第四話 古老の語り

 村長の父であり、村の古老でもある翁が話しかけてきたのは、珍しい凪の日であった。普段は離れに篭り、決して姿を現さない翁が、突如として庭に訪れたのである。村長からは七十を越えて呆け、寝たきりだと聞いていたものの、腰も曲がってはおらず矍鑠とし、炯々とした強い眼差しをしていた。

 ――彼奴のことを嗅ぎまわっておるというのは、お主か?

 翁はその視線を真っ直ぐに向け、詰問するかのような口調で話しかけてきた。私は挨拶をし、八百比丘尼の伝説を辿ってここにやってきたこと、村を回ってそれまで聞いたことを大まかに話した。話を聞いた翁は言った。

 ――彼奴は八百比丘尼などではない。

 まず、尼僧でさえない。魂を鎮める? 女たちの魂を救う? 祈り? 逆よ。彼奴はの、怨霊よ。この村を祟り、災いをなそうとする、忌まわしい怨霊。洞に巣食い、村の者達に呪いをかけておったのよ。彼奴は、村人たちを不幸に貶めるために、祈っておったのじゃよ。嘘であるものか。おぬしも聞いたのであろう。彼奴が訪れてより、村のものたちに不和が生まれ広がったのを。互い互いを疑い、憎悪するようになったのを。それはの、あの怨霊が放った呪いなのじゃよ。

 あの洞には、無数の怨霊が棲もうている。怨念によってこの世に縛られ、成仏することができず、冥府に入ることができない穢れた魂がな。かといって彼奴らは肉体を失って、現世にも戻ることができない。そのような魂が無数に、あの洞の中で泣き続けているんじゃよ。お主も耳にしたであろう。今日は凪だが、いつもは洞から風に乗って聞こえてくるであろう。村中に響き渡る悲鳴のような咽び泣きが。

 何、聴こえぬと。ほう、彼奴がいなくなってから、声がやんだ、そう申すか。

 そのようなはずがない。このわしの耳には、しっかりと聞こえておる。

 あの洞はの、古くから無数の命を貪ってきたのじゃ。そやつらの魂が奥底で渦巻き、声をなして響いてくるのよ。

 彼奴は、洞の奥底に渦巻く怨霊たちが、人へと姿を変えて這い出てきたもの。数多の怨霊の化身よ。

 信じられぬのか、我が言葉が。

 であろうな、おぬしは知るまい。あの洞のことを。

 は、息子が知るのは上っ面だけ。わしが真のことを何も話しておらぬゆえな。

 あの洞の禍々しい歴史、この村で長きに渡り幾多の命を吸い上げ、貪ってきた陰惨な過去、秘められたかつての因習…もはやこの村で知っておるのはわししかおらぬ。皆、死に絶えてしまっているのでな。それに、わしが因習を断つ為に洞に施した戒めが、長くこの村を守り続けてきた。その戒めによって、今ではあの洞の秘史を知るものも、語るものもいなくなったのじゃよ。だからわしは安心しておったのじゃが…

 ――彼奴はの、そもそも人ではない。洞から這い出し、我が戒めを破り、村に災いをもたらそうとした怨霊そのもの。村人によって話が違うのも、それらの話が矛盾しておることも当然。なぜなら彼奴は、この世のものではないのじゃからな。

 ふむ、信じられぬと申すか。

 よかろう。ならば聞かせてやろう。あの洞に纏わる忌まわしい歴史を。秘められた過去を。

 庭石に腰掛けるように促すと、翁は遠い目を虚空に向けて語り始めた。


 あの洞の歴史は古い。それこそ村ができた頃から、その歴史は始まっておる。もう数百年は昔であろう。かつてあの場所は、豊漁を喜び、海神を讃える祭礼の場であった。浜辺では豊漁祭が行われ、近隣の村々からも多くの人々が訪れて賑わう場所であった。その頃はこの村を中心に、一帯の海は実に豊かな漁場であったのじゃ。そう、今では信じられぬことじゃがな。他の村にも漁場を貸したり、不漁の時には金銭を工面してやることもあった。この村では村長は網元のお役目を務めていたが、この村だけではなく、広く一帯の村々を纏め上げる大網元として、一介の村長を越える大きな権限を持っておった。

 祭りのときなどには、あの浜辺は若いものたちの逢引の場でもあり、そこで出会って他の村の連中と結ばれるものも多かった。近隣の村々はそうして血を交わすことで、強固な関係と豊かな繋がりを長きに渡って紡いでおったのじゃ。

 あの洞は入り組んでおる。一度迷い込めば、二度と出られぬ。そういわれておる。それは嘘ではない。だが、古くからあの洞は、その奥底に海神様が立ち寄られる尊い場所と言われ、だからこの村の海では豊漁が絶えることがないのだとして崇められておった。この村と一帯の豊漁を司る海神様の祠として、けして深部を侵し、また穢すことのないよう、その奥に立ち入ることを固く禁じられておった。入ってよいのは、洞の近くに設けられた社の巫女だけであったのじゃよ。

 そう、昔は巫女がおったのじゃよ。今は誰も寄り付かぬ物置小屋になってしもうた社にな。洞に立ち寄るという海神様に御遣えし、祠を守り、祈りを捧げる巫女が代々おった。毎日、漁の収穫の一番の恵みが巫女に渡され、洞の奥の祠に捧げ、お返しすることになっておった。祭事の際は舞を捧げることも大切な役目としておった。今では巫女とともにその作法も廃れてしまったが、巫女の舞は実に美しかったという。巫女の舞を見るために、遠方から祭りに来るものが大勢おったほどに。

