シロヌリ・ビジター

 混雑している地下鉄六本木駅の日比谷線ホームで、道子はGPS端末の画面と目視でカズハの位置を確認していた。左耳にはめた小型の改造ブルートゥース・イヤホンからは、カズハと遠野の会話がしっかりと聞こえてきている。GPS端末をバッグにしまう。


 週末のせいかスーツ姿に交じって学生らしい男女の集団も多い。道子は自分にぶつかってくる人々の波にイチイチ律儀に謝っていた。それでも道子はカズハから視線を外すことはなく、イヤホンから聞こえてくる会話にも注意深く耳を傾けていた。


「わたし、カズハなんて名前じゃないよ。……チエ。きっと遠野君は覚えてないよね? それに顔も変わっちゃってるから」


 カズハの本名は六堂りくどう知恵ちえ。道子は言葉巧みにたけるを知恵に接近させた。いや、猛が道子の言いなりになったのは、金が目当てだったに違いない。借金にまみれていた猛は、道子が金をチラつかせただけで何でもやった。猛が知恵と親しい仲になった頃合いを見計らい、道子は知恵の顔をメチャクチャに傷つけるよう猛に指示を出した。


 今度は顔を潰されて精神的なショックを受け、人格が崩壊しかかっていた知恵に道子は近づいた。条件通りに整形手術を受けるのなら、その手術費用を道子が出すうえに、猛に対しても復讐をしてやろうという話を持ちかけたのだ。こうして六堂知恵は道子の思惑通りに、遠野まもるの好みの女性をほぼ完璧にコピーしたカズハとして生まれ変わった。


 ただ一つ、道子が懸念していたことが、今まさに目の前で行われようとしていた。


「もう謝っても遅いよね。ケメ子や義久のことも。それから、瑠璃のことも」


 謝るくらいなら初めからやらないことね、と道子は冷めた気持ちで考えていた。連中が娘の瑠璃にしたことをゆるす気など道子には無い。もちろん連中自身も。


「間もなく、一番線ホームに中目黒方面行きの快速電車がまいり――」


 アナウンスが聞こえてきたのをきっかけに、溢れ返る人ごみを縫いながら、道子はカズハのところへ向かってゆっくりと歩き出した。地下の空間に列車が遠くから疾走してくる轟音が響き渡る。この後に起こる事態を考えて道子はイヤホンを外した。


「あの、それでね、遠野君」


 カズハの背後を通り過ぎざま、道子はひじで彼女の背中を突いた。


「わたし」


 ハイ・ヒールのカズハは簡単にバランスを崩し、よろけるようにして一歩二歩と前へ出た。カズハが三歩目を出して線路へ落ちる前に、快速電車の先頭車輌が風を切る通過音とともに、彼女の華奢きゃしゃな身体をさらっていった。電車が急ブレーキをかける鋭い金属音と、あちこちから上がった群衆の悲鳴が、地下鉄駅を満たすよどんだ空気を引き裂いた。



 翌日、道子は遠野が搬送された都内にある病院の受付前に立っていた。


「ごめんください。あのね、昨日の夜なんだけど、こちらにね、息子が運ばれてきたってお電話を頂きましてね」


「はぁ。お名前よろしいですか?」


 相手は道子の白塗りの顔に驚いたようで、目を見開きながらも業務規則に従った対応を続けた。


「遠野護です」


 受付の女性看護師がうつむいて書類に目を通す。とおの、とおのと呟きながら紙をめくっている。


「ありました。遠野護さんですね。昨晩の十時四十分頃に急患で運ばれてきてます」


「何号室でしょうか?」


「えぇっと、二一六号……あ、移動して三〇三号室ですね」


「息子の顔を見たいんですけど」


「遠野さんの容態は」


 看護師がパソコンの画面を見ながらマウスを操作する。


「まだお目覚めにはなってないようです。強力な睡眠薬を飲んだだけのようなので、命に別状は――あの」


 道子はすでにエレベーターへ向かって一直線に歩き始めていた。カズハは道子が渡した薬品を使用しなかったらしい。カズハがこういった行動に出るであろうことも、道子はなかば想定していたのだ。金よりも情が勝ったわけね、と道子はカズハの心情を想像した。


 病院独特の消毒臭と老人臭がただよう廊下を、三〇三号室目指して道子は歩く。感覚が鋭敏な者ならば、見舞い客とは異なるオーラを道子が発しているのに気付いたかもしれない。


 道子は三〇三号室のドアをノックして横に引いた。片側に三つずつベッドが置かれた広めの病室だ。右側のベッドには奥と手前に一人ずつ患者がおり、左側は奥のベッドだけが埋まっていた。道子は左奥のベッドへと足を向ける。


「お見舞いに来たわよ」


 ベッドの上の遠野はかすかな寝息を立てて眠っている。遠野の顔をしばしジッと見つめた道子は、それからバッグを開けて茶封筒を取り出した。


「起きたら読んで頂戴ね」


 サイド・ボードに封筒を置いて道子は病室を出た。

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