デッドエンド・ラブストーリー

伊那

第1話 彼らは惹かれ合う

 フランボワーズのような血の水たまりを見つめ、どうしてこんなことになってしまったのかをしばらく考えていた。

 幼馴染だった女の腹に包丁が深々と突き刺さっている。肉をえぐるような傷口が痛々しくて恐ろしくて、俺は猫の身体のように丸くなった。誰がこんなことをしたのか、いや、自分がしたのだ、現実逃避をしてはいけない。自分は現実を受け入れなくてはいけない。

 俺は走り出した。脚が恐怖のため震えてうまく走れなくても懸命に走った。この数日で色んなことが起きた。俺のせいで人が死んだ。三人も死んだ、俺が殺した。逃げなくてはいけない。許されないことをする、でも許して欲しい。


 鼻の数センチ先を枯れ葉が風に流され過ぎていった。風が冷たい。視界にちらりと映る鼻先は桃色に染まっている。耳も冷たくて若干の痛みを生じる。

 辺りを見回すと、誰も手入れをしていない蜘蛛の巣だらけの公衆便所があるし、妙に黒光りする石で作られた慰霊碑、あとは悩み相談の看板が建てられ、より一層ここの負の雰囲気を醸し出していた。

 俺は看板に近付いた。〈悩む前に相談して下さい。あなたの味方になります〉即ち、ここで自殺をするなと言いたいわけだ。この橋は妙に自殺志願者が多く訪れる。覚悟は決めていた。これしか方法がなかった。周囲に人が居ないかをよく確認した後、橋のフェンスに手を掛けてフェンスから身を乗り出した。そのとき、背後から声を掛けられた。

「やめてください」

 驚いて瞬時に振り返り、声の主と対峙する。隣街の高校の制服を着た少女だった。目に一杯涙を浮かべ、頬を赤くし、息を荒げてその小さな身体全身で抗議するように俺を睨み付けている。年下の少女とはいえ、ここまで感情をぶつけられると妙に迫力があって思わずたじろいだ。

「ごめんなさい。でも、止められずにはいられなくて。何かあったのですか?」

 少女は俺の顔を見ると途端に申し訳なさそうな顔をする。

 俺は少女を改めてじっくりと観察をした。美しいがまだ幼さの残った顔で、大きい目が印象的だ。もう少し成長すれば女優にだってなれるかもしれない。長い黒髪が綺麗に手入れされ、北風にさらさらと流されていた。少女はブラウスとネクタイだけでブレザーを着ていなかった。寒そうにしていたので俺は羽織っていたジャケットを脱ぎ、少女に手渡した。

「ありがとうございます。助かります」

 少女は少し頭を下げ、嬉しそうにジャケットに袖を通した。その様子が可愛らしくて自然と頬が緩んだ。自殺する前に人助けができたと思うと、たまらなく嬉しかった。

「人を殺した」

「え?」

「自殺の理由だ」

 少女にそう答えたが、言ってから後悔した。こんな穢れを知らぬような少女に自分の犯した罪なんて話すべきではない。しかし少女は驚いた様子を見せなかった。

「何があったか聞かせて貰えますか?」

 静かに頷いた。自殺をする前に誰かと話したい気分だった。もう少しこの少女と一緒に居たかった。俺は話し始めた。瞼を閉じると全てが蘇ってくる。


 俺は幼馴染が二人居た。一人は男、もう一人は女。男の方は名をT、女はYとしておこう。

 俺たちは生まれたときからずっと一緒で、兄弟同然だった。しかし中学生になる頃にはいつの間にかTとYが付き合い始めていた。このとき少し複雑な気もしたが、二人のことが大事だったので祝福した。俺にはそうするしかできなかった。

 それからは何となく気まずくて二人と距離ができていたが、ある事件があってから再び三人で一緒に居ることになった。Tが学校の帰り道に高校生の不良集団に絡まれ、カツアゲされそうになったのだ。

 たまたまその現場に通りかかった俺はTを庇って不良集団に食ってかかった。当時中学生だった俺たちにとって高校生はでかくて恐ろしいものだったが、Tのために俺は持っていた竹刀で奴らに殴りかかった。俺は剣道部だった。でも相手は俺よりはるかに体格がよく、人数も多かった。結局敵うことはなく、ボコボコに殴られた。だがTを逃がすことに成功した。Tが無事ならそれでいい、そう思いながらそのとき俺は気絶した。