 だが、如何に豊かな魚場であっても、不漁の波はある。それが数年に及ぶこともある。そのようなときには、この村の村長は村々から責められることになった。それも尋常ではないほどの苛烈さでな。海神様への祈りが、感謝が足りぬからじゃ、村のものが何か海神様の機嫌を損ね、怒らせるようなことをしたのではないか、海神様の掟を破り、海を穢したものがいるのではないか、とな。とにかくあらゆる難癖をつけて、責められたのじゃよ。確かに村は海神様の洞があるため、恩恵はどこよりも受けておって、村長の近隣に及ぼす発言力や権限も尋常ではなかった。だがその反面、不漁の時はその矢面に立たされることもよくあったのじゃ。代々の村長たちは、豊かではあっても汲々としておった。いつ不漁が来るやもしれぬのだ。そのため代々の村長たちは次の代のものに、こう口伝しておった。豊漁の年が続く時期でも、近隣の村々に横柄な対応をしたり、傲慢な態度を取ったりしてはならぬ。不漁になったときに、一気に不満が噴出してしまう恐れがある、と。

 かといって不漁は予測が付かぬもの。避けられるものではない。いつの頃からか、不漁が続いたある年に、忌むべき風習が生まれたのじゃ。

 人柱、生贄よ。

 稀に見るひどい不漁が、しかも数年と長く続いていたある年、海神様の怒りを鎮めるために、この村のおなごが生贄とされ、洞の奥深くへと投げ込まれたのよ。最初に生贄となったものが誰であるかは詳しくは分からぬ。しかし言い伝えでは、海神様の声を聞いたという巫女によって選ばれた、海を穢したと言われた女であったらしい。

 生贄など、下らぬこと。だがの、その生贄が捧げられたまさしく次の日に大豊漁となったのじゃよ。そして翌日からは少しずつ漁獲量は回復していき、一ヶ月もせぬうちに豊漁の日々が戻ってきたというのじゃ。偶然であったのだろうが、それが忌むべき秘史の始まりであったのじゃな。それ以降、不漁が続いた際には生贄を捧げるべし、そのようなおぞましい因習が生まれてしまったのじゃ。

 何年かごとにやってくる不漁の度に、この村からは生贄が捧げられた。ある年は子がいる母であったり、次の時は婚約したばかりの娘であったり、また別の年は、あろう事か妊婦であったこともあった。その全てが、どういうわけか、みな女であったという。

 選んでおったのはやはり、海神様の声を聴くことができるという、歴代の巫女の一族の女たちであった。

 理由は様々であったが、はっきりとしたものではない。海を穢した、海神様を貶めた、怒りにふれた、言葉ならざる掟に背いたといった漠然としたものよ。

 無論、抵抗したものもおった。憤慨して巫女に食ってかかるものも、一家を挙げて拒もうとしたものも数多くおった。

 それでも、近隣の村々からの視線、そして、同じこの村に住む者たちの圧力は苛烈で、選ばれてしまったら逃れることはできなかった。代わりに己の身内が選ばれる訳にはいかぬいかぬ、という恐怖もったろう。生贄に選ばれた者たちの周りでは、数多の悲しみが生まれたことであろうよ。もちろん、生贄が捧げられた途端に不漁がやむということはない。だがどうしたわけか、生贄が捧げられてしばらくすると、漁獲量は決まって少しずつ回復していったのだという。そしてしばらくは豊漁の日々が戻ったのだという。

 いや、そのような迷信など、わしは信じておらぬ。ただの偶然であろう。海神様を信じておらぬわけではない。海に生きるものとして、そのようなことは許されぬ。わしが信じておらぬのは、生贄によって海神様がお許しくださるなどという下らぬ伝承よ。

 生贄を捧げても数年すると豊漁はとまり、また少しずつ漁獲量は減っていくのが常であった。潮の流れのせいなのか、当時頻繁に起こっておった地震で海底の地形そのものが変わったものなのかわ分からぬがな。やがては豊漁の場所がここから移り、別の寒村が栄え始めたのだ。その寒村はすぐに豊かになり、やがて村長が一帯の村々を纏める網元となった。祭の場所も変わり、その村で一帯の祭りは行われるようになった。その村に新たな海神様の祠がもうけられた。だが、その豊漁も数十年続くと、また別の浜へと魚場ごと流れていった。それに合わせて海神様の祠も遷されるのだ。どうやら海神様はその座する安息所を数十年に一度、お変えになるのじゃろう。

 巫女か? 我が村では、洞が海神様の加護を失った後、巫女の一族もその力と立場を失った。しばらくは洞と社を守っており、海神様を呼び戻すための儀式を行っておったと言われるが、それがどのようなものであるか、今となっては分からぬ。巫女の血筋も絶え、立派であった社は廃屋となり、使われなくなった祭礼用の神具を仕舞い込む物置小屋となった。だが海神様の祠として、お供えを捧げるという風習だけは、代々の村長によって受け継がれ、守られてきた。漁獲量が減ったといっても、我らは海の民、海や海神様を感謝し、崇めなければならぬ。それをやめては、もはや海の民としては生きてはいけぬからの。 

 その昔は、村が力を失うにつれ、人心は荒み、かつての豊かさを知るものほど、その胸に言葉にならぬ澱を溜め込んだのじゃという。村の雰囲気が、空気そのものが重くなってしまったかのようになり、心地よかった風が、疎ましく肌に纏わり付くものとしか感じられなくなった、そう言われておる。

 幸い、生贄という忌むべき風習は、一度は巫女とともに絶え果てた。

 だが、あの洞での悲劇は終わらなかったのじゃ。

 海神様が去ってより、荒んでしまった者たちによって、かつての聖なる祠は、忌まわしい洞へと、その様相をおぞましいものに変えていくことになるのじゃ。

 まずあの洞は、村で罪を犯したものの牢獄となった。入り口より数度の分岐を進んだ場所に、牢獄が作られたのだ。海神様の祠が遷されてより村では争いごとが絶えず、罪を犯すものが増していった。それまでは村の者達も、海神様が己たちを見ているという意識があったのであろう。己らが海神様のお膝もとに暮らしているという自負もな。それが祠が遷されてより、失われてしまったのじゃな。

