モウシン・スーツ

  いみじくも よもや気高き マグロ漁船


 語感だけで思い浮かべた俳句を、我ながら悪くないじゃないか、と恥ずかしげもなく遠野とおのは自賛した。季語や枕詞まくらことばは「マグロ漁船」でいいだろうと彼は考えた。

 

 遠野は季語や枕詞がどういったものかなど知らないし、どうだってかまわないとさえ思っている。尾崎放哉ほうさいだって自由律俳句などという、よくわからないものを作っていたではないか。彼の作品である「墓の裏に廻る」とか「咳をしても一人」とかが良い例だ。


「あさみぃぃぃ!」


 甲高い声が聞こえてきて、遠野はそちらを見やった。つい十分ほど前に遠野のいるカフェに入ってきた女性たちだ。キャッシャーの近くに座っている遠野からは離れた、窓際の席に彼女たちは陣取っている。さっきから同じ調子で片方の女性がわめいていた。


 ゴスロリと言うのだろうか。遠野にはよくわからない不可思議な格好をその女性はしていた。アサミと呼ばれた方の女性は、遠野からは後姿しか見えないものの、春らしい色使いのワンピースを着ており、少しだけ明るめに染めた長い髪に似合っている。


 遠野は彼女たちから目を離し、冷めつつあるアメリカン・コーヒーに口をつけた。彼が耳にあて続けている携帯電話からは誰の声も聞こえてきてはいない。こうしていれば仕事ができる商社マンか何かだと、周りの人間が勝手に思い込んでくれる。遠野にはそんな風に盲信しているふしがあった。


「酷いことされたんだからぁぁぁ!」


 再び聞こえてきた耳障りな声の方を遠野が睨みつけると、ちょうど振り返った長い髪の女性と目が合った。目鼻立ちがハッキリしていて、どちらかというと美人と呼ばれる類の女性だ。


 遠野は急激に、中学時代にもアサミという名の同級生がいたことを思い出していた。もう十年くらい前のことなのであまりよく覚えてはいないが、彼女も整った顔立ちをしていたはずで、クラスの男子の間ではかなりの人気があったのだ。


 それからもう一人、と遠野は思い出す。その同級生のアサミに腰巾着のように付きまとっていたうるさい女がいたのだ。名前も顔も思い出せないが、サバサバした性格のアサミとは違って、その女はぶりっ子をよそおってみんなから好かれようとする、遠野の嫌いなタイプの女だった。それでも二人はずいぶん仲が良かったようで、遠野はそんな二人の関係をいつも不思議に思っていたものだった。


 いつの間にか静かになった窓際の席へ遠野が目を向けると、アサミと呼ばれた方の女性がドアを開けて外へ出て行くところだった。うるさかったゴスロリ女は、今や下を向いてしまっている。友人に愛想を尽かされたのかもしれない。


「ありがとうございましたぁ。またお越し下さいませぇ」


 女性店員から滑舌の良いかわいらしい声が飛ばされる。この時間帯は暇なのだろう。カウンターの向こうには二人の女性店員しかいない。


「いらっしゃいませぇ。こんにちわぁ」


 店に入ってきたのは、まるで白粉おしろいを塗りたくったような不自然に白い顔をした、五十代半ばくらいの中年女性だった。


「あのね、バックス・ちょうだい。バックス・


 カウンターに直行するなり、その中年女性は勢いよくそんな注文をした。やり取りが聞こえてくる位置にいる遠野は、必死で笑いをこらえつつ、「テラ」ってこのおばさん、一兆杯も何を頼む気なんだ、と心でツッコんでいた。


「お客様、申し訳ございませんが、当店ではバックス・ラテは取り扱っておりませんので……」


 困惑ぎみの女性店員が丁重かつ自然に訂正を加えた。


「え? おたく、スター・バックスでしょ?」


「いえ、お客様。当店はスター・バックスではなくてですね……」


「えぇ? 違うの? じゃあこのポイント・カードも使えないの?」


「申し訳ございませんが……」


「じゃあいいわ。普通のやつちょうだい。普通のテラ。甘ぁいのね。甘ぁいの」


 中年女性の言った「普通のテラ」が「普通の寺」に聞こえた遠野は、京都にでも行けばいいじゃないか、と再び心の中で皮肉を言っていた。


 冷めきったアメリカンを飲み干して遠野は立ち上がった。店を出る時に何気なくゴスロリ女を見ると、顔を窓の外に向けて電話をしていた。



 遠野はすぐ家には帰らず、小田急線に乗って新宿の街へ出た。南口の改札前は時間帯に関係なく、多くの人々でうじゃうじゃとひしめき合っていた。それとなく獲物を探しつつ、遠野はフラッグス・ビル前の広場を目指してゆっくりと雑踏の中を歩く。