 目を覚ますと病院で、右目に違和感があった。失明してしまったらしい。Tは泣きながら俺に何度も謝った。そのときのTの様子を今でも忘れることができない。床に何度も頭をぶつけて謝罪し、さらに自分の右目を潰そうとさえした。俺はTが無事だったから自分の右目なんてどうでもよかった。それから俺たちは三人に戻った。また三人の楽しくて幸せな日々が数年間続いた。だけど、数日前に全てが終わった。俺がやってしまった。

 ここまで話した後、俺は酷い吐き気に襲われて口を閉じた。

「大丈夫ですか?」

 少女が俺の肩をさすってきた。少女の触れた場所が不思議と温かくなり、少し気分が軽くなった。

「大丈夫。ありがとう」

 俺は続きを話し始めた。


 あの日はTの誕生日だった。誕生日パーティーをすることになり、俺の部屋で俺とYはTに内緒で色々と計画を立てていた。ケーキを用意し、プレゼントを用意し、Tの好物を一通り揃えた。しかしYが、クラッカーが欲しいと言い出した。俺は別にどちらでもよかったが、Yがそう言うなら用意してもいいと言った。それでYはクラッカーを買いに出かけた。

 その間俺は色々とパーティーに向けて準備をしていたが、Yが一向に帰ってこない。俺はYに電話を掛けたが、繋がらなかった。そこでおかしいと思ってYを探しに家を出たが、Yはなかなか見つからなかった。そしてようやくYを見つけたときにはもう既に手遅れだった。Yは人が滅多に通らない暗い道で男に強姦されていた。

 頭に血が上ったというより、全身が発火しそうなぐらい体温が上昇した。道に落ちていた大きめの石を拾うと、男の頭めがけて思い切り振り下ろした。このとき既に男は死んでいたようだが、俺は許せなくて何度も何度も石で殴りつけ、頭蓋骨が砕けるまでやめなかった。

 我に返ったとき自分の行為を酷く後悔するとともに、人殺しをしたという事実に怯えた。俺とYは無言で俺の家に帰った。そこにはTが待っていた。血だらけの俺と放心状態のYを見て、Tは何があったのかと俺を問い詰めてきた。震える声で事情を話し、今から自首をすると告げた。すると意外なことにTはそれに反対した。

 自分が何とかする、だから信じて待っていればいい、そんなあいつの言葉がどんなに頼もしく聞こえたことか。俺はTを信じることにした。

 次の日、Tが死んだとYから聞いた。俺の罪を被って首吊り自殺をしたのだ。ポストに遺書と思われる手紙が入っていた。

『何も相談せずに自殺することをどうか許して欲しい。右目の償いがしたかった。お前には剣道を続けて欲しかった。お前はすごい選手になれるはずだった。Yのことをどうか頼む』

 手紙にはそれしか書かれていなかったが、何度も消しゴムで文字を消した跡があった。涙をぼろぼろと流しながら繰り返し手紙を読んだ。Tの死を無駄にすることはできない、俺は罪を胸に秘めて生きていくことにした。

 だが、Yはそれを許さなかった。Tが死んだのは俺のせいだと言い、俺はYに散々殴られた。それはそうだろう、俺があのとき勢い余って人殺しなんてしなければきっとこんなことにはならなかった。Tの言葉を信じて任せなければあいつは自殺なんてしなかった。俺が一人で自首すればよかっただけなのだ。

 Yの怒りは収まることなく、しまいには包丁で俺を殺そうとしてきた。普段優しくておとなしいYからは想像できない鬼の形相だった。それぐらいYはTのことを愛していたのだ。それが痛いほど伝わってきたが、ここで俺が殺されたらTの死が無駄になってしまう。それだけは避けたかった。俺はYに必死で抵抗した。そして激しい揉み合いになった結果、誤って俺がYを刺し殺すという最悪の結末に至った。


 話終えた後、少女は暫く何も言わなかった。こちらから話しかけたかったが、少女は迂闊に手で触れたら崩れてしまう繊細なガラス細工のようでそれは憚られた。

「私の名はメイっていいます。あなたは?」

 少女は沈黙を破ったかと思うと、突然名を名乗り出した。

「俺はアサトだ」

「そうですか、アサトさんですね。良いお名前。アサトさん、お願いがあります。私の話を聞いてもらえますか?」

 彼女は特に俺の話の感想は言わず、自分の話を始めた。黙って聞くことにした。


 私は小さい頃からよくいじめられる子でした。嫌なことをされても強く反抗できなくて、あまり決断するということが得意じゃなくて、周りからじれったく思われていたのでしょう。