 古老たちの寄り合いによって、罪人を閉じ込めておく場所が必要だとされたからじゃ。不貞や盗み、喧嘩や博打、借金や詐欺など、村ではかつては起こらぬような他人との諍いが急増しておった。もう一度、村人たちの海神様への畏怖を呼び覚ますため、という目的もあったようじゃ。

 あの洞は入口の祭壇から少し入れば真っ暗闇で、しかも雨と満潮が重なれば、水かさが増して牢獄が天井近くまで浸かってしまうこともある。だからそれに怯えながら過ごさねばならない。実際に、水死するものが殆どであった。そのようなときは、海神様の思し召しの一言で済まされた。生贄など捧げなくてもよくなったというのに、愚かなことよ。

 寄り合いで許されるまで、罪を犯したものは牢獄に閉じ込められることになった。水死だけではなく、中には恐怖のあまり発狂してしまうものもいたし、寒さで病に罹り、そのまま凍え死んでしまうものもいた。

 かつては祭りの地として憩いの場所であったあの浜には、誰も近づかぬようになった。なぜなら、洞の奥底から罪人たちの声が聞こえてくることがあったからよ。中で発狂したものが出たときなど、一晩中、浜の外まで声が響いてくることもあったというわい。これはおなき洞などと呼ばれるよりも前のこと。真にあの洞からは、牢獄に閉じ込められたものたちの悲鳴が、咽び泣きが聞こえておったのじゃよ。

 古老たちの寄り合いによって作ることが決められた洞の牢獄であったが、時を経ると、咎人の数も減っていき、やがて殆ど使われなくなった。だが、役割を終えることはなかった。あの洞を用いて、この村ではさらに無残なことが行われるようになったのじゃ。

 ある古老が提案したのだ。

 漁獲量は回復することなく、村の女たちは貧困に喘ぎ、男衆はやる気を失っておる。中には漁もそこそこに、博打に走るもの、酒におぼれるもの、妻や子に乱暴を働いたり、遊郭に売り飛ばすもの、遊女に入れあげるものなども増えている。それを解消するための上手い手段がある、と。

 それは恐ろしい案であった。

 大漁を得た漁師に、褒美として女を与える、というものじゃった。洞の奥の使われなくなった牢獄に、遊郭から騙して連れてきた美しい遊女を閉じ込め、大漁を得た漁師に抱かせる、という信じられぬものだった。

 愚かしいことに、この案は受け入れられ、しかもそれなりの効果を発揮した。男どもは我先に大漁を得ようとして発奮し、漁獲量もそれなりに回復したのだ。

 洞窟の環境は劣悪であり、村の男どもは女を人とも思わぬ連中ばかり。監禁された女たちはそう長くは持たなかった。そのたびに、新しい女が連れてこられた。当初は村で金を出し合って買ってきた遊女や、大陸の商人から買った異国の女であったらしいが、その金が続かなくなると、何と美しい女を攫ってきたり、騙して連れてきて、牢獄に閉じ込めるようになった。

 大漁を得たものは食べ物を持って牢獄を訪れ、腹を空かした女に食料をちらつかせ、時には嘘をつき、時には無理やり力づくで女を抱いていたのじゃという。むろん逃げ出そうとするものも多いため、女には足かせを嵌めることになっておった。気の狂うものもおった。だが、そのようなときには無慈悲に殺され、洞の更に奥底に投げ捨てられて終わりだった。

 そればかりではない、かつて牢獄として使われていた頃は、牢獄とは罪人のためのものであった。罪人とは、法に照らされ、真偽を確かめられ、審判を下された人間であった。

 だが、それさえもなくなったのだ。何と、古老たちの寄り合いによって定められたものが、村ぐるみで殺されてしまうようになった。そのような馬鹿げた私刑が公然と行われるようになったのだ。罪も犯していないものが、村のため、という理由で殺され、洞窟に捨てられる。しかも、村での寄り合いのことも、その決定で殺されたという事実も隠され、漁のさなかに海で事故にあって死に、洞に流れ着いたという風に処理されておった。洞窟に流れ着いたものは、海神様の怒りによって海に飲まれ、殺されてこの地に流れ着くのだ、そんなことが言われておった。

 当時の古老の連中は、都合がよいときだけ海神様を出しておったのじゃよ。

 殺されたのは、古老の教えを蔑ろにしたもの、古老に歯向かい、監禁した女たちを逃がそうとしたもの、女を攫って牢獄に閉じ込めるというやり方に、異を唱えるもの、彼らは罪の意識を感じ、正しき方向へと変えようと、古老に意見しようとしたものたちであった。

 そう、村の連中はみな、知っておった。監禁された女のことも、洞に流れ着くものの死骸が、実は寄り合いで古老たちによって裁きを下されて殺されてしまったものであることも。知りながら、誰も何もすることができなかった。いや村ぐるみで、それに加担しておったのよ。

 古老たちの発言力は強く、逆らえば村八分になることは必死であった。魚場は奪われ、漁具は壊され、そうなれば家族ともども野垂れ死にするしかなくなる。だから誰もが重苦しいものを感じながら、古老たちを恐れ、寄り合いでの決定に従うしかなかったのじゃ。

