第三話 漁師の語り
序
ようやく村の漁師達から話を聞くことができたのは、男だけが集まる夜の宴席であった。当初話を聞くはずであった、村長から話がいっているはずの男は、女のことを口に出すなり、小声で「何も話すことなどない。村長からの使いなどしらぬ」そう言われて追い返されてしまった。一人一人から件の女の話を聞こうと回ったものの、みな口が重く話そうとはしなかった。他の漁師たちの反応は様々で、「わしは何も知らぬ」と明らかに知らぬふりをする者、「他の者に聞いてくれ」そう言ってそそくさと逃げ出すもの、「女たちの前でその名を出すな」と背後にいる妻を気にしながら追い返すもの、「おれはあんな女には一切関わっておらん」そう怯えたように吐き捨てるものと、一様に話を断られ続けた。そんな中、村でも一目置かれているという腕利きの漁師が、私を夜の席に誘ったのである。
「今宵、村の男衆が集まって飲むことになっておる。場所は漁具が仕舞われている寄り合い所だ。そこにくるがよい。話は通しておこう」
大柄なその漁師は、他の男たちとは違い、薄っすらと笑みを浮かべながら私に言ったのだ。
言われた時刻に行ってみると、既に宴席は酒で盛り上がっていた。数十人の男衆がそこかしこで幾つかの車座を作り、酒盛りをしていた。男たちが集まって酒の魚にするのは、猥談と決まっている。彼らは自分が遊女を買った話、夜這った話、妻とのあけすけな睦言の話などを酒の肴にして猥雑な話を繰り広げていた。
そこへ加わった私を、宴席に誘った四十絡みの漁師が場の男衆に紹介した。聞けば男は、男衆を纏める漁師頭であった。男に請われ、漁師たちの前で各地を旅した話をし、有名な遊郭の話や土地による女の違いなどを披露すると、場は大いに盛り上がった。そこで頃合とばかりに、件の女――この村の洞と社に棲みつき、いつしか消え去った比丘尼の話題を持ち出した。自分が八百比丘尼の伝説を辿ってこの村に辿りついたことを短く話し、その比丘尼がどのような女であったのかを尋ねた。
男達は途端に黙り込む、お互いに目配せをし合い、やがてそれらの視線は一人の男に集中していった。その男は私を誘った漁師頭であった。
「誰も話さぬようなら、俺が話してやろう」
男が代表して話をすることが決まっていたことは、間違いなかったであろう。
他の漁師達が、息が詰まりそうな空気の中でそわそわとどこか落ち着きのない沈黙を続ける一方で、漁師頭は誘ったときと同じ薄い笑みを貼り付けながら、私に語り始めたのだ。
あの女はな、八百比丘尼様などではない。そればかりか、尼僧でさえない。比丘尼を騙り、その巧みな言葉で嘘をつき、お布施を巻き上げながら旅をしていた下賤の女よ。女どもにはその説法を持って、男衆にはその色香で、思う様に惑わして村人たちの心を掴んだ、詐欺商売に長けたいかさま比丘尼よ。
女はそもそもが何処かの遊郭から逃げ出した遊女。尼僧などととんでもない。金品を巻き上げるため、密かに村中の男と通じておった、ただの淫売よ。
あの女が村を訪れ、旅の比丘尼として古びた社に住み込み、おなき洞で成仏できぬ女たちの魂を鎮めているという話を聞いた当時は、誰も近づこうとはしなかった。この村の者達にとって、おなき洞は忌まわしい場所で、近づくことを恐ろしく思っておる。しかも無念のうちに死んだ女の魂が洞窟に渦巻いているなどと言われては、何とも気味の悪い話。
だが、その比丘尼が若い美貌の女であるという噂が出てから、男達も少しずつ社を訪れるようになった。といっても、漁が終わった後、お供え役の女房が帰ってから、物見がてらにこっそりと覗きにいくという感じであった。
女は美しかった。驚くほどにな。透き通るように色白で、唇は血に濡れたように赤かった。齢は三十はいっていなかったであろう。もしかすると二十歳を越えたばかりであったかも知れん。確かに何処かしら妖艶な色気と落ち着きを持った美貌の女であった。あれだけ美しい女は、遊郭でもそう見られるものではないだろう。
わしらも最初の頃は、女たちと同じように世間話や説法などを聞くだけであったが、大半が説法よりも美貌目当てであったな。社を訪れても話など身を見入れて聴かず、相槌を適当に打ちながら美貌を眺め、声を聴きながらぽうっとなっていただけのものが殆どだったであろう。男衆がぼちぼちと通いだした頃には、既に女どもからは崇められるようになっておった。ああ確かにその頃、あの女はただの尼僧ではなく、言い伝えが残されている八百比丘尼様ではないか、などという噂も囁かれるようになっておったな。だが、そのようなことはわしらにはどうでもよかった。
一足先に感化された妻らが、家でも比丘尼の素晴らしさを話して聞かせるのだが、うっとうしいばかりであったな。女どもは、熱に浮かされたように比丘尼様と口にするようになっておった。その話によれば、あの比丘尼は何度も結婚に失敗し、子どもが生まれなかったために離縁されたり、死別で夫を失ってしまったという経験をしているという。あの美貌であるのだから夫になろうというものは多いであろう。だが、あの若さで何人もの夫を失っているというのは、尋常ではない。妙だと思っただけではない。わしらは女房達のうわ言のような話を聞きながら、どこかぞっとするものを感じておった。男の命を食らい尽くす性を持った鬼女ではないか、とな。
ただ、あの女が村を訪れてより、少しずつ妻達が変わっていっておるのが分かったのよ。それは、この夜のような宴の場でのことであった。わしらは月に数度、このような男衆での寄り合いの場を設けておる。仕事の話し合いのこともあるが、大概は最初に話しておったような馬鹿話をして飲み明かすのよ。
その宴で、一人の男が、妻が少しずつ色めきだっておる、という話をした。妻が閨ごとでそれまでとは違う技を使い、男を愉しませ、また自分も愉しもうと積極的になっている、というのだ。しかもその技は、熟練の遊女が使うような性技であるという。さらに少しずつ主導権を握るように、女どもが夫にあれやこれやと懇願するように口を出し、言葉にするようになった、と。
すると、他の男衆も、一斉に口を開き始めた。うちの女房もそうだ、とな。村の女どもが一斉にそのようになるなど、奇妙なこと。だが、理由はすぐに思い当たった。この村の男衆にとっての楽しみは、酒と博打と女郎買いよ。殆どが女郎を買ったことがある。中には女房を女郎として叩き売ってまで女郎に溺れ身を滅ぼした男も多い。閨ごとが一斉に変わったのは、誰かがその技を女房に伝授しておるからに違いない、とな。
だとするなら、それは村に住み着いたあの比丘尼しかおらん。
そこで、その日がお役目だという女房の夫が、早朝、漁に出る振りをして、こっそりと隠れ、女房が入り江に行ったのを見届けると、頃合を見計らって社へと忍び寄ってみた。すると中からは、女房のあられもない声が聞こえてきたのだ。こっそりと覗き込んでみると、美しい比丘尼が手を使い、口を使い、体を使って、遊女が使うような技を教えておったのよ。そればかりではない。比丘尼は十指と舌とを使って女房の体を隅々まで撫で回し、快楽の渦に落としておった。男を喜ばせる技だけではなく、女体の悦びを伝授しておったのさ。
その話を男衆が知っても、女同士の秘め事ゆえ、流石に自らの女房に問いただすものはおらんかった。ただ自らの女房が色めき立つのを密かに待つようになっておったな。
その後であった。あの比丘尼は、かつては遊女であったのではないか――そんな噂が立ち始めたのは。
夫に離縁され、或いは死別されて独り身になった女が、遊女に身を落とすというのは珍しい話ではない。そのときに性技を身につけ、やがて出家して尼僧となったのではないか。出所はもう分からぬ。宴席は猥談と妄想と噂の場、そのような話は幾らでも出てくる。誰かが話したそのような説が、男内ではやがて真のことだと話されるようになったのだろう。
ここでも、あの女に纏わる猥談をようしておったわい。よう知りもせんのにな。若くして何度も結婚していること、閨ごとの手ほどきの手腕から、きっとあの比丘尼はすきものに違いない。出家して尼僧となっておるが、きっと男の味は忘れられぬのであろう。夜這えば案外すんなりと許してくれるやもしれぬ、などとな。
だがな、そんな話も、猥談の場でのよくある妄想よ。妄想と分かっていながら酒の肴として愉しんでおったのよ。わしらはあの女が本物の遊女であるとは思ってはいなかった。
ふふ、先と話が違うというか。
言ったであろう、妄想は妄想として愉しむ、とな。わしらはあの美しい比丘尼が遊女であったという妄想を信じて、愉しんでおったのよ。それが真実であるかどうかなど、確かめるつもりも、その必要もない。
あの女は一緒におって説法などを聞いておると、何処かしら圧倒されてしまうような神々しさを身に纏っておった。僧衣は旅でぼろぼろであるにも拘らず、冒しがたい僧正のような威厳があった。また菩薩のような優しい笑みも、背を正さずにはおれない凛とした佇まいも備えておった。その上で、妙な妖艶さも持ち合わせておるのだから、男も女も惹き付けられずにはおられない。女は不思議な魅力に満ちておったのさ。
そう、男衆もやがてこぞって社に行くようになったな。女房達たちと時を隔てて、通う時間も男女で分けておった。わしらは遊女だと思ってはいなかったが、遊女であるという妄想を愉しむために、通っておったのよ。そしてくそまじめな顔で説法を聞き、ときに博打や女房のことで遠まわしに説教を食らいながら、下のものを膨らませておった。
女たちから? ああ慕われておったな。遊女ではないかという噂もあったが、
それよりも、八百比丘尼様ではないかと信じる者達が多く、敬われておった。わしらもよく女房達から聞かされたものよ。あの女の旅の話や説法を。
だが男衆が通い出してからしばらくすると、また別の噂が聞かれ始めた。あの女は尼僧でさえなく、尼僧を騙る詐欺女ではない、というのだ。言うことが矛盾しておるし、支離滅裂のことが増えておった。時には錯乱して訳の分からんことを口にすることがあるという。それは確かに、社を訪れる男衆の間でも、話題になり始めていることだった。
女がときどき、自分のことが分からなくなってしまう、というのだな。己が比丘尼であることを忘れ、日によって、時によって、全く別の名を名乗って話をすることがある、と。そのときは、まるで別人の魂をその体に降ろしたように、名も、過去も、性格もすべてが変わってしまうのだ、と。
八百比丘尼様として崇められておった女だが、足抜けした遊女だの、比丘尼を騙る詐欺女だの、心を病んだ狂女だのという不穏な噂が広まっていく中で、ある男がわしらの前で、とんでもないことを話したのよ。
――比丘尼様に体を許された。
やはり猥談の場であったな。
男はいうた。ある嵐の夜、雨漏りが心配になって社へといった。以前も雨漏りの修繕をしたことがあり、そのことが気になったのだという。そうして訪れた社で、お布施として持っていった土産の干物を比丘尼様は喜ばれた、そのまま体を許されたのだ、と。
嘘であろう。誰もが笑って言った。猥談の場では話が大きくなったり、話にあわせて嘘をついたりすることはよくあること。その延長であろうと思ったのだ。だがその男は言い張った。間違いではない。確かに、おれはあの比丘尼様に体を許された。いや、むしろ比丘尼様から求めてきたのだ、と。それも一度ではない、何度も許されたことがある。初めて許されたのは、もう二月も前のことだ、とな。
その男は、本当は自らの内に秘めておくつもりであったのだろう。だから二ヶ月も黙っていたのだ。猥談の場でも、最初は遊女の話などを皆でしておったのを、男はいつものように、その隅っこで酒を舐めながらニヤニヤとして聞いておるだけだった。二ヶ月はそうして優越感を得ていたのだろうな。或いはあの女の体を独り占めするつもりであったのだろう。
男は子どもの頃からわしらの間では馬鹿にされておった奴じゃ。漁が下手で、体も小さく、意気地なしじゃ、とな。それが酒が回り、気が大きくなって、もはや自分の内に留めていられなくなったのだろう。
男衆は誰も信じようとはしなかった。馬鹿にされていたその男が、猥談の場ですぐばれるような嘘を吐いただけであろう、とな。だが男は顔を真っ赤にして、必死に嘘ではないと繰り返しておった。
笑ってくれるな。その明くる日から、社に通う男衆は、それぞれお土産をお布施として持参するようになったのよ。信じておらんにも拘らず、何人もの男達が、女を口説き落とそうと金品を持参して差し出すようになった。旅の路銀にして欲しいと最もな理由を付けたり、社の修繕に使ってくれと言ったり、名目はお布施だがな。男衆は何とか口説こうとするようになったのよ。なんせあの美貌だ。別段おかしなことではない。それまで神々しい雰囲気から手を出せなかったが、妙な噂が幾つも広まっていく内に、これはものにできるのではないか、そう期待するものが出てきたのだ。だがあの女は、そんな男衆を笑い、軽くあしらって追い返すのが常であった。その追い払い方も実に堂に入っておったな。
だがな、誰もが諦め半分で通ううちに、一人、また一人と体を許されるものが増えていったのだ。いつもがいつも許されるわけではない。いや大概が笑って追い返される、やんわりと断られる、というのが殆どであった。一度許されたものも、一回こっきりであった。話を聞いてみると、体を許されるのは雨の日の夜と決まっておった。そこで、わしらは雨の日の夜に訪れるものを順番で決め、こっそり女の元を訪れるように決めた。鉢合わせをしてはまずいし、争ってことを大事にするわけにもいかぬ。女房達にばれてしまうのも気まずかろう。
女は夜でも社にはおらんこともあったし、拒まれて戸を開けてくれんことも多かった。だが、殆どの男衆が、一度は許されておったであろう。中には何度か許されたものもおったようだ。美貌だけではなく男を喜ばせる術も持ち合わせるおなごはそうはおらん。みな、何とか許されようと、貴重な自分が順番の雨の夜は、お布施ではすまんような多額の金品を持っていくようになっておったわい。
考えてみると、あれはあの女の思惑通りであったのだろう。大概は拒み、時にじらし、一度だけ許しては、金品の額を吊り上げさせておったのだろう。その証拠に、体を許されるものは金品の額が高いものに多かった。
全く、とんだ淫売よ。あの手練手管、尼僧でなどあるものか。
嘘ではない。わしらは競って閨ごとの話をした。あの女がどのような愛撫をしてくれたか、こちらの愛撫にどのようにして答えたのかを、酒盛りの肴にして、それぞれが自慢しあった。差し出す金品が少なく、未だ許されておらんものは、いつか許されることを願って食い入るように聞いておったな。
――そうであろう、みなの衆。あの女は、比丘尼を騙ってお前たちから金品を巻き上げておった、ただの淫売であっただろう。
漁師頭がそう言うと、車座になっていた男たちは、そう、とんでもない女よ、そう口々に言い始めた。
――寝物語での話も嘘ばかりで、内容もころころと変えておったらしい。
――遊女として仕込まれたのか、男を騙し転がす術にも長けておったようだ。
――金だけ散々貢がされ、最後まで体を許されなかった者もおったのだろう。
――ある男は、身代をつぶすまで金を吸い上げられたらしいではないか。
男達は互いに互いの言葉に相槌を打ちながら、口々に淫売、詐欺女、性悪女、偽比丘尼等と言い合った。
だが、私は妙なことに気付いた。彼らの話がすべて、己自身のことではなく、他人のことの伝聞、噂として語られていることに。
ある男はそう言っていた、ある男からそう聞いた、ある男はそうだったらしい、ある男はそのような目にあったという…男衆の話す全てのことがそうなのだ。しかも比丘尼に体を許された、あの女を抱いたということからして、自らの体験として出はなく、このような猥談の場で他人が語ったものとして話すのである。
さらに私は、男達の表情がそれぞれ奇妙な異なっているのに気付いた。後ろめたそうな表情のもの、下卑た笑みを浮かべているもの、きょろきょろと互いを気にしながら、落ち着きなく頷いて相槌の声だけは大きいもの、怯えたように上ずった声で話すもの、表情を硬くし動揺を隠そうとしているのがはっきりと分かるもの、むっつりと黙り込んで、視線を下にひたすら落とし続けるもの、実に様々な表情を浮かべていた。場の空気はあからさまに緊張し、一方で宴の座は醒めて白けてしまっていた。
白々しさを如実に感じる男衆の話の最中、私の抱いた不信感を察知したかのように遮ったのは、やはり漁師頭の男であった。
どうだい、旅の学者様とやら。まったくこんな話を聞いていると、八百比丘尼様どころではないことが分かるだろう。口には出さずに金品をせびり、夜毎に相手を変えて交ぐわい、このようなことをしてやるのはそなただけ、このような気持ちになったのはおまえ様だけ、どうか他の男達には内緒にして欲しい…そのような嘘を何人もの男達に吐いておったのだからなあ。
あの女はな、何処かの廓から逃れてきた遊女よ。追っ手を逃れるために尼僧の衣を纏い、比丘尼を騙りながら流れてきたのであろう。間違いない。
わしか? わしは行かなかったのよ。一度もな。嘘ではない。許されなかったわけではない。尼僧の服を纏った罰当たりな淫売など、いくら見目がよかろうと、気味が悪くて抱けるものか。
何? 最初に比丘尼に許されたといったものか。はて、だれであったかのう。
そうあれはたしか…おぬしであったかの。
違うか、ではおぬしだったか。いや、違ったか。誰であったかな。覚えておるものはおるか。おらんか。はて、おかしいの。わしも忘れてしまったわい。しつこいな。嘘ではない。忘れてしまったのだ。今ここにはおらぬ男たちもおるのでな、その中のものかもしれん。
何? 何度も許されたものは誰で、一度も許されなかったものは誰か、とな。はてどやつであったろう。誰か分かるものはおるか。
ふむ、あまりこのようなことは話したがらないようだな。まあそうであろう。おおっぴらに自慢するようなことではないからな。
まあ、このぐらいでよいではないか。
私は漁師頭が酒を飲まそうとするのを断り、車座になった男の一人に尋ねた。あなたは比丘尼様を抱いたのですか、と。
――他のものは抱いておったろうが、わしは抱いてはおらぬ。
男はそう答えた。次に同じ質問をした別の男も全く同じように答えた。何と、それが何人も続いていくのだ。
――他のものは抱いておったが、わしは抱いておらん。
一様にその答えが続くのだ。理由を尋ねると、許されなかった、拒まれた、淫売など抱く気はせん、女房が悲しむなど様々であったが、誰もが、自分は抱いてはいない、そう答えるのだ。
中心にいる漁師頭はその様子を見ながら顔をしかめ、苛立ちと狼狽を表情に出した。「旅のお方、そのように詮索するものではない」怒りを含んだ声で、背後から私の質問を遮った。
「女房の手前、まさか己が抱いたとは言えぬのに決まっておろう。あの遊女は梅毒であったのだろう。触れば移る、死の病に罹っておったのだろう。それなのに抱いたと分かってしまっては、妻には触れられぬようになるし、村でも立場が危うくなる。だから言えぬが当然。
或いは…本当に誰も抱いておらんのかもしれん――」
漁師頭は思いついたようにそう言うと、狼狽をおさめ、くすくすと笑いながら続けた。
「そう、あの女は汚らわしい遊女、触れれば病がうつる淫売であった。男衆はみな妖艶な色香と巧みな言葉に騙され、金品を貢ぎ続けておった。しかし誰一人として男たちは体を許されなかったのよ。
そういえば、みな口々に言っておった。思わせぶりな言葉で誘われ、金品を差し出したにも関わらず、体は許されなかった、と。
そうか、今分かったわい。猥談でそれぞれがあの女は淫売だと話して自慢していたが、それは強がり、嘘だったのだろう。誰一人としてあの女を抱いたものはおらんかったのだ。考えてみれば、誰にでも体を許すような汚らわしい女を誰が抱くものか。誘われたとて断るわい。そのうち梅毒が頭に回ったらしく、奇態な言動が増えるようになったが、自業自得よ。わしらを騙し、金品を巻き上げておったのだから。
何? 言っておることが最初と違う? 矛盾しておる、とな。
そのようなこと知るものか。
そう、今、真相に辿りついたわい。村の男たちは誰一人としてあのような汚らわしい女など抱いてはおらぬ。あの女は、自らの体を餌に金品を巻き上げるだけ巻き上げておったのよ。そして結局は誰にも抱かせなかったのであろう。そう考えてみると、ある男が体を許されたという噂は、あの女自ら流したのかもしれん。路銀に困り比丘尼を騙って旅しておったのに、ここでは村が貧しくて思うたよりもお布施が集まらぬ。だから、己はかつては遊女であり、お布施をはずめば体を許される、そんな自身に関する噂を自ら流して、男衆を騙したのに違いない。まったく小ざかしい。遊女だけあって男の心を操るのに長けた女だ。
行方など、誰も知らぬわ。梅毒が頭にまわっておったのだから、とうに野垂れ死にしておるに違いない。わしらを騙し、金品を巻き上げようとしたことの報いよ。
さあ、もう話すべきことは話した。もう終わりだ。他の男衆も、もうあの女について語ることはない――そうだろう、お前ら。
旅のお方、あきらめよ。もうこれぐらいで、下らぬことはやめるのだな。
これ以上俺たちをを勘ぐり、詮索するようなことがあれば、力尽くでも出て行ってもらう。それに、妙な考えを言いふらすようなことがないよう、言っておく。
妙な考えといったら妙な考えよ。
この村の男どもは気性が荒い。村は小さい。そなたの動向は、いつ、何処にいても見張られていると思うがよい。
分かったなら無駄口は聞かず、痛い目に遭わぬうちに、とっととこの村を出て行くがいい。それがお前様の身のためよ。
それから男たちは、私が何を聞いても取り合わぬようになった。白けた宴はすぐに終わった。その後、他に誰もおらぬところで男衆に話しかけても、何も答えてはくれず、あからさまに無視されたり、逃げ出したり、脅し文句で村を出て行くようにけしかけられたりする始末であった。一方で、背後に妙な視線をはっきりと感じるようになった。
私が、一人の漁師に呼び止められたのは、そんな頃であった。背後にいつもとは違う気配を感じたため、林の茂みに分け入って用を足す振りをしていると、分け入っきた方角から物音が聞こえてきた。振り向いて待っていると、背の小さな男が姿を現した。小男はまだ三十歳ほどであり、おどおどした仕草で、私に向かって言った。
「何もしやせん。ただおぬしに話しておきたいことがあるだけじゃ。あの比丘尼様についてな」
話を聞こうとして、「ここでは他の男に見つかるやもしれぬゆえ、少し奥へ行こう」そう言われるがまま、静かに音を立てずに林の奥へと進んだ。私は怯える振りをしていたが、小男の方は本当に怯えていた。振り返り振り返りして後ろを気にしながら、なるべく音を立てないように注意し、私にもそう忠告した。
私たちは二つ並んだ切り株を見つけると、そこに腰掛けた。
小男は辺りをきょろきょろと窺いながら、まだ口を開くのを躊躇っていた。
その男に見覚えがあった。漁師頭の話を聞いたあの夜、俯いたまま押し黙り、じっと下を見つめていた男であった。
小男はこういった。
「あの晩、男どもが言うたことは、すべて嘘よ」
そういったまま再び黙り込む小男に「…と、申しますと、どういうことですか」そう尋ねた。小男の答えはこうであった。
「あのお方は、淫売などではない。遊女でもない。梅毒でもない。あのお方はの、貴い比丘尼様よ。旅をしながら、その体を器として、様々な女たちの魂を体に宿してきた、巫女様よ」
小男は腿に置いたこぶしを握り締めると、決心したかのごとくに顔を上げて私を見た。
――わしが話してやろう。この村の男衆が如何に卑劣な輩か、罰当たりで恥知らずな連中か、教えてやろう。あのお方の名誉を守るために、わしが真実を伝えてやろう。それが、悲憤を抱えたまま消えたあのお方の、供養になる。
そういうと、小男は話し始めた。
村の男衆がいっておったろう。あの女は淫売じゃと、村中の男たちと通じておった、と。そうして金品を巻き上げておった、と。それはすべて嘘じゃ。
比丘尼様は、気高きお方じゃった。男たちの金品もお布施として受け取っていたが、それで体を売ろうなどとは毛頭考えておらなかった。当然じゃ、遊女ではない、旅の尼僧なのだからな。しかし男衆は比丘尼様の美しさに皆参っておった。そしてその姿を見たいがために社に通い、あわよくば気を引こうとしておった。そうして勝手に妄想を膨らませておったのよ。如何わしい妄想をな。
あやつら自身言っておったであろう、宴の晩も。妄想をしておった、と。
しかし如何に気を引こうとしても、比丘尼様は体を許そうとはしなかった。慣れているのじゃろうな、上手い具合にかわし、すかし、時には説法を持って男たちの手を撥ね退けておった。
だがの、たった一人、体を許されておったものがおった。
それが、このわしじゃ。
嘘ではない。他のものは誰も許されなかった。許されたのはわしだけよ。なぜこの醜い小男が、そうお思いか。当然よ。わしもそう思った。だがな、それには理由がある。
わしが許されたのは、全くの偶然よ。ある大雨の夜に、雨漏りの修繕の後が気になってお伺いした夜のこと。社の戸を叩いても、比丘尼様は出てこられなかった。しかし蝋燭の灯りはもれている。雨の中、耳を当てて聞くと、比丘尼様のうめき声、なき声のようなものが聴こえた。わしは驚いて、戸を開けて押し入った。鍵はかかっていなかった。すると、比丘尼様が寝具の上で震えておるのよ。涙を流しながらな。
どうしたのかと近づいていくと。なんとそのまま押し倒されて、唇を奪われた。わしの名を呼んだかと思うたが、違った。比丘尼様は、知らぬ男の名を呼んだ。何か勘違いをしておるのかと思うた。しかし村にはそのような名の男など、私の知る限りではおらぬ。
訳の分からぬまま、わしは比丘尼様に貪るように体を奪われた。
そのまま眠りにつき、目覚めたときには明け方になり、雨は止んでいた。
昨夜の何かに憑かれていたような比丘尼様は、正気に戻っていた。そして、目覚めた私に謝った。
比丘尼様はいうた。大雨の夜にはしばしば「うろ」になるのじゃ、とな。
そう、ご存知か。あのお方はの、うろ、と呼ばれる心持ちになることがあったのじゃよ。比丘尼様が言うには、己が誰か分からなくなり、ご自身の魂を暗渠の中で見失ってしまうのじゃな。呆けたような顔をしているときがそうじゃった。そして空っぽになった体に、ときに別の人間の魂が入り込むことがあった。そうすると、己が全くの別人になってしまうことになる、というんじゃ。
旅かける学者様であるなら、聞いたことはないか。北の果ての霊山には、そういったことを生業とする巫女がいることを。恐らくは、あのお方はその流れを汲むお方。時にうろになることは皆知っておったが、他の魂が入り込むことは知らなかった。そしてそれはなぜか、大雨、大風の夜と決まっておった。
聞けば、巫女特有の病に罹り、自分の魂を見失ってから、それまで降ろしてきた他人の魂や、雨の夜を彷徨う怨霊が、勝手に体に入ってきてしまうのだという。比丘尼様はこう言うた。
「そんなとき、私は全く別人の名を名乗り、他人の過去を衣のように纏うこととなる。すると、願いを遂げられなかった女の無念が心を埋め尽くして箍がはずれ、激情のなすがままになってしまうのじゃよ。そうして一人でいるのが耐えられなくなる、一人でおると死んでしまいたくなるのじゃ…」
比丘尼様はしきりに謝っておられたが、わしは嬉しかった。わしのような男を頼ってくださったことを。それに、わしはおなごと肌を合わせるのは初めてじゃった。村では馬鹿にされておるからな、女たちもわしを相手にはせんのよ。だから、大雨の夜のたびに、わしは社に密かに通った。その度に比丘尼様は、別人の魂を降ろして苦しんでおられた。
そう、大雨の夜には決まって異なる女になっておられた。誰と勘違いしておられるのか、わしのことを様々な男の名で呼んだ。そして自らも色々な名を名乗り、その名を呼んでくれとわしに頼んだ。抱いてくれと泣いて縋った。
淫売だからではない。他人の魂に憑かれておったのよ。巫女としての生業がもたらした病であろう。比丘尼様を器として宿る魂は、世で苦しんできた女ばかり。思い人と添い遂げられなかったもの、夫に裏切られたもの、子が孕めず、仲睦まじかったにも拘らず、離縁させられたもの、夫や姑に虐げられ続けたもの、子を亡くしたもの、親に売られたもの…。比丘尼様はそういったものたちの魂を降ろしながら、その魂を慰め続けてきた。そうして旅をしてきたのだという。
しかも、うろの病は時が経つにつれ、次第に悪くなっておった。頻度も多くなり、そのうち比丘尼様は、大雨の夜にあったことや、うろに陥ったときことなどを殆ど忘れてしまうようになった。別人の魂を降ろしている間に話した事も、聞いた話も、翌朝には殆ど覚えておらんのじゃよ。
比丘尼様は、大雨のうろの間の出来事を、夢だと思うていたのではないか。いや、今思えばあのお方は、この世そのものを夢と思うていたのではないのか。そして眠っている間にこそ、この世とは異なる場所を、時を、現実を生きておったのじゃなかろうか。
別人の魂が入っているとき、時も、時代も、場所も全く異なる所にいるようであった。抱かれるだけではない。殺されかけたことも、一度や二度ではない。殺してくれ、そう頼まれたことも何度もある。いっそ殺されてやろうかと思うたこともある。殺して差し上げようと思ったこともな。幸いにして、女の力では殺されるまでにはいたらなかったがな。首を絞められ、朝まで気を失っていたこともある。
ああ、いっそ死んでもいいと思っておった。
比丘尼様の寝物語を聞いていて、私は思ったのじゃよ。
幾人もの男との、幾人もの女の寝物語が、比丘尼様から語られた。
私はその話の虜になっておった。会うたびに名を変える女の口から語られる甘い想い出、睦言、一夜の夢。
せつのうなって、寝物語の続きを聞きたくなった。その物語が何処へ行くのか、その結末を知りとうなった。話を聞きながら、わしはいつも考えておった。
比丘尼様は誰の魂を降ろしているのか、誰の面影をわしに見ているのか、わしはいったい何と名乗ればよいのか、そして比丘尼様を何と呼べばよいのか。
わしは幾人もの男の名で呼ばれた。幾人もの女の名で呼んだ。夜毎に違う夢を見た。
だがのう、名が変わっても、結局は女の夢の行く先は決まっておる。それは、一人の男と、愛しい子らとともに睦まじゅう生きていこうという、ただそれだけよ。互いを労わり、慈しみ、ともに喜び、悲しみ、そして苦しみも、楽しみも分かち合おう、ともに歩いてゆこう…ただそれだけ。
わしは大雨のたびに、比丘尼様の元に通い続けた。寝物語の続きを、その結末を知りたかったのじゃよ。
うろで他の魂を宿されるとき、比丘尼様はいつも言うておった。己が誰か分からなくなる、それが恐ろしい。だから私の名を呼んでおくれ、と。だから私の体をきつく抱きしめておいてくれ、私をその言葉で、その手で象って欲しい、と。もっと聞かせておくれ、私をいかに好いているのか、もっと聞かせておくれ、私と、どのような未来を紡いでくれるのか、と。
そして最後に決まって言うのじゃよ。
明日の朝、ここから私を連れ出してはくれぬか、この暗闇の中から…と。
だがの、悲しいことに、比丘尼様には、決してその明日はやってこないのだ。夜に閨ごとで交わした約束は、次の日には忘れておるのだから。比丘尼様の時は、その夜で止まっておるのよ。うろの夜のたびに、約束を交わした同じ一夜を、繰り返し続けるのよ。
わしはの、比丘尼様に、明日を与えたかった。そして己もその明日を共にしたかった。だが、無理じゃった。あのお方は最後まで、閨ごとのときにわしの名を呼ぶことはなかった。そしてわしも、比丘尼様の本当の名にたどり着くことが出来なかった…。
わしが通うようになってしばらすると、不穏な噂が男衆の間で広まり始めた。
あろうことかあのお方が、比丘尼を騙る遊女であり、淫売だというのだ。
いや、わしではない。宴の席で漁師頭が言うたのは、また別の男衆のことであろう。わしは比丘尼様とのことを、誰にも話さなかった。独り占めしたかったのだ。だが、一体誰が広めたものか、比丘尼様は遊女であるという噂が広まり、しかも一夜をともにしたという噂まで囁かれ始めたのだ。そう、それがおかしなことに、誰が噂を最初に話したのかはわからんのじゃよ。恐らくは、あの猥談の宴席でのことであろう。わしはかつては殆ど加わることはなかった。なぜか? 行ってもあからさまに嫌な顔をされるだけ、馬鹿にされるだけだからよ。加えてもらえぬといった方がいいじゃろう。はっ、別に行こうとも思わなかったわい。
誰もが己の妄想や欲望を、あたかも本当のことであるかのように、これ見よがしに吹聴し合う下衆な集まりよ。その席で、誰かが勢いで出任せ話をしたものが、出所もうやむやのまま広まったのであろう。
嘘ではない。比丘尼様は男衆をすべて突っぱねておった。雨の夜に別人の魂を宿して男を求めるのは、わしだけしか知らぬ秘密であった。口止めもされておった。都合のよいことに、大雨の夜には比丘尼様を訪れるものは流石におらん。なぜなら船や漁具に万一のことがあってはならんため、嵐や大風、大雨の夜はみな待機しておるからな。
やがて男衆の間で、わしも体を許されたというものがちらほらと出てきおった。ふざけるなと思った。それが嘘であることは明らかだったからじゃ。あやつらはの、比丘尼様を肴に淫らな妄想を膨らませておったのよ。そして酒に酔った勢いで、ついに俺も許された、そのような嘘をつくようになっていたのじゃよ。聞いている者たちも、それが嘘であるかどうかなど分かりはせぬ。いや、半ば嘘であろうと分かっていたとしても、分からぬ振りをして信じた方が面白いのだからな。
そうして男衆の中で、比丘尼様と一夜をともにしたと騙るものたちが増えていった。そやつらは己の遊女との体験をもとにして、比丘尼様を口説き落とした武勇伝として騙ったのだ。そうしてあやつらは、比丘尼様を穢したのだ。
