第11話 ワラビーの涙
「焼く」
言うと、えみはレンジにかけていたフライパンに刻んだにんじんを放りこみ、それを焼き始めた。
流しのふちに立っているワラビーは、その様子を楽しそうに見ている。
えみがざしきわらしにワラビーという名前を付けてやったのが、ワラビーにとってとてもうれしいことだったのは、だれの目から見てもまちがいなかった。
ワラビーは空き缶コンビとも、おくれてやってきたナツとも仲良くなったが、えみには特別によくなついた。
何かをうまくやりとげることができたと感じるたびに、ワラビーはえみの顔を見て、おほめの言葉を待った。
えみが小さくうなづくだけで、くるくると回って、全身でよろこびを表現した。
何かがうまくいかなかったり、失敗をしてしまった時、やはりワラビーはえみの顔を見、あるいはがっくりとうなだれてえみの前に立ちつくし、おゆるしの言葉を待った。
えみがそっと頭をなでてやると、ワラビーは元気を取りもどした。
良くも悪くも、それは単純なワラビーに似合いの行動だと、だれもが感じた。
しかし、より面白いのは、えみの反応の方だった。
えみは、この突然できた小さな友達に対して、もうれつな勢いで料理の基本を教え始めた。
とは言っても、ワラビーの体の大きさでは、料理に使う道具は大き過ぎて、料理のやり方を練習するというわけにはいかなかった。
だから、ここでえみが熱心に教えたのは、料理にかかわる言葉だった。
料理の材料を見せ、さわらせ、においをかがせ、食べさせながら、それの名前を何度も言わせる。
ワラビーは相変わらず三文字か四文字くらいの言葉しか話せなかったけれど、そのはんいで、えみが差し出す物の名前をどんどん覚えていった。
えみが教えたのは、料理に使う材料の名前だけではない。
「さとう」だとか「塩」だとかの、料理に味をつけるための調味料の名前、「切る」「にる」「混ぜる」といった、料理にかかわる動作を表す言葉、「甘い」「からい」「すっぱい」「固い」「やわらかい」などの味や歯ごたえに関する言葉、「たまごやき」や「焼き鳥」「すぶた」などの出来上がった料理の名前を表す言葉などなどを、ほとんど手当たり次第に教えていった。
それぞれの教え方も、ただ言葉を教えるだけではなく、実物を見せ、さわらせ、食べさせ、やってみせながら、まるで料理という名の新しい世界を道案内しつつ旅をしているみたいだった。
その様子を見ながら、もしかしたらこれは、何年か前にえみがその母とともにたどった道を、今度は立場を変えてもう一度たどってるのかもしれない、とナツは思った。
「これ、何?」
フライパンの上で、いい色に焼けてきたにんじんをひとかけらはしでつまんでみせて、えみはワラビーに聞く。
顔の近くで見せ、においをかがせながら。
「んじん」
「そう。これがにんじん」
うなづいて、えみは口を開いて見せる。
それを見てワラビーも口を開く。
えみは、その口ににんじんを入れてやり、問いかけるように首をかしげる。
ワラビーが答える。
「あまい」
「そう、あまい。でもね」
そう言うと、えみは調味料入れの中からさとうつぼを取り出し、それをひとさじ小皿へ。
自分の小指をなめてさとうをまぶすと、ワラビーの口に入れてやる。ワラビーが言う。
「あまい」
「そう。にんじんはあまい。さとうもあまい。でも、にんじんのあまさは、さとうのあまさとはちがう。でしょ?」
にこりとえみがわらって見せる。
ワラビーが神妙な顔でうなづく。
そんな時だった。
玄関のドアがバタンと開け閉めされる音が聞こえ、小さな足音が家の中に入ってきたのは。
「あ、どうしよう?」
そんな視線が四人の間で音もなくからまるが、そんなこととは関係なしに、リビングのドアが開き、二つの小さな人影がキッチンをのぞく。
「ただいま。王子君、呼んできたよ」
「おじゃましまあす」
とらと王子君だ。
「ええと、お姉ちゃん」
「小人さん?」
二人はリビングとキッチンのちょうど真ん中に立って、流しのふちに立っている、身長三十センチと少しの人影に目をみはっていた。
「ええと、つまり、あの小人さんはざしきわらしってようかいの一種だけど、ざしきわらしはこわいようかいじゃないから、こわがることはないってことだよね」
「で、ざしきわらしは「ワラビー」って名前を服部さんにつけてもらって、今、人間の言葉を覚えるための特訓をしている。こんな感じで合ってますか?」
びっくりして体が動かなくなってしまったとらと王子君にワラビーのことを説明するために、ナツと寛は二人をたたみの部屋に連れて行かなければならなかった。
ワラビーのいるところでどんなに一生懸命に話しても、二人の目はワラビーに吸い付けられて、集中して説明を聞くなんてこと、できやしないからだ。
「その『服部さん』ってのやめない?うちのお姉ちゃんのことだって、すぐにピンとこないよ」
「え、そう?でも……」
王子君は困ったように上級生二人の顔を見た。
「いいって、いいって。あいつの呼び名なんて、ワラエーでいいんだよ」
寛がふざけたようにわらいながら言った。
「こら、一年生におかしなこと教えないの」
そう言って、ナツは寛の頭にげんこつを入れるふりをした。
寛がうひゃあ、と言ってそれをよける。
「でも、確かに『服部さん』はピンとこないかもね。学校ではそういう風に呼ばなきゃいけないっていうのは分かるけど」
「そうですか?じゃあ、なんと呼んだらいいでしょうか?」
「王子君、ぼくのことはとらちゃんって呼ぶじゃない」
「だったら、えみのことも『えみちゃん』でいいんじゃない?」
「ううん、『えみちゃん』かあ……」
「だめなの?」
「いや、だめっていうんじゃないんですけど……」
「おい、くっ……いや九太、はっきり言ってやれよ。女子に『ちゃん』付けはイヤなんだって」
寛が横から割りこむ。
「わしだって、女子に『ちゃん』付けはかなわん。じょうだんじゃない」
「そうなの?」
ナツが王子君の困り顔をのぞきこむ。
「『ちゃん』付けなんて、しりのあたりがムズムズしてかなわんって、はっきり言ってやれ、九太」
「いや、ええと、ううんと……」
王子君がどう返事をしていいか困っていると、たたみの部屋のふすまががらっと開いて、問題の『えみちゃん』がおぼんを持って入ってきた。
おぼんには、麦茶の入ったコップが六つ乗っている。
足元には、ワラビーがちょこまかとついてきている。
「説明はだいたい終わったかな?」
えみはおぼんを机の上に置くと、みんなに麦茶を配っていく。
「ありがとうございます。ええと、えみちゃん」
今にも消え入りそうな声で、えみを呼んでみる王子君だが、えみは気付いた風もない。
「どういたしまして、王子君。ええと、説明が終わったら、さっきの玉子焼き、冷めちゃったから、次々チンして持ってこようと思うんだけど、いい?」
「待ってました!作るだけ作らせといて、ちっとも食べさせてくれんけえ、わしは腹ペコでぶっ倒れそうじゃ」
寛の返事を受けて、えみはキッチンに声をかける。
「もういいって!玉子焼き、どんどんチンしちゃって!」
「あら、二人は名コンビって感じじゃない、えみ?」
ナツがにやにやしながらちゃちゃを入れる。
えみはあわてたように言い返す。
「もう、わけわかんないことを言ってないで、なっちゃんも手伝って!」
「はいはい。別に照れなくてもいいのに」
そんなやり取りを残して、二人の少女はたたみの部屋を出て行った。
入れ代わりに空がたたみの部屋にもどってきたが、とらと王子君は、ワラビーに興味津々だ。
最初のうちこそ緊張してその場から横目で見るだけだったけれど、そのうちに、もじもじとおしりを動かして近づき始め、五分もしないうちに、ワラビーを自分の手の平に乗せてじっと見つめたり、ワラビーの両足をつかんで逆さまにぶら下げ、ワラビーが困ってじたばたする様子を観察するようになった。
「おい、チビ助ども、あんまりいじりまわすと、弱って死んじまうぞ」
これまで何度も虫達をいじり過ぎて殺してしまった自分の経験から空き缶コンビが忠告するが、年少組の耳には入りはしない。
困ったものだ。
案の定、忠告から十分もしないうちに、空き缶コンビはワラビーがべそをかいているのを発見し、あきれてしまうのだ。
ほら、言わんこっちゃない。
仕方なく、空はワラビーをなだめるためにリビングへ向かう。
もちろん、女子の応援を期待してのことだ。
年少組に説教するのは、寛に任せておくことにする。
……けれども、この空き缶コンビの観察は、ずいぶん雑な見方をしていた。
いやいや。
最初は、彼らもよい先ぱいをしていたのだ。
自分達もワラビーの相手をして遊びたいと思っていたのをがまんして、年下の二人にそのチャンスをゆずってやったのだ。
それに、後はい達の行動が目に余るようになれば、それについて忠告することもできていたんだ。
ただ、横目でおチビさん達とワラビーのじゃれ合いを見張りながら、ついでに始めた、明日からの一泊二日で行く海水浴の話に、つい夢中になってしまったのだ。
だから、最初は楽しそうだったワラビーの表情が、とちゅうから急にくもり始めたことに気づけなかったし、ぐうぜん王子君のおでこにさわったワラビーが、熱いやかんでもさわったみたいに手を引っ込め、そうっと、もう一度おでこにさわったとたんに泣き出してしまったのも、見逃してしまった。
どうにも情けない話だけど、でも、どうにもならなかったし、結果から考えれば、どうにかしてはいけなかったのだ。
ワラビーが王子君のつらさに気づくことは、とても大切なことだったのだから。
「きゅうた。きゅうた」