 恐ろしいことに、そのようなことが数十年も続いたのじゃよ。

 だからあの洞の奥底には、無数の躯が転がっておるのよ。村長たちは代々その風習を受け継いできたのだからな。私が受け継いだ村史には、そのことが記されておる。決して村に出すわけにはいかない、わししかその場所を知らぬ村史は、わしの代を最後に封印した。次代へと受け継がせる気はない。そのようなおぞましい歴史が村にあったことなど、語りついではいけぬのだ。無論、わしの息子も知らぬことよ。

 すべては最後の古老である私が飲み込み、墓まで持っていくことに決めておる。そう、古老などという下らぬしきたりを、わしの代で終わらせるために私は尽くしてきた。古老という役割から権限を奪い、決定権のない相談役として位置付けたのはこのわし自身よ。後は息子が代を受け継ぎ、忌まわしい歴史とは切り離された新たな村史を書き連ねていくであろう。だからお客人、そなたも口外無用でお願いいたす。

 そう、わしは最後の古老よ。かつて古老が相次いで病死することがあって、そのときに古老に名を連ねていたわしが廃止したのよ。寄り合いそのものは定期的に行われておって、あればわしは呼ばれるが、ただのおじいとして加わるだけ、権限はない。そもそも寄り合いというても、わしの息子が漁師達を労て開かれる酒宴が殆ど。

 ああ、それでいいのじゃ。わしは三十年以上前に、それまで続いておった忌まわしい因習を断ち切ることを決めたのじゃよ。そして洞窟に戒めをを施し、封印し、二度と昔のような過ちが起こらぬように仕向けたのだ。

 それは、ある事件があってからのこと。いや、わしはあの悲しみを最後とするために、呪われた洞を封印することにしたのだ。

 何、聞きたいと申すか。

 あまり思い出したい話ではない。近頃では呆けてしまってよう思い出せぬ。いっそできることなら、あの一切を忘れてしまいたいとさえ思うこともある。それは、一人の男としてのわしを苦しめ続け、最後の古老としてのわしを鼓舞し続けてきた、忌まわしい過去よ。しかし忘れてはならんことなのじゃよ。因習を断ち切るため、わしはすべてをこの腹に抱えたまま墓場に行こうと思うておる。

 聞いてくれるか、旅のお方。他言無用と約束してくれるなら、お話いたしそう。今一度、忘れぬようこの胸に刻まねばならぬ、忌まわしいこの村の呪いを。


 まだわしが若くして村長となった頃のこと。そう、もう三十年以上前のことよ。古老であり、村長でもあった父の突然の死により、わしは若くして村長の地位を継がねばならなかった。しかし、古老には入ることができなかった。寄り合いで他の古老達に断られたのじゃよ。まだ早い、と。古老になるには年を経ねばならない、と。確かにわしは私は若すぎた。その頃は長い不漁が続いていて、父も網元として神経をすり減らすような日々を送っておった。父が突如倒れてしまったのも、古老たちの間で、網元としての役割を果たせぬことを責められておったからであろう。そこに経験の浅いわしが村長となって後を継いだのじゃ。如何にわしの立場が弱く、古老たちに逆らうことができなかった分かるじゃろう。寄り合いに加わることはできたが、発言権はなかった。古老たちはわしが古老でないことを理由に、村長で、網元でもあるわしを蔑ろにして、寄り合いを思うがままにしておった。

 先に話したであろう。古老たちの一存で何人もの村人が殺され、攫ってきた女が監禁され、時には村に逗留した商人を殺し、追いはぎのように身ぐるみはいで捨ててしまうこともあった。それをわしは以前から信じられぬ思いで見ておった。生前の父が長いこと、その古老たちの常軌を逸した行為に心を傷めていたのも知っておった。

 ある日のこと、寄り合いに一人の女が招かれておった。

 連れてきた古老の言うところでは、何とその女は、かつての海神様の巫女の系譜に連なるものだという。大昔にこの村を追放されたが、古老たちによって長く消息が探されていた。ようやく見つけたとき、女は流れの巫女として世を流離っていたのだという。村史を受け継いだ私は知っておった。海神の巫女がかつて村の女を人柱として要求し、罪もない数多くのものが、生贄として命を奪われたことを。

 わしはいぶかった。またなぜ、かつての忌まわしい歴史を掘り返すようなことをするのか。なぜ巫女を探し、この村へと呼んだのか。嫌な予感がした。そして予感は的中した。

 古老たちは巫女を洞に向かわせ、海神様の声を聴くように命じた。長く続く不漁の原因を探り、どうすれば、海神様はこの地へと戻ってこられるのか、その手だてを教えるように命じた。今こそ、海神様をこの洞へと呼び戻し、次なる豊漁の加護を受ける地へと変えねばならぬ、そう古老たちは言っていた。

 儀式を終えたその怪しげな巫女は言うた。

 ――不漁の原因も、先代の網元が突如倒れたのも、一人の娘が海神様の怒りを買ったため。その娘を、人柱として捧げるがよい。さすれば、海神様はこの村の長きに渡る不漁の呪いを解き、再び洞を宿として、豊漁の祝福を授けるであろう。

 まったく呆れ果てるであろう。かつて多くの犠牲を出し、効果も得られなかった結果に廃れた忌まわしい因習を、古老たちは復活させようとしたのじゃ。

 しかし巫女が告げたその娘の名を聞いたとき、わしは凍りついた。

 その娘はの、わしの想い人であった。そればかりか、わしの子を孕んでおった。娘は独り身であったが、わしには妻がいたのでな、不貞じゃった。古老たちはわしが不貞をしていたことを知っていたのであろう。

 私はそのお告げに怒り狂い、巫女や古老たちを責めた。そのような馬鹿げた話があるものか、とな。しかし古老たちは耳を貸そうとはせず、そればかりか、寄り合いの定め事が聞けぬのであるならば、村長としてのお役目も他家に移さねばならぬ、そう言いおったのじゃ。

 村長のお役目を渡すなど、本来ならできるものではない。古老たち全員の賛成が必要となる。村長自身が古老に名を連ねるのが慣例であったため、そのようなことは起こりえなかった。わしは気付いたのじゃ。これこそが、古老たちの狙いであったのだろう、と。

 わしの父も、わしも、古老たちの横暴を見かねていた。無残な因習にもうんざりしておった。近隣の村々では、この村の恐ろしい秘密が実しやかに語られ始めておった。どんなに隠しても、村の近辺で消息を絶つもの、村を出たとこで行方不明になるものたちの多さは隠しようがないのだ。

 存命中の父は、古老たちを何とか説得しようと試みていた。わしもそんな父を支えておった。

 古老たちはそんなわし達が目障りであったのだろう。だからわしが古老に名を連ねる前に、村長のお役目を他の子飼いの家に渡そうとしておったのだ。やつらは卑劣にもこんなことを言うた。もしもあの娘を生贄にささげるのを許すなら、若いそなたを古老として認めてもよい、とな。何と卑劣なことだろうと思うた。やつらはわしを共犯者にすることで、わしの発言を封じようとしたのじゃ。これを認めてしまえば、もはやわしがおぞましい因習に口を出すことはできなくなってしまうじゃろう。そればかりか同じ穴の狢として、罪の隠匿に尽くさねばならなくなることは明白であった。

 だがの、わしはもう、村長であることも、この村のこともどうでもよくなっておった。できることなら逃げ出したい、そう思っておったのよ。わしが本当に守りたかったもの、全てを捨てても守り抜かねばならぬと決意したのは、その生贄に名指しされた娘であった。それほどわしは娘を好いていたし、また娘はわしを好いてくれておった。わしは娘を連れて逃げようとした。立場も、家族も、全てを投げ打って、この村を出ようと娘に告げた。そしてお腹の子と三人で、貧しくとも身を寄せ合って生きていこう、とな。

 そう話したとき、娘は泣いて喜んだ。

 娘が自ら洞窟に身を投じたのは、村を出ようと約束した前日の夜であった。自ら洞の深くに入り、牢獄の枷を自ら嵌めると、その鍵を届かぬところへと放り投げたのじゃ。その夜は嵐であった。雨が洞に流れ込み、娘は水没してしまった。わしの元に書き置きが残されておった。娘はわしのことを想い、また貧しさで苦しむ村の者たちのことを想い、そして古老となったわしが、忌まわしき因習を断ち切って近隣から攫われる娘を救ってくれることを信じて、腹の子とともに、人柱としてその命を捧げたのだ。そのことが切々と記されておった。

 わしは、洞の中で鎖に繋がれたいとしい娘を抱きかかえて泣いた。そして娘への償いを誓ったのじゃ。

 それで不漁がやんだか、じゃと?

 生贄など、所詮はまやかし。不漁は続いた。半年ほど経って少し持ち直したが、古老たちは不貞を犯した不浄の娘では、人柱には役不足であったのだろう、そう涼しい顔でいうておった。

 思わず殺してやりそうになったが、わしは耐えた。なぜなら、娘の書き置きがあったからじゃ。何としてでも、わしは約束を果たそうと思った。

 わしは忌まわしき因習を断ち切ろうとした。わしの代で終わらせようとしたのじゃ。あの優しい、いとしき娘のためにも。

 かつてはわしも、呪いや怨念など信じてはおらなかった。しかしやがてわしはは、不漁の原因は、人柱となって死んだ娘たち、無実の罪で命を奪われた村の者達の怨念のせいだと思うようになった。

 なぜか?

 実はな、わしの想い人が死んでより、古老たちが相次いで病に倒れたのだ。一人、また一人と次々と病に倒れ付し、そのまま還らぬものとなった。恐らくは、いとしい娘の魂が、私の手助けをするために、あの老いぼれどもを道連れにして冥府へと連れて行ったのであろう。或いは、洞窟の奥底に渦巻く怨霊が、娘の死とわが慟哭をきっかけにして這い出てきて、古老たちを呪い殺したのであろう。そうでなければ、十人もの古老が、一年を待たずしてばたばたと死ぬわけはあるまい。あれこそ呪い、祟りのようなものよ。そしていとしい娘の魂が、わしだけを守ってくれたのじゃろう。

 古老たちが死してより、わしは寄り合いの制度を変えた。さらに、洞窟の歴史を封印しようと村史の存在を隠した。

 あの洞窟の奥底には、それまでに村ぐるみで命を奪われた無数の躯が眠っておる。誰一人として近づけるわけには行かぬ。そこで大人たちに伝説を語らせ、また村長としてお触れを出し、あの洞窟に誰も近づけぬように仕向けたのじゃ。

 ――あの洞窟は生贄を欲する海神さまの祠。黄泉へと通じる忌まわしい洞窟。掟に背いて罪を犯したものたち、海を穢したものたちが海で死に、その魂が流れ着いて囚われる場所。数多の魂が怨霊となり、その罪によって成仏することができず、悲鳴をあげ、泣き咽びながら、出口のない真っ暗な洞窟を彷徨い続けている。かつては牢獄として使われ、村で掟を破ったもの、重大な罪を犯した者が繋がれ、数多のものが命を失った。彼らは死しても怨霊となって洞窟を彷徨い、その叫び声は洞窟の中で反響し続けている。決して近づいてはならない。彷徨う怨霊によって囚われ、引きずり込まれてしまう…。

 村長として、最後の古老として村の大人たちを集め、幼い子らへとかつての歴史を語ることを禁じた。そして先の伝説を、古来からの伝承として語ることを定めたのじゃ。一切の忌まわしき因習と手を切り、新たな村の歴史を作っていくためにな。