 例えば学校で委員会や掃除を決めるときがあるじゃないですか、そんなことですら決めるのが苦手で結局最後まで残っているやつにされて、自分が悪いのに一人で泣いていました。小中学校では私のそんな性格を疎む人がいて、軽いいじめを受けました。

 とはいえ殴られるといったような過激なものではなく、私に決断を委ねてからかったり筆箱を隠されて困っている私を見て楽しんだりする程度のものでした。私は自分が決断力を欠いていることを知っていましたし、これぐらいのことをされても仕方がないと思っていました。むしろ完全に無視されて嫌われてしまうことが怖かったですから、皆に構って貰えて嬉しいと思っていました。

 しかし問題は高校生になってからです。高校生になっても私の決断力の無さは相変わらずでしたが、そんな私の欠点を可愛いと勘違いした人が居ました。名はN君といって、その人は整った顔立ちをしていましたから女子にかなり人気でした。N君は当時付き合っていた彼女を振って、私に強烈なアプローチをしてきました。本当に迷惑なものです。彼に悪気があったわけではありませんが、私は彼を許せません。

 それがきっかけでN君に振られた元彼女のHが私をいじめてきました。男を取られただの、男をたくさん誘惑しているだの、裏ではやりまくっているだの、そんな全く根拠のないことを周りに吹き込んで自分の手は汚さずに私を追い詰めてきました。私物を隠されるところから始まり、集団シカト、さらにエスカレートすると暴力までもが加わってきました。顔に痣ができるといじめが発覚する可能性があるからといって、服で隠れるところだけ暴行を加えるという徹底ぶりです。水が一杯入ったバケツの中に、顔を押し込められたこともありました。それ以上に酷いこともされましたが、思い出したくないのでここらへんでやめておきます。

 とにかく私は地獄のような日々を送っていました。不登校にならなかったのは、不登校になったら私の妹に手を出すと脅されていたからです。私の可愛い妹に何かあってはいけませんから、私は歯を食い縛って毎日律儀に学校へ向かいました。

 そんな地獄のような日々がしばらく続きましたが、ある日私の救世主が現れました。同じクラスのRちゃんです。たまたま私がいじめられているところをRちゃんが見つけ、助け出してくれたのです。Rちゃんはクラスで孤立している子でしたが意志が強く、いつも堂々としていて存在感がある子でした。私とは違って身長も高く、格闘技を習っていたのでとても強いのです。私に暴力を奮っていた女子たちはRちゃんに歯が立たず、親玉のHと一緒に逃げていきました。

 それから私はRちゃんとずっと一緒に居ることになりました。そうするとHたちは私をいじめることができません。私たちは学生らしい楽しい日々を送りました。私とRちゃんは本当に良い友達になりました。Rちゃんは勉強が苦手でしたから私が教え、運動が苦手な私はRちゃんにもういじめられないようにと護身術を教わりました。毎日登校も下校も一緒にして、本当にあのときは楽しかったです。

 しかし、しばらくして悲劇が起こりました。あの日は下校中にRちゃんが忘れ物をしたといって学校に少しの間戻っていたのですが、Hは私とRちゃんが離れたその瞬間を見逃しませんでした。

 私は女子たちに引き摺られ、人気のない路地裏に連れ込まれました。いきなりでRちゃんから教わった護身術を披露する余裕もありません。そこで全裸になるようにと脅され、私が戸惑っていると思いきりお腹を殴られました。私は怖くて服を全部脱ぎましたが、その瞬間にスマホで写真を撮られてしまいました。さらに私のポケットに入っていた自宅の鍵も取り上げられました。その後すぐに服を着るようにと急かされました。

 それからHは私に白い粉薬を手渡してきて、Rちゃんに飲ませるよう指示してきました。前から自分たちのやることを妨害されていたらしく、HたちはRちゃんを恨んでいたようです。その薬が危ないものだということはすぐに悟りました。私は嫌だと反抗しました。それが初めての反抗でした。Rちゃんに危害が加わることは許せません。

 するとHは私の首を強く絞め、恐ろしい声で言いました。お前の全裸の写真を流してやる、お前の妹がどうなってもいいのか、と。そして、無事Rちゃんにその薬を飲ませることができたら二度といじめないと約束しよう、と続けました。私は怖くて頷くことしかできません。

 そのうちにRちゃんが学校から忘れ物を取ってきて私を探し始めたので、私はHたちに解放されました。Rちゃんは路地裏から出てきた私を不審がりましたが、猫が居たのだと嘘をつきました。

 私たちはよく公園に寄ってから帰ります。その日もRちゃんの護身術講座をしてから帰る予定だったので、私は飲み物を買ってくると言ってRちゃんを公園に残し、自販機に向かいました。いつもお世話になっているから今日は奢らせて欲しいと、そんなようなことを言った気がします。

 私はRちゃんのために買ったオレンジジュースを開封し、白い粉薬を液体に沈めました。このときの私の気持ちは、言葉にできません。思い出せません。Rちゃんを裏切ることがどれだけ辛かったか。私の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていたことでしょう。

 私は落ち着いてからRちゃんのところに向かいました。Rちゃんにどうしたのかと聞かれましたが、私は転んだだけだと答えました。Rちゃんは不思議そうに私を見つめていましたが、渡したオレンジジュースを怪しむことなく飲みました。あのとき私がオレンジジュースを弾き飛ばしていたら、と今でも思います。

 しばらく私たちは護身術の練習をしていましたが、Rちゃんの様子がだんだんおかしくなってきました。とうとうRちゃんは地面に倒れ、動かなくなりました。私は何度も呼び掛けましたが、全く反応してくれません。

 Hたちがどこからか出てきて、私を褒め称えました。よくやった、これでお前を許してやる、もう帰っていい、お前も同罪だ、そんなことを言われました。自宅の鍵も投げつけられて返されました。

 Rちゃんは女子たちに抱えられ、公園の脇に止まった黒いワンボックスカーまで運ばれました。ワンボックスカーには頭の悪そうな男たちが乗っていました。Hたちが悪い男と知り合いなのは噂で知っていましたが、まさかそいつらを使ってくるとは思ってもいませんでした。今思うと怪しい粉薬もそいつらから入手したものに違いありません。Rちゃんが乗せられたワンボックスカーは私の目の前を走り去っていきましたが、私には追い掛ける勇気も気力も残されていませんでした。

 Rちゃんはその後不登校になり、自殺しました。彼女は私に手紙を残していました。手紙は短いものでした。

『守ってあげられなくてゴメン。私はメイを許す』

 Rちゃんは私が薬を盛ったことに気付いていました。

 だけど、私を許してくれるというのです。いじめから守ってあげた私に裏切られるなんて、とても理不尽に思ったはずなのに、そんな罪深い私を許してくれるというのです。声を上げて泣きました。

 あれから私の記憶はすっぽりと抜け落ちています。気付いたら血だらけのHを見下ろしていました。私の手には血が滴り落ちている包丁が握られていました。きっと私が殺したのでしょう。冷静でした。

 今まで敵わなかったHをどうやって殺したかは想像できませんが、とにかく私は嬉しくて泣きました。Rちゃんの死の原因を作った奴を殺したのです。あとは私自身が死ねばいいだけです。私はHと同じくらい自分が許せませんでした。自分が可愛くてRちゃんより自分を守る選択をしてしまったことを、ずっと悔いていました。私は返り血で汚れたブレザーを脱ぎ捨てました。


 「そしてここに来て、あなたと出会いました。私は先に来ていましたが、あなたの姿が見えたので隠れていました」

 メイは長い話を終えた。

「メイ、俺と一緒に死んでくれないか?」

 俺はそう言っていた。こんな小さな身体で色んなもの抱え込んでいる彼女が、いとおしくて仕方がなかった。運命だと思った。

「ええ、喜んで。アサトさんとなら」

 俺はメイの手を握り、細くて折れてしまいそうな彼女の腰に手を回した。彼女も俺の腰に手を回し、ぎゅっと抱きしめてきた。それから長い髪をかき分けて彼女の桃色の唇にそっと自分の唇を重ねた。

「私は幸せです。悪いことをしたはずなのに、素敵な人と死ねるなんて。私はきっと、あなたと死ぬために生まれてきたのです」

 黙って頷いた。もう少しこうしていたかったが、何となく今ここで死ななくてはいけないと思った。

「さあ、いこうか」

 二人でフェンスの上に登り、それからお互いをまた強く抱きしめた。

 俺たちは橋から身を投げた。

 世界で一番幸せなデッドエンドだと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

デッドエンド・ラブストーリー 伊那 @kanae-ryu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