はらわたが煮え繰りかえるような思いがしたな。じゃが、優越感もまた持っていた。わししか比丘尼様を抱いたものはおらんのだからな。他の男の話は、すべて虚妄、虚栄の類よ。かといって、それを自慢として吹聴することはできぬ。もしもそんなことをしてしまえば、大雨の夜に男衆が社を訪れるようになり、わしが近づけなくなってしまう。わしはかつてはは拒み続けた猥談の宴に、他の男衆に疎まれながらも顔を出すようになっておった。比丘尼様に関してまた妙な噂が広まるかもしれんと思ったからじゃよ。半ば優越感を抱え、半ば怒り狂いながら、わしはいつも片隅でじっと耳を澄ませておった。下衆な噂や嘘の自慢話が途絶えるのを期待しながらな。
だがの、男たちの猥談の場での比丘尼様への妄想は膨らむばかりであった。聞きながら、わしは恐ろしくなった。妄想の話を信じた愚かな男どもが、比丘尼様にちょっかいを出そうとしてはすげなく断られておった。金品を積めば許されると信じた馬鹿も多くいた。やつらは勝手な思い込みのなかで比丘尼様を貶め、恨むようになっておったのよ。
そんな男どもの酒宴での比丘尼様への言葉は、次第に怒りと憎しみを込めたものになり、熱を帯び、やがては殺気さえ纏わせるようになった。
放っておけば、早晩、暴発してしまうのではないかとさえ思われた。
――他の者は許したのに、なぜわしらは許されないのだ、この淫売が、とな。
いよいよ危ないと思い、比丘尼様に忠告して村から逃げるように言おうと思っていた矢先であった。男たちから、恐ろしい話を聞いたのだ。
ある猥談の場で、あやつらは言うたのだ。
比丘尼様を犯そう、とな。
これだけ貢いでおるというのに、許されぬというのはおかしい。貢がずとも許されるものも多いというのに、淫売が、金品を引っ張れるだけ引っ張るつもりなのであろう。浅ましいことよ。比丘尼様を抱いたと騙るものたちが、金品を貢いでいるのに許されない、そう不満を抱くものたちを焚きつけ、恐ろしいことを言うた。
――どうせあやつは遊女、穢れた淫売。何人かで無理やり犯したとて、文句は言わぬであろう。わしらだけ、いい思いをするのも、他のものに申し訳ない…。
分かるか、この言葉の背後にある醜さが。そういったものたちも、誰一人として本当に比丘尼様を抱いたものなどおらぬのだ。そやつらは、ただの噂によって比丘尼様を淫売へと落とし込め、さらには妄想に煽られたものたちを理由にして、自らも犯そうとしておったのよ。そして欲望を煽られたものも、煽った者達の比丘尼様を抱いたという話は、半ば嘘だと分かっておったのじゃよ。
計画はおぞましいものであった。普段は比丘尼様と普通に接しておる男どもが立てられたものとは思えぬ。奴らとてさすがに罪に問われるわけにはいかぬし、噂が広まっても困る。そのため決行の日には、素性を隠すために月さえ出ない暗闇の夜を選ぶこと。声を出してしまっては誰であるかばれるし、また夜中に大声を出されても困るため、大雨が降っていること。そして裏切るものが出ぬよう、何と、この企てに男衆みなで加わることを強制されたのじゃよ。
わしは心底恐ろしくなった。
まず夜中に社を訪れると、比丘尼様に村を出るようにお伝えした。このままでは男衆が暴発してしまう。いつになるか分かりませぬが、次の大雨の夜が決行の日。一刻も早く、この村から逃げてくだされ、とな。
すると比丘尼様は、わしの言葉とともに突然うろに入られた。大雨も降っておらぬというのに、どういうわけか、わしを激しく求めた。
そして言うたのだ。
――ともに村を出ましょう。お腹の子と一緒に、三人で生きていきましょう。
一瞬、わしが言われたのかと思うた。自分の子ができたのかと思い、愕然とした。だが、違った。また比丘尼様は別人になっておられたのだ。比丘尼様が名乗られたのは、しばしば出てくる女の名であった。
次の日の朝、昨晩のことを話したが、比丘尼様はやはり覚えてはおられなかった。とにもかくにも一刻も早く村を出て下さるように懇願したが、なんと断ってしまわれた。比丘尼様はこうおっしゃったのじゃよ。
――もう少しで、何かを思い出せそうな気がする。この村で、何かを取り戻せそうな気がするのです、と。
その意味がわしには分からんかった。比丘尼様も教えてはくれんかった。本人も、何を思い出せそうなのかよく分かっておらぬようであった。だがわしが何と言って説得しても、比丘尼様は聞き入れては下さらなかった。これまでよくしてくれた村の男たちを信じたい、そう言ってな。
仕方がなくわしは、噂を流した。
何の噂か、じゃと? それはのう、比丘尼様は梅毒じゃという噂よ。
何のため? 決まっておる、比丘尼様を守ろうとしたのじゃよ。
比丘尼様が淫売だという噂は既に広まっておった。そこで、さらに梅毒であるという噂を広めたのだ。苦渋の決断であったが、他に方法が思いつかなかった。梅毒という業病のことは、遊女を買うものたちはみな知っておる。その恐ろしさもな。それを知れば、比丘尼様を全員で犯そうなどというおぞましい計画はなくなるであろう、そう思ったのじゃ。比丘尼様の奇矯な行動も梅毒のため、そんな噂を流したのじゃよ。
噂は思ったとおりすぐに広まった。
いつ大雨の夜が来るか分からずびくびくしておったが、その日が来る前に、男衆は全員が知ることになった。そのまま計画はなくなるはずだった。実際に、噂が広まってからの次の会合で、計画は中止することに決まった。男衆全員で梅毒のものを犯そうなど、村そのものが滅びかねん狂気の沙汰。当然だ。わしは心底ほっとした。何せこのわしも、計画に加わることを無理やりに約束させられておったのじゃからな。わしはすぐに比丘尼様に計画が中止になったことを告げた。あの気丈なお方も、流石に胸を撫で下ろしておったな。
だが…終わらなかったのじゃよ、それでは。
中止の決定は下ったものの、それでは男衆の妄想は消え去ることなく、剝き出しの欲望は止められないところまで膨れ上がっていたのじゃ。ちょっとした刺激で破裂するほどに。
計画中止が決まった次の酒宴の夜こそが、大雨であった。わしは間一髪で間におうたと安心しておった。大雨であるためいつもなら酒宴は取りやめになるはずだったが、漁師頭の声掛けで数人の船番を残して集まった。みな酒を食らい、いつものように猥談に話を咲かせておった。すると、漁師頭が言ったのだ。
あの計画を埋もれさせるは惜しい、とな。それまで騒々しかった座は静まり、男どもは一斉に据わった目に変わった。誰もが酒の勢いを借りて、口々にそうだといい始めた。
みながその眼に、狂気の光を帯びていた。わしはひとり抗った。
村が滅んでしまうぞ、それに、そのような罰当たりなことをしてはまずい、とな。すると男どもは言うた。
あの女には天罰が必要だ。たとえ梅毒の呪いを受けようとも、騙され、欺かれた男たちの無念をはらすために、裁いてやらなくてはならん。
にわかには信じられん言葉であった。背筋が寒くなった。鼓動が早くなった。自分はこの場にいるのだから、もう知らせにいく暇も手段もない。
男たちは立ち上がると、大雨の中を駆け出していった。わしはどうすればよいかを必死に考えながら、その後をついていった。
その夜のことは話したくはない。思い出したくはない。
…わしは、何もできなかった。
その一夜を境に、比丘尼様は、決定的に気が触れてしまわれた。
そう、比丘尼様がおかしくなってしまわれたのは、梅毒のせいなどではない。あのお方は遊女などではなかった。己が誰か分からぬどころか、後戻りができぬほどに錯乱し、狂うてしまったのは、男どもによって暗闇の中で犯されてしまってからよ。
その夜から、男どもは一切、比丘尼様に近づかなくなった。狂うてしまったのが自分たちのせいだと気づいていたからだろう。だが、梅毒の毒が頭に回ってしまったのだろうと、あやつらは口々に言う。それを信じているものもいるだろう。梅毒を恐れていたものもおるだろう。
だが、あのお方が遊女などであるものか。他の男がなんと言おうと、男どもに幾度穢されようと、あのお方は淫売などではありはせん――。
小男は話しながら憤り、涙を流していた。
何とか真相を知ることができたと思ったとき、がさりと音が鳴り、茂みの中から盗み聞きをしていた一人の男が現れた。
音を耳にしてびくりと震えた小男は、振り返るなり、「ひっ」と小さく悲鳴を上げて仰け反った。その視線の先にいたのは、私の予想通り、あの漁師頭であった。
「作り話は終わりか、この覗き男が」
恐ろしい形相で、漁師頭は小男を睨み付けながら言った。
――己だけ呪いから逃れようなどと、許されることではないぞ。
漁師頭のその言葉は、また私に新たな疑問を抱かせることとなった。
木々の向こうから姿を現せた漁師頭は、小男を思い切り殴りつけた。私に向き直り、一瞥すると。倒れて怯える小男に向き直って言った。
「この小男はな、夜に社を夜這う男衆に、見張り番として付いておったのよ。ことの最中に村の女や他の男が訪れては困るため、社の外で、遠くから灯りを持ったものが近づいてこないかを見張っておった。そして社の中で繰り広げられる痴態に耳を傾け、中を覗きながら、興奮しておったのだ。この小男はそうした男よ。女たちからは見向きもされんし、自ら口説こうという勇気もない。好いた女が他の男に抱かれているのを見て興奮するたちの男なのだからな。
この男が聞いていた寝物語はな、社の外で盗み聞きしておったことよ。あの淫売が男衆にしていた夜伽話を、この男は集めておったのだ。そしてそれを、あたかも自分がされたように妄想しておったのだ。他の男たちとの閨ごとを、さも己がしていたように思い込んで愉しんでおったのよ。自らは夜這う勇気もないくせにな。
わしらがみんなであの女を襲ったじゃと。嘘も大概にせい。梅毒で穢れた遊女を、誰が抱こうなどとするものか。その上、己だけは手を出さなかったなどと、都合がいいにもほどがある。
わしは知っておるぞ、おまえがあの夜、暗闇の中で何をしたのかを。おまえこそ、あの女が狂うことになった切っ掛けではないか、おぬしこそあの夜――」
漁師頭は錯乱気味に一気にそこまで言うと、はっとした表情で私を見て、言葉を切った。もごもごと何かを言いかけてやめると、私に向かって狼狽しながら言った。
「ふん、旅の学者様だか知らんが、くだらぬことを嗅ぎまわるのはやめるがいいと、そう忠告しておいたはず。村長からは乱暴なことは決してせぬように言われておったが、まだよく分かっておらぬようだな」
そして、漁師頭は小男に向き直ると、震えて頭を抱える腕の上から、激しい蹴りを何度も叩き付けた。小男は泣きながら、じっとそれに耐えていた。小男の襟元を掴んで片手で軽々と持ち上げると、私に見せ付けるように、小男の顔を幾度も幾度も殴りつけた。小男が意識を失って抵抗をやめるまで、その暴力は続いた。
襤褸雑巾のようになった小男をようやく解放すると、私に向かって荒い息を吐きながら言った。
「今日、この小男から聞いたことは忘れろ。決して他でいってはならねえ。誰にもな。もしも破れば、この小男ぐらいじゃすまねえぜ。俺達は、余所者を殺すことなんてなんとも思っちゃいねえ。海で死んだといや誰にもわからねえし、村人同士で口裏なんざ、幾らでも合わせることができるからな。とっととこの村から出て行くんだな」
そう言い捨てると、漁師頭は息も整わぬまま逃げるようにその場を去っていったのだった。
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