心の中で叫んだ。遠野護のウメボシヤローッ!
何か硬いものが地面を跳ねる音がしたかと思ったら、亜紗美は瞬時に光の洪水に飲み込まれていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます