第一部 第一章
第2話 掴めなかった未来
「お先に失礼しまーす。」
タイムカードを押す。ようやく終わった。
今日は月曜日。まだまだ一週間はこれからなのだが、昨日のことを考えると気が重い。
今日も結局、一つも仕事が手につかなかった。
「はぁ、考えても仕方ないんだけどなぁ。」
今更考えても意味のないことは分かっている。けどそれでも考えてしまうんだ。
「お、お疲れ。もう帰るのか?」
短髪で少し目つきの悪い
大学のころからのつながりで、同期で一番仲がいい友人。
「お疲れ。まぁ、な。」
会社に居ても仕事は手に着かないし、それにそもそも気分が乗らない。
だから帰る。酒でも買って帰って、潰れるまで飲んで寝る。
「……俺ももう上がるから、久しぶりに飲みに行こうぜ。」
柳生の口ぶりに、何か察したことを暗に悟る。
善意から来る言葉なんだろうけど、生憎今の俺に受け止める余裕はない。
「え、いや帰りたいんだけど……。」
「じゃ、ちょっと待っててな。」
「いや……。」
俺の意見など全く聞かず、歩いて行ってしまう柳生。強引にも感じられるけど、仕方がない。柳生にはそうする権利があるからな。
まぁ家で一人でいるとずっと考えてしまうだろうし、それもありか、と納得をつけて会社の入り口に向かい、壁にもたれかかる。
柳生は同じ23歳でありながら、既に結婚してて子どももいる。つい先日彼女にするはずだったプロポーズの相談を、よくさせてもらっていた。
だからこそ、いい報告をしたかったんだが……。
「悪い、待たせたな。」
冬を見据えているのか、はたまた嫁さんに言われたのかは分からないが、柳生の首元にはマフラーが巻かれてある。
流石にマフラーはまだ早いんじゃないか?
「別に。で、何処行くんだ?」
「それなんだけどさ、嫁が家連れて来いって言うから、俺ん家とか駄目か?」
「別にいいけど……。」
柳生の嫁の事だ、結果を聞きたいんだろう。柳生に相談している時も会話に割って入ってきてたぐらいだし……。
「よかった。じゃあ行こうぜ。」
「はいよ。」
はあ……なんて報告しよう。
気分が重い。
「つーか、どうだったんだよ?昨日は。」
あぁ、その前に柳生が聞いてきたか。
「いや……振られたよ……。」
隠すことでもないが、それでも相談をしていたためか少しばつが悪いせいで、柳生の顔を真っ直ぐ見れない。
「振られたってじゃあお前……。」
途端に立ち止まる柳生の顔は、俺を思ってくれているのか、少しだけ寂しげに見える。
柳生は良い奴だ、本当に。だからあまり心配はかけたくない。
「晴れてフリーだな。」
無理矢理笑顔を作り、取り繕って見せる。
辛いけど、こうするしかないんだ……。
「フリーって、お前……。」
それに俺ももう23歳。
うじうじするのも恥ずかしい。いっそのこと笑い話にでもなってくれないと、損した気分だ。
「しばらく女はいいや。今はこれ以上傷つきたくない……。」
「一雪……。」
問いただしたい、聞きたい気持ちはあるんだろうけど、それでも柳生は堪えてくれたのか、それ以上は聞こうとしてこない。
決して捻くれてるわけじゃない。そうじゃなくて、本当に今は女と極力関わりたくないんだ。
「まぁ、変に気を遣われるのも面倒くさいし、あんまり気にしないでくれ。」
「気にするにきまってんだろ。だって……めちゃくちゃ楽しみにしてたじゃねぇか。」
流石の柳生、正に俺の気持ちを代弁してくれた。
そうだ、そうだったな。プロポーズの先の相談も、俺は柳生にしていたな。
結局ただの妄想でしかなかったけど………。
「まぁ、そうだけど。」
確かに楽しみにしていた。
そりゃあそうだろう。誰だって最愛の人と結婚できるってなったら、楽しみに決まっている。
ただ俺の場合は、俺だけの一方的な思いだったけど。
「それに、あんなに一生懸命考えたのに。」
「まぁ、そうだけど……。」
考えに考えたな。柳生や柳生の嫁にも、一緒に考えてもらったな。
「なのに、振られるっておかしいだろ。」
まるで当事者のような表情をする柳生に、再度俺は思い出してしまう。
思い出して、やっぱりどうにも出来なくて、また気分が下がる。
「今更そんなこと言ったって、もうどうしようもないだろ。」
「一雪……。」
本当にどうしようもない。過去には戻る手段を持っていない俺には、どうしようもないことだ。
「……これから、どうするつもりなんだ?」
「まぁ、とりあえずは一人を楽しむよ。」
見たい映画も、行きたいところもいっぱいある。
今までは彼女と仕事で手いっぱいだったけど、これからは仕事だけだからなんでもできる。結構なことじゃないか!
なぁ本当……結構なことじゃないか………。
「そっか、まぁなんかあったらまた言えよ?」
「はいよ。」
寂しさも後悔も思い残しも、全て捨てないとな。
急には無理かもしれないけど、それでも捨てていかないと………。
雰囲気は重く、柳生もそれ以上話そうとせず、結局大した会話もないまま柳生の家に向かった。
「ただいまー。」
明りのある家。誰かが帰りを待ってくれている家。そんな家が今の俺には、少し、眩しい。
「お帰り、早かったね。一君もいらっしゃい。」
エプロンに包まれた格好で柳生と俺を出迎えてくれたのは、柳生の嫁の
若いながらにして、しっかり奥さんとお母さんができている、素敵な女性だ。
「お邪魔します。」
家に入り靴を脱ぎながら、本当なら俺も今頃……なんて、考えてしまう。
「俺着替えて来るから、先リビング行ってて。」
「はいよ。」
早々に靴を脱ぎ終えた柳生は、嫁を連れて二階へと上がって行く。
そんな柳生の行動に、俺は特段何か疑問を痛く事もなく、言われた通り靴を脱いでリビングに向かう。リビングでは柳生の子どものくるみが、ぶつぶつと見えない誰かと会話をしながらおもちゃで遊んでいた。
「久しぶりだな、くるみ。俺のこと覚えてるか?」
柳生と未来の一人娘のくるみ。
俺の顔を見てだんだんと瞳孔が開いていく。
「かずじぃ!かずじぃだぁ。どーしたの?」
「ご飯食べに来たの。」
あぁ、やっぱり子供は可愛い。他人の子どもでこうなんだから、自分の子どもだったら……なんて、たいして意味のないことを考えてしまう。
「かずじぃ、寂しいの?」
「いや、そんなことないよ?」
子どもの直感は怖い。顔に出してもいないはずなのに、たまにこうして核心に触れてくる。
「パパとママは?」
「もうすぐ来ると思うよ。」
くるみに殿つもりは無いんだろうけど、気持ちを代弁されたような気がして、ついくるみにあわせていた目線を下げてしまう。
俺は本当に、弱い……弱いな。
「どうして泣いてるの?」
くるみの言葉に思わずハッとして、慌てて視線をくるみに戻す。
「泣いてないよ。泣いてないから……。」
駄目だ。今の状態でくるみを見ていると、どうしても考えてしまう。
掴もうとしていた、彼女との未来のことを。
「お、くるみぃ。遊んでもらってたのかぁ?」
着替えを終えた柳生が、未来と一緒にリビングにやってくる。その柳生にくるみは抱きつこうと駆け寄って行く。
「パパーお帰り!」
「おう!帰ったぞ~。」
一転の曇りもない、確かな家族のやり取り。でもそれは他人の家族のやり取りであって、決して俺の家族のやり取りではない。
そんな当たり前のことを思い知らされた気がして、目頭が熱くなる。
「悪い柳生、俺やっぱ帰るわ。」
柳生にそんな気は、勿論ないんだろうけど、でもそれでも今の俺には少しきつい。
「どうした急に。」
「悪い、本当ごめん。」
柳生に引きとめられない様、急いで玄関に向かい、その勢いで家から出る。
今の俺には柳生の家族は暖かすぎて、あそこにずっといたらいずれ泣いてしまうだろう。
そんなこと、ただただ空気を悪くする以外の何物でもない。
「………。」
柳生の家を出て、ふと空を見上げる。既に夏は過ぎており、もう日は沈んで星が見えている。
色めきあう空の星々に風に乗って運ばれてくる金木犀の甘い香り。少し感覚を傾けるだけで、世界にはこんなにも情報が転がっている。
その情報も、さっきまでは全然気づけなかった。
どんだけ周りが見えてないんだよ、俺は。
「帰るか……。」
視線を下げ、歩きだす。
一日経過しても、心はまだ晴れていなかった。
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