 それから数十年が過ぎた。

 子らは小さな頃から恐ろしい話を聞いていたため、怖がって近づこうとしない。わしの思惑通り、大人になった村人たちは、恐ろしい話を自分の子供たちにも受け継ぐようになっておった。

 海神様が村のものを連れて行かぬよう、また漁への感謝と祈りを込めて、お供えだけは欠かさずに供えるように定め、それは今も守られている。

 伝承による戒めが想像以上に効果を発揮したため、誰もがその役を嫌がり、決まった女に押し付けられるようにはなってしまったがな。

 だがの、旅のお方は、本当のことを言えば、あのお供えは、海神様のためではない。わしのために命を落とした娘と腹の子、そして村の忌まわしい因習の犠牲となったものたちへのものなのじゃよ。

 わしが施した戒めは功を奏し、封印は解かれることなく時は過ぎた。かつてのことを知っているものは死に絶えた。やがては、わしも安らかに眠れるだろうと安心しておった。全てを己のうちに秘めたまま、わしの死とともに、過去は断ち切られるであろう、とな。

 だが、あろうことか、その戒めを破ろうとするものが現れたのだ。それも、あの洞窟の奥底からな。

 それが、あの比丘尼を騙るもの…洞窟から這い出た怨霊どもの化身よ。


 そう、あの比丘尼の話を聞いたのは、女中の井戸端での会話からであった。

 洞のそばの社に、一人の旅の女が住むようになったのだという。女は尼であり、使われなくなった社に寝泊りし、何と日中は洞に入って、祈りを捧げているのだという。

 その比丘尼がいうことには、不漁の原因は、洞の奥に巣食う無数の怨霊のせいだ。怨霊は彷徨う女達の魂であり、私はその魂の声を聴き、慰撫し、鎮め、成仏させるために、洞に篭っているのだ、と。

 私は息子を問いただした。あの洞には誰も近寄らせてはならぬと言うたのに、なぜじゃ。なぜわしに断りもなく、あの女が洞に入り、社を使うのを許したのじゃ、と。ところが息子は涼しい顔をして言いおった。

 ――別によいではありませんか。古い迷信など、もう忘れ去るべきでしょう。村のものの誰もが、あの洞窟を怖がって浜辺にさえ近づきません。しかし所詮はくだらない言い伝え。もったいないではありませんか。あの浜辺は海神様の魚場として誰も魚を獲りはしませんが、調べてみたところ、結構な魚がいるらしいですよ。

 けんもほろろであったな。わしが古老のしきたりを廃してより、古い老人の言葉は重みを失ってしまった。古いしきたりに縛られた老いぼれの、信心めいた諫言としか思っておらなんだ。皮肉なことよ。かつてのわしが古老に感じていたようなことと同じであった。

 わしは手出しができぬ上、しばらくは様子を見ておった。

 まさか本物ではあるまいと思うた。しかし怨霊が巣食うことを知っておるのは村のものたちだけ。どこで噂を聞きつけたものかと訝った。

 きっと旅の比丘尼が宿と飯を得るために言っておるだけ。関心を引こうにも、村のものたちは怖がって洞窟に近づきはせん。しばらくすれば諦めて村を離れるであろう…そう思っておった。ところが、しばらくすると驚くべき事を耳にした。

 比丘尼は村人たちの歓心を得て、かつては戒めのために誰も近づかなかった浜辺の社に、少しずつ村人たちが訪れるようになっているのじゃという。最初は女たちが一人ずつ通いながら悩みを相談したりしていたそうだが、やがて男衆も訪れるようになり、壊れかけた社の修理を手伝ったりするようになっておるという。中には比丘尼を徳の高い僧正様と崇める輩も出てきて、なけなしの財から寄進するものも増えてきた、と。

 ついには、あのお方は八百比丘尼様ではないか、そのような噂が実しやかに語られるようになったのじゃという。

 その比丘尼は村人たちの敬意を集めるまでになり、村の者たちは浜辺に近づくことを怖がらなくなっておるのだという。このままでは、誰も中に立ち入らぬよう戒め、三十年をかけて施した封印が解けてしまう。洞窟の中にある無数の躯が発見されてしまっては、わしが封印した、この村の陰惨な歴史が明るみに出てしまう。多数の行方不明者がこの村で殺されてしまったこともばれるやもしれぬ。そんな真実が知れ渡れば、近隣の村々から忌み嫌われ、除け者にされる責め苦を味わうであろう。そうなればこの村は終わりじゃ。そう思うと、いてもたってもおられなかった。わしはことの真実を確かめるため、人目を避け、こっそりと社を訪れた。

 彼奴はまるで私を待っていたかのように、社の真ん中に鎮座しておった。

 そしてこう話した。私は女の泣き声に呼ばれて、この村に、洞窟に辿り付いたのだ、と。無念のまま死んでしまった女の怨霊が、この洞の中には渦巻いている。不漁の原因は、海神様の祠が、忌まわしき怨霊の棲み処となっているからだ、と。

 疑うわしに、何とこう言うた。

 ――私は怨霊の声を聴くことができるのです、と。

 怨霊が申すには、どうやらこの洞は、実に忌まわしい、おぞましい過去を秘めている。その声に耳を傾け、魂を慰め、成仏させねばならない。そして洞に蠢く怨念を祓い、忌まわしい過去を浄め、もう一度、海神様の祠として、村人たちから奉られる、清浄なる場所にしなければならない――と。

 なぜこの年若い尼僧が、洞窟に忌まわしい歴史が秘められていることを知っておるのか、わしは恐ろしくなった。

 それでもわしは、その尼僧の言うことをまだ信じてはおらなんだ。

 洞窟に隠された歴史があることを知っておるのは、村の年かさの誰かから、言葉巧みに聞き出したのだろう。だが、それがどのような歴史なのかは、流石に知るはずがない。もはやこの村には、秘された歴史を知るものは、わし一人なのじゃから。そう思った。

 だから、かまをかけてやったのよ。

 村のものたちも誰も知らぬ、この洞窟の秘められた歴史を聞いてやったのじゃよ。怨霊と話ができるなら、教えてくれないか、わしも知らぬ歴史があるのか、とな。いかなる作り話を騙り、わしを欺こうとするのか、確かめようとしたのじゃ。そうして尼僧を騙る女の正体を暴こうとしたのよ。

 しかし、女はしばらく眼をつぶってゆらゆらと体を揺らしていると、やがて語り始めたのだ。この村の洞窟に隠された歴史を、わししか知らぬはずの、わしも村史書でしか知らぬはずの秘史を。語り始めたのだ。怨霊の声を借りてな。

 生きているものが、そのようなことを知っているはずがない、そのようなことができるはずがない。女は洞窟に飲まれていった者達の、数多の恨み辛み、無念の数々を、搾り出すように話し続けていた。とても尼僧とは思われぬ声で。あの女が尼僧であるはずが、この世のものであるはずがない。

 震えて腰を抜かすわしの首に、何とあの女は、手をかけようとした。

 わしは確信した。

 このものは、怨霊だ、とな。

 あの女が尼僧様などであるものか。尊い尼僧様がわしを殺そうなどとするものか。わしは怨霊たちを生む忌まわしい因習を断ち切るために、この村を守るために、いとしい娘とその腹の中の我が子さえ犠牲にしたのだ…。

 彼奴は、この村を呪い仇をなすため、洞窟から這い出てきた冥府からの怨霊。呪われた恨み唄を唄い、村に災厄を呼ぶものよ。

 気がついたときには首にかけられた手を払い、逃げ出しておった。そのままでは殺されてしまう、そう思った、いや、間違いなく殺されておったであろう。

 その後、わしは息子に繰り返し言うた。あの女は怨霊、近づかぬように村人たちに言えとな。だが、あやつは聞きはせぬ。そればかりか、わしのことを、狂うてしまったと勘違いしよった。そうして村のものたちに、わしのことなど相手にするなと言いふらす始末よ。じゃが、わしは分かっておった。あの女が何れきっと、村に大きな災いをもたらすであろうことが。

 案の定、彼奴は女たちを騙し、男たちには色目を使い、お供えものや金品を巻き上げておったのだろう、それらは全て、怨霊に憑かれたあの女が、村のものたちに復讐をしようとしてやったこと。

 いや、彼奴そのものが、肉を纏った怨霊の化身であったのじゃろう。

 だからいなくなったと聞いたときは安心したわい。きっとわしが日がな一日唱えている念仏が届いたのであろう。

 行方? そのようなもの、わしは知らぬ。恐らくはまた洞に飲み込まれ、冥府へと帰っていったのであろう。だが、彼奴がいなくなってから、洞からの声がまた強くなってきておる。以前はこの離れまでは届かなかったというのに、風に乗って聴こえてくるのだ。おかげで安心して眠れわせん。

 わしだけにしか聴こえぬと?

 ふん、他のものたちは聴こえぬというか。姿を見せなくなってから、なぜか声がやんでしまったと。それはの、慣れてしまっただけよ。あの声に、あの悲鳴に。村のものたちは、聴こえておるのに、聴こえぬふりでもしておるのよ。今日は凪いでいるために、聴こえてはきやせん。だがの、風が吹いている日には、耳を澄ませるといい。あのおぞましい声が、悲鳴が、むせび泣きが、慟哭が、耳にまとわりつくように聞えてくるはず。

 わしは恐ろしゅうて、凪の日にしか外に出る気がせぬわ。

 嘘ではない。狂うてなどおらぬ。狂うておるのは、あの声を聴こえぬという村の者たちの方よ。狂うておりながら気付かぬのは、怨霊の化身の呪いであろう。この村で正気を保っているのは、このわしだけということ。これもきっと、あのいとしい娘の加護であろう――。


 と、それまで凪いでいた風が、突然びゅうびゅうと吹き始めた。翁はびくりと震えると、あたりをきょろきょろと見回した。

 ひっ、そう呼吸を引きつらせると、両手で潰れんばかりに耳をふさいだ。

 ――聞こえる、聞こえるぞ…やめろ、やめろ。

 なぜ、またやってくるのじゃ。なぜ、蘇るのじゃ。わしが、また、殺してやったというのに。

 がたがたと体を震わせながら、私の問いに答えて、翁は吐き出した。

あの女は、怨霊に取り付かれて、わしを殺そうとしたのじゃ。

 そう、だから、わしが殺してやったわい。

 あの尼僧は人ならざるもの。怨霊そのものよ。そのままであれば、わしを縊り殺しておったろう。だから、殺してやったのじゃよ。昔と同じように首を絞めて、洞窟の奥に投げ捨ててやったわい。

 あの女が八百比丘尼などであるものか。他の村の連中が言うように、ただの頭の狂うた淫売よ。分をわきまえずに化けて出た、穢れた女よ。だから殺されて当然ではないか。

 怯えているわけではない。なぜ恐れる必要がある。わしは間違ってはおらぬ。あの女が身の程を知らなかっただけよ。村長としての重圧も知らずに、わしを祟ろうなどとはあきれ果てた性悪女よ。