空が泣いているワラビーをリビングに連れてきた時、えみとナツは玉子焼きを次々に電子レンジに入れてチンしているところだった。
ワラビーを天井裏からおびき出すために、みんなで次々に焼いたあの玉子焼きだ。
新しいのが焼けるたびに、焼き立てをたたみの部屋の机の上に持って行き、元から置いてあった玉子焼きはキッチンに持って帰る作戦だったので、今、キッチンの調理台の上には、大きいのや小さいのや、うまく焼けたのやらこがしてしまったのやら、大きな皿にいくつものっているのやら小さな皿にひとつだけのっているのやら、様々な玉子焼きが、それこそ所せましと並んでいる。
冷めてしまったそれを、順番に温め直していたのだ。
そこへ空に連れられてワラビーが泣きながら現れたのだからびっくりした。
「なっちゃん、ここ、ちょっと任せるね」
そう言って、えみはリビングに飛んで行った。
できたばかりの料理の一番弟子が泣いているのだ。
師しょうとしては、放っておけない。
「どうしたの?」
たずねるえみに空は答えた。
「とらと九太が、ふざけて逆さづりにしたりいじりまわしていたんだ。それでどっか痛くなったんじゃないか?」
しかし、ワラビーは首を横に振って言った。
「きゅうた、きゅうた」
「きゅうたって、王子君のことかな?」
「うん。おれも寛もきゅうた、きゅうたって呼んでたから、覚えたんだと思う」
「ワラビー、きゅうたって、王子君のこと?」
えみが問いかけると、ワラビーは泣きながらうなづいた。
「九太君に、痛いことされたの?」
かぶりを振るワラビー。
「九太につらいことを言われたのか?」
空の問いかけにも、やはりかぶりを振る。
二人は顔を見合わせた。
すると
「きゅうた。なみだ。きゅうた。なみだ」
ワラビーはそんな風に言い出した。
えみがまゆを寄せる。
「涙って言葉、だれか言った?」
「いいや、だれも言ってないと思うけど……」
「ワラビー、九太君のせいで涙が出たって言いたいの?」
えみの言葉に、ワラビーはやっぱり首を横にふる。
えみがワラビーにたずねているうちに、空はたたみの部屋のふすまを開け、首を突っ込んでたずねる。
「おい、ここではだれも、涙って言葉は使ってないよな?」
三人がおのおの不思議そうにうなづく。
空はリビングにもどってそれをえみに伝える。
ますますもって、意味が分からない。
二人の後を、温まった玉子焼きをおぼんにのせて、ナツがたたみの部屋に向かうが、そっちに目を向ける余裕はない。
「涙って、この涙?」
えみは、今もワラビーの両目からあふれ続ける涙を親指でふき取ってやりながら、確認するためにたずねた。
けれど、これにもワラビーはかぶりを振った。
「きゅうた。こころ。なみだ。きゅうた。こころ。なみだ」
言うたびに、ワラビーの両目から大つぶの涙がぼろぼろとあふれてくる。
いくらえみがふき取ってやっても、追いつかない。
「涙なら教えられても、心って、ちょっと教えにくい言葉だよね」
空になったおぼんを持って引き返してきたナツが、ワラビーの言葉を聞いて立ち止まった。
えみは、自分なら心という言葉をどう教えるだろうかと考え、右手を自分の胸にそっと当てたが、すぐにかぶりを振った。
心って、そんな仕草で分からせることができるようなものじゃない。
今、ワラビーが流している涙は、ふつうの感じ方ではたどり着けない涙だ。
えみは、そう強く思った。
「ワラビー、涙は、ワラビーの涙なの?」
ワラビーが首を横に振る。
やっぱり。
「涙は、九太君の涙なのね?」
ワラビーが強く強くうなづく。
何度も何度も。
「涙は、九太君の心の涙なのね?そうでしょ、ワラビー?」
ワラビーがえみの胸に飛びこみ、何度もうなづきながら、えみを強くだきしめた。
小さな子どもが、母親にすがりつくように。
次から次からわいてくる涙で、えみのTシャツはすっかりぬれてしまった。
「そうだね。九太君の心は、今でも泣いているんだよね」
えみは、ワラビーをだきしめ返した。
強く強く。
いつの間にか、えみの両目からも、次々と涙があふれていた。
「悲しいね、悲しいね。こんなに悲しいのは、放っておいちゃいけないわ。何とかしなきゃいけないよ」
あふれてくる涙をぬぐおうともせず、えみは、ぐいっと顔を上げた。
立ちつくして、自分の涙をハンカチでふいているナツがいた。
あぐらをかき、両腕を組んで、怒ったような顔をしている空のほほにも、ひとしずくだけ涙が光っていた。
たたみの部屋にいた寛、とら、王子君が、ふすまを開けて、心配そうにこっちを見ていた。
ワラビーが、えみの胸にうめていた顔を上げて、えみの顔を見た。
えみは、ワラビーの顔を見下ろし、にっこりとわらって見せた。
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