 スーツは着ているものの、遠野はこれといった定職に就いているわけではなかった。だからといって、就職活動中でもスーツ愛好家でもない。遠野がスーツを身に付けるのは獲物をあざむくためである。


 大学に通っていたころの遠野は、昔で言えばヒッピー崩れのような、汚らしい格好で動き回っていた。しかし大学四年にもなると、友人たちはみなこぞってスーツを着るようになっていった。就職活動のためである。


 遠野はその時になって、やっと自分の格好を客観的に見るようになったのだ。それを意識しだしてからというもの、彼は街を歩くたびに自分が周囲の人々にどんな印象を与えているのかが気になってきた。


 浮いた格好の遠野に対する他人の目は、好ましくない好奇心や関わりを避けようとする想いで満ちていた。ある者は顔をしかめ、ある者は視線をそらす。


 ところが、遠野が試しにスーツを着てみると、彼を取り巻く周囲の態度がガラッと変わった気がしたのだ。繁華街を歩いても誰一人として遠野に注目する人物はいなかった。彼はスーツが個を没させ、周りの景色に自然と溶け込ませることを学習した。


 スーツの利点はもう一つある。他人に余計な警戒心を与えずに済むので、遠野が獲物とする若い女性に接近しやすいのだ。遠野の場合、こちらから声をかけなくても、相手から近づいてくることが多々あった。ヒッピー崩れの時とは違い、身なりを整えた遠野はそれなりに男前の顔でもあるので、本人が思う以上にモテていた。


「あの、ちょっとすいません」


 早速きたか、と遠野は足を止めて背後を振り返った。


「あ、ごめんなさい。えっと」


「なんでしょう?」


 声をかけてきた女性を見て遠野は目をみはった。ショート・カットの髪はアッシュ系の落ち着いた明るさをしており、アイ・ラインを強調しすぎてはいないのに目は大きく、グロスを塗っているらしい唇は健康的な桜色で、全体的に抑えたメイクでかわいらしい印象のその女性は、遠野の好きなタイプのド真ん中だった。


「あの、ほんとごめんなさい。なんてゆーか、その、人違い……しちゃったみたいで」


「あぁ、そうでしたか。別にかまいませんよ」


 そう言いながら遠野はこの最高の獲物を逃すまいと、次に打つ手を慎重に考え始めていた。


「なんだか、その……昔好きだった彼氏に似てた気がして。って、何言ってんだろ、わたし。ごめんなさい、あの、お仕事中ですよね? すいません、なんか引き止めちゃって。わたし、もう行きますね」


「僕なら大丈夫ですよ。今日はもう仕事終わったんで、あとは買い物でもして帰ろうかな、って思っていたところですから」


「そう、なんですか?」


「よかったらその昔の彼氏さんの話、僕に聞かせてくれませんか? 自分に似ているって人がどんな感じだったのか、やっぱり気になるじゃないですか。気になりません? もしあなたが僕の立場だったら」


 あまり上手い手とは思えないが、柄にもなく緊張していた遠野にはこれで精一杯だった。


「あ、でも話したくないならいいんです。無理にとはいいません」


「そんなことはないんですけど……」


「それに正直に言うと、いや、失礼かな」


「なんです?」


 少々強引かとは思いながらも、遠野は言ってしまうことにした。


「あなたみたいなかわいい人とちょっとでも話せないかなって」



 一週間と四日後──。


 遠野が新百合ヶ丘のアパートに帰ってきた時には、日付が変わるまであと三十分というところだった。一週間以上前に人違いをしてきた女性、カズハと食事をしてきた帰りだ。まだ親密な関係には到っていない。今回は焦らずにいこう、と遠野は決めていた。


 六畳一間の部屋に入るなり遠野はテレビをつけた。すでにクセとなっている。彼はいついかなる時でも、とにかく部屋に帰ってきたらまずテレビをつけるのだ。


「とのことです。警察は、死亡したクマハシタケルさんがテロ組織と何らかの関わりがあったのではないかと見て、タケルさんの交友関係や最近の行動を探るとともに、タケルさんが事件に巻き込まれた可能性も捨てきれないとし──」


 テレビから知っている名前が聞こえてきたことに驚き、スーツを脱ごうとしていた遠野は手を止めて画面に向き直った。画面に出ている「熊橋くまはし たける(25)会社員」というテロップを見て、それが間違いなく高校時代の同級生である猛だと確信した。熊橋という名字は珍しく、遠野の通っていた高校には猛ひとりしかいなかったのだ。


「テロ? 猛が?」


 画面に向かって独り言を呟き、名前の前に「死亡」と出ていることに気付いた遠野は、ますますどういうことなのかと混乱した。


「なんだよ。はぁ? 意味わかんねぇよっ!」


 テレビに向かって悪態を吐く遠野に答える者はいなかった。

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