 あの尼僧のことをかぎ回ることなどやめておくがよい。洞窟になど近づかぬがよい。怨霊に憑かれる前に村を去るがよい。

 そういうと、翁は足をもつれさせながら、逃げるように庵のほうへと去っていった。


幕間――一年前


 …また来たのかご老人、先日は震えて逃げ出しおったが。今宵は何用じゃ。

 ――ほう、怨霊の声を聴きたいと申されるか。

 洞窟の秘められた過去を、古老は、旅の尼僧と名乗る女に話した。己が洞窟を封印したのは、もう二度と悲劇を起こさないため。あの娘のような犠牲者を出さないためだった、と。いったいどうすればいいのだ。あの娘は私のことを想い、自ら人柱となったはず。本当に成仏できていないのか。もともと洞窟に棲んでいた無数の怨霊に囚われてしまっているのではないのか、と。

 古老は、自らの嘘がばれるはずが無い、そう思って尼に洞窟の秘史を話した。尼僧のいうことなど、はなから信じていなかった。

 ――ふむ、おぬしと村を救うために、命を捧げた美しき魂を持った娘か。そのものを降ろしてどうする。何を聞きたいのじゃ。それに成仏しておるのなら、わが魂降ろしでも呼び出すことはできぬ。私が降ろすことのできる御霊は、成仏できずに冥府の前を彷徨う怨霊ばかりよ。

 何、許してくれているか尋ねたいのか。娘を守れなかった不甲斐ない自分を、許してくれているのか尋ねたい、と。そして娘に報告したいのか、村の忌まわしい因習は、娘と約束したとおり、村の歴史とともに廃したことを。

 では、その娘の魂を、わが体を器としてこの世に降ろして進ぜよう。

 「…は?」

 私は、怨霊の言葉を聴くことができるだけではない。その気になれば、この身体に彷徨う怨霊の魂を宿すこともできる。

 「まさか、ご冗談であろう」

 古老は狼狽しながら答えた。

 ――冗談でなどありはせぬ。私はそうした生の元に生まれ、生業に導かれるように、旅の比丘尼として生きてきたのだ。洞窟の奥に巣食う無数の怨霊の中から、さらにその奥底の冥府から、その娘の魂を呼び、この身に降ろすことができれば、死者の無念の声を聞くことができるやもしれぬ」

 古老は怯みながら、娘の名を告げた。それは嘘の名だった。尼僧が適当なことを言えば、それに表向きは調子を合わせ、陰で嘲るつもりだった。

 承知した、そういった尼僧は、目をつぶるとぶつぶつとなにやら呟き始めた。

 しばらくすると、尼僧は眼を閉じたまま告げた。

 ふむ、そのような名のものなど見つからぬ。きっと成仏しておるのであろう。

 安堵のため息を吐く古老に、しかし尼僧は、魂を凍てつかせる言葉を放った。

 ――しかし、洞窟の奥から、微かにそなたの名を呼ぶ怨霊の声が聞える。

 恐ろしくなった古老は、言葉を失った。

 尼はぶつぶつと呟きながら洞窟の奥底に向かって得体の知れない言葉をつむぎ続けた。からだをゆらりゆらりと揺らしながら、びくりと体を震わせた。

 ――そう、この女の名は…。

 そして誰も知らぬはずの、わしとその娘でしか通じぬはずの名を呼んだ。

 比丘尼は体をもだえさせながら、首に手をやった。

 首が苦しい、誰かに絞められている。

 うめき声をもらす。

 足が痛い。重たい鉄の錠が嵌められている。

 そう口にする。

 すると確かに、尼僧の首に、絞められたような後が浮かび上がった。

 足首は青く腫れ上がり、血すらにじみ出てきた。

 そう、私は、あなた様に殺されたのだ。

 約束の晩に、待ち合わせの場所で、縊り殺されたのだ。

 私だけではない。あなた様は、老人たちも殺したであろう。因習を断ち切ろうとした老人たちを、あなた様を村長から降ろそうとしたものたちを、薬売りから買った毒を用いて、もてなす振りをして…

 古老は引きつった悲鳴をあげた。そして全身をがたがたと震わせながら、呪いのような言葉を喚き出した。

 な、何を言うておる、悪いのはお前ではないか。

 わしが与えてやった恩も忘れて、人柱を拒むどころか、腹の子を立てに、逆に脅しよったではないか。何が、一緒に逃げましょう、同じ夢をみましょう、じゃ。救うために殺してやったというのに、今度は、怨霊になりさがるなど、何と浅ましい穢れた女じゃ。穢れた遊女としてではなく、わしのために命を捧げた心優しき乙女として殺してやったというのに。分を弁えぬ下賎な女どもの恨み辛みなど、逆恨み以外のなにものでもない。怨霊となってわしを殺そうとするなど、恩知らずにもほどがあるわっ――

 怒号のように吼えて尼僧の声と自身の恐怖を掻き消しながら、

 古老はかつてと同じように、目の前の女の首を、怨霊の乗り移った尼僧の首を絞めた。

 もうよみがえられないでくれ、泣き声をあげないでくれ。

 半狂乱になり、言葉にならぬ声で喚き散らしながら、尼僧の首を絞め続けた。

 そうして力を失った尼僧が呼吸をしていないのを見ると、呆然として、泣き始めた。口元は笑みで歪んでいた。

 古老は洞窟の奥に死体を捨て置くと、その場を逃げ出した。

 最後まで発せられていた古老の引きつった悲鳴が、洞窟の深部へと反響していき、また逃げていく古老を追いかけるように、その背中を突き抜けていった。


 古老が精神に異常をきたしてしまったのは、その翌日からである。聞こえもしない洞窟からの音に怯え、風の音を恐れ、離れに閉じこもって出てこぬようになった。比丘尼がいなくなり、洞窟からの声が聞こえなくなってからも、古老の耳には風が悲鳴のように聞こえるのだ。その幻聴はさらに悪化し、耳をふさいでいても、耳の中で延々と反響しているような錯覚を起こさせるまでになった。どこまでも追いかけてくる声に、古老は生涯怯えて生きていくことになった。

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