第1章 依頼
仕事の依頼を受けたのは1週間前。
クライアントに初めて会ったのは、下町のファミリーレストランだった。
「すみません。こんなところまで来てもらって」
僕より10歳以上年上のくたびれたサラリーマンは、僕にホットコーヒーをすすめてきた。飲み物ぐらい、自分で注文したかったのだが。人の好い僕にはクライアントであるサラリーマンの好意を断ることができなかった。
「都会育ちのハリーさんには、ここはド田舎でしょうね」
下町の有名な地蔵というより観光地の大仏に似ているサラリーマンは、口元だけをちょっと上げると、ズズズと音を立ててコーヒーを飲んだ。
下町が田舎なんじゃない。あなたが田舎モンなんだ。
と、言いたいのをぐっとこらえて、僕は、話を切り出した。
「早速ですが、奥様のことで、ご相談があると・・・」
サラリーマンは、静かにカップを置いた。そして、カップのふちを何度もなでながら
「ええ。そうなんです。相談したいんです。家内のことで」
と小さな声で答えた。
「家内は、私に内緒で、ホストクラブっていうんですか?男がたくさんいるキャバクラみたいなところへ通っているんですよ」
サラリーマンの表現力のなさに内心がっかりしたが、僕は顔にそれを出さないように努めた。
「それは浮気、いや、不倫ですね」
「家内のこと、ふしだらな女だって言うんですか!」
突然、サラリーマンが大きな声で僕をしかりつけ、睨んだ。驚いた僕は、とっさに自分の身を守るため、テーブルに肘をついた。そのとき、何か、スイッチのようなものにぶつかった。
「いてっ」
思わず声を上げてしまった。
「まぁ、世間は、そう、思いますよね・・・」
サラリーマンは再び、小さな声でつぶやくと、カップのふちをなでた。
「そりゃ、私は仕事仕事で、ここ数年は家族を旅行に連れて行ったこともありませんよ。家内は、そんな私を理解してくれていると思っていました。なのに・・・」
サラリーマンは顔をぐしゃぐしゃにしたかと思うと、急に下を向き、声を押し殺して泣き始めた。
「お待たせしましたぁ!ご注文どうぞぉ!」
女性店員が最高の笑顔で僕たち二人のそばに現れた。
サラリーマンの様子を見ると急に、非常事態の表情に変わり
「お客様っ!どうかなさいましたか?」
店員は、隣の客に聞こえるくらいの声でサラリーマンに声をかけた。
「おしぼりと、お水!お願いしますっ!」
僕は、サラリーマンの泣き顔を両手で制した。女性店員は怪訝そうな顔で
「おしぼり、お持ちしま~す。お水はドリンクバーから、ご自由にどうぞぉ」
何度もこちらを見ながら気だるそうに話すと、女性店員はお辞儀もせずに、その場を離れた。
どうも僕は、肘で店員の呼び出しボタンを押してしまったらしい。
「すみません。ハリーさん。みっともないところ見せちゃって」
サラリーマンは、カバンからクシャクシャのハンカチを出すと、かき回すようにグルグルと顔をふいた。たとえクライアントとはいえ、動物園のカバみたいな泣き顔のサラリーマンに、とっておきのハンカチを渡す気には、なれない。
「私のお願いは!」
サラリーマンは、カップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
「家内と付き合っている男が、私よりハンサムかどうかを調べてほしいんです!」
は、ハンサム?イケメンじゃないのか?
「私より、いい男と付き合っているっていうなら、私は家内の幸せのために離婚しますよ。でも、もし、私よりかっこ悪い男と付き合ってるなら、その時は―――」
サラリーマンは、歌舞伎俳優みたいに、僕の前で、にらみをきかせた。
「そんなこと、ないか。私よりダメな男はいませんからね」
サラリーマンはそう言って力なく、笑った。その顔は自分自身を笑っているかのようだった。
「ハリーさん!お願いしますっ!」
サラリーマンは突然、僕の両手を力いっぱい握った。
「家内の相手がハンサムかどうか!調べてくださいっ!」
僕は目を大きくして驚くことしかできなかった。
先ほどの女性店員がおしぼりを持って現れた。
「ハリーさん!僕には、今、あなたしか、いないんですっ!」
「あの・・・、えーっとですね・・・。やめてください。こんなところで」
女性店員は僕と目が合うと、コクリとうなずき、音を立てずにおしぼりを置いた。そして、僕を軽蔑したように見て、クスッと笑った。
この日、僕は自分に誓いを立てた。
ネットで仕事の依頼を受けるのをやめよう。今まで通り、友人知人の依頼を受けていこう、と。
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