第6話 キッチンはてんやわんや

「とら、ちょっとお使い頼まれてくれない?」

 えみがリビングに向かって呼びかけたのは、ナツと空き缶コンビがずらりと並んだ生玉子に次々とめんつゆを入れている時だった。

「ん?何のお使い?」

「王子君をさそってきてほしいの。『いっしょにおやつを食べない?』って」

 王子君は、まだ三才にもならない時分から、とらとは大の仲良しで、王子君が小学校に来られなくなってからも、とらとはよく遊んでいた。

 王子君のお母さんにしたら、小学校に行けなくなった息子が、一つ年下の友達とは遊べることが、ずいぶんと安心の材料になっているのだと、えみは母さんに聞いたことがある。

「いいけど、なんでわざわざ?」

 言いながらとらがキッチンに顔を出す。

「ちょっと調子に乗り過ぎちゃって、この量、いくら何でも五人じゃ食べ切れないでしょ?」

 調理台の上を指し示すえみ。

 そこには、二十を超える数のおわんがところせましと並んでいる。

「一年生のおちびさんが一人増えたところで、あんまりじょうきょうは変わんないと思うけどね」

 とらが肩をすくめる。

 が、そう言いながらも足は玄関に向かっている。

「生意気言ってんじゃないの。あんたの方が年下でしょうに」

「はいはい、お姉様のおおせの通りにいたします」

「お願いね。寄り道しないのよ」

「はあい、行ってきまあす」

 玄関から出ていくとらを見送って、キッチンへもどってきたえみだが、小さく舌を出した。

「いっけない。言い忘れてた」

 視線の先では、ナツと空き缶コンビが一心不乱に玉子を混ぜていた。

「ええと、ちょっとストップ」

 えみの声に、三人が玉子を混ぜるのを中断し、えみの方に顔を向ける。

「なっちゃんたら、すごいなあ。おうちでひそかにおかし作りのしゅぎょうをしてたのね」

 えみの言葉に、ナツが顔を赤くする。

「しゅぎょうだなんて大げさな。えみのお料理に比べたら全然だめよ」

「いやいや、玉子をあわ立てる手つき、なかななかなか様になってたわよ」

「ありがとう。でも、私、本を読むのにいそがしくて、おかし作りを始めたのもつい最近なの。だから、上手にできなくて恥ずかしいんだ」

「恥ずかしがることなんてないって。始めたばかりの頃は、だれだって失敗するものだし、うまくできなくて当たり前よ」

「そう?えみも初めは失敗したの?」

「いやいやいや。初めも何も、今でも失敗の山を作りながら毎日お料理してるのよ」

「そうなの?」

「私の場合、失敗してる数が半端じゃないから、その分経験値かせいでるってのはあるかも。私がお料理が得意だってみんなが思ってくれてるんだとしたら、それは見えない失敗の山のおかげなのよ」

「そっかあ。何だか安心しちゃった。でも、私がおかし作りにちょうせんしてるって、どうしてわかったの?」

「だから言ったじゃない。玉子を泡立てる手つきがいいって。ただ……」

 言いにくそうにするえみ。

「玉子焼きを作る時には、あんまり張り切って混ぜない方がいいんだ」

「げ、まじかよワラエー?」

「わし、ドーナツがすげえ素早くスナップきかせて混ぜてるんで、負けるわけにはいかんて、手が痛くなってるのを隠して根性で混ぜとったのに」

「あ痛、そうなの、えみ?」

 ナツがばつの悪そうな顔をする。

「うん。おかし作りの時のはホイップって言って、玉子に空気を混ぜ込むためにするのね。ここで、しっかり混ぜておかないと、焼いた時にふわっとふくらんでくれないの。だから、やわらかくておいしいおかしを作るためには、しっかり混ぜて、玉子に空気を含ませることはとっても重要。でも、玉子焼きを作る場合には、あまり混ぜない方がいいの」

 言うと、えみはおわんを一つ引き寄せ、おはしでかちゃかちゃっと簡単に混ぜた。

 時間にして、ほんの二秒くらい。

 中身を見せるために、おわんを傾ける。

 中の玉子は、まだすっかり混ざっているわけではなく、黄身と白身のむらが残っているのが見える。

「このくらいで十分なの。なぜかっていうと、玉子に空気が混ざってると……」

 言いながら、フライパンをレンジに乗せて火をつける。

 フライパンが熱くなるまでの時間で、フライパンに油を引き、食器だなの上からおぼんを出してナツに渡す。

「しっかり混ぜちゃった玉子は、あとで別のお料理に使いましょ。こっちに分けておいて」

 言いながら、ナツが混ぜていたおわんを右手に取り、左手をフライパンの上にかざす。

「もういいかな?あ、そうだ!」

 左手でおはしを持ち、おわんの中の玉子をおはしの先につけて、一てきだけフライパンの上に垂らす。

 ジュウと音を立てて玉子はみるみる固まっていく。

「ついでに教えておくね。玉子を焼き始める前にフライパンは少し熱しておくの。十分熱くなってるかどうかは、慣れてくれば手をかざすだけで見当がつくようになるけど」

 そこで、ふいに空の手首をつかみ、ぐいと引っ張って、その手をフライパンの上20センチくらいの空中にかざす。

 空が半歩よろめく。

「空君、フライパンはもう準備OK?」

「え、そんなこと言われたってわかんないよ。フライパンから熱気が上がってくるのは感じるけど、準備OKかどうかなんて……」

 空はしどろもどろになって答える。

 フライパンから上がってくる熱気も感じるけれど、自分の手首を握っているえみの手の温かさも伝わってきて、自分の心臓がへたくそなダンスをおどりだしたことにも気づく。

 しかし、そんな空の心の動きになど、えみは目もくれていないように見える。

「そうよね。慣れてくるまでは、手をかざしただけではフライパンが準備OKかどうかなんて、判断できないよ。だから、そういう時には、さっきみたいに玉子をちょびっと垂らしてやるといいの。玉子がさっきみたいにすぐに固まれば、準備OKよ」

 空の手首を放して、左手でOKサインをして見せるえみ。

 空は真っ赤になって一歩下がる。

「さて、話を元にもどすわね」

 えみは、おわんの中の混ぜ過ぎた玉子をフライパンの中にそっと入れる。

 おわんの中身が半分ほどフライパンの上へ。

「さ、集まって。玉子の変化をよく見ていてね」

 自分は一歩下がり、レンジの前に三人を呼び寄せる。

 フライパンの上の玉子は、端から固まりはじめ、色が変わっていく。

 と、みるみるうちに、あちらこちらにあわができていく。

 それがはじけると、あなが開く。

 あなは、玉子焼き全体に広がっていく。

「玉子焼きにあわができて、あなだらけになったのは見えたよね。なっちゃん、あのあわの正体を説明できる?」

「正体?……あ、そっか!」

 ナツが指をパチンと鳴らす。

「さっき、玉子をしっかり混ぜることで、玉子に混ぜ込んだ空気だわ。それがフライパンの上で温まってふくらんであわになった。で、それだけでは収まり切らないで、さらにふくらんでいって、はじけた。結果、あながあいた。そうね?」

 うなずきながら、えみは両手を前に出す。

 それに気づいた空き缶コンビがレンジの前を空けると、そこに体を割りこませて、えみは左手でフライパンの取っ手を握る。

 右手には、フライ返しが握られている。

 三人がフライパンの上の玉子の変化に夢中になっている間に準備したのだろう。

「こんな風にあなだらけになった玉子をうまく丸めるのは、ちょっと骨よね」

 フライ返しを器用に使って玉子を丸めるが、玉子はあちこちで破れ、ちぎれて、その出来上がりはイマイチだ。

「こういう時って、どうするといいか知ってる?」

 いたずらっぽく笑いながら、えみが振り向く。

「わしなら、がまんして食べる、かのう」

「思い切って捨てちまう?」

「捨てちゃうなんてもったいないわ。私なら、そうだな……これを食べる予定だった人に気づかれる前に、つまみ食いで失敗の証拠を消しちゃうかな」

 三者三様の答えを聞きながら、えみは失敗作の玉子焼きを一口サイズに素早く切り分け、二枚の小皿に四切れずつ乗せる。

 それを調理台のすみっこに並べておいて、冷ぞう庫のドアポケットから取り出したのは、イチゴジャムとチューブ入りの和からし。

 その素早さたるや、冷ぞう庫の中を見ないで、手当たり次第に出したのではないかとかんぐりたくなるほど。

 それぞれを、ちょんちょんちょんちょんと玉子焼きに少しだけつけて、三人に差し出しながら言う。

「みんなの答えもまちがいじゃないと思うんだけど、ちょっと後ろ向きかなあ。少なくとも、私好みじゃないわ。だって、それじゃあ、失敗が次につながらないもの。あ、冷めないうちに召し上がれ」

「へえ、こんな食べ方もできるんじゃのう。ちっとも知らなんだ」

 寛はそんなことを言いながら、イチゴジャム付き玉子焼きと、和からし付き玉子焼きを口の中に放り込んだ。

 他の三人も、それに続く。

「む?これは、何て言うか……」

「イマイチおれの好みじゃないな」

「えみ、これ、何かを混ぜ忘れてるとか、そういうことはない?」

「なんで?」

「その……せっかく作ってもらって言いにくいんだけど、どっちも全然おいしくないんだもの」

「そうね。全然ダメだったわ」

「え!?」

「初めて試した組み合わせだったけど、これはないわ」

「げ!意外とおいしい組み合わせをごちそうしてくれたものとばっかり!」

 空が目をむくが、えみは少しも気にしていない様子。

 平気な顔で答えた。

「冷ぞう庫のドアポケットから手当たり次第に出した調味料が、実は案外おいしい組み合わせだった、なんてめったにあるわけないじゃない。世の中、それほど甘くないのよ」

「まさかとは思ったんじゃが、まじで手当たり次第だったんじゃな!?」

「そうよ。つかんだのがイチゴジャムだとわかった時は、さすがにやめとこうかと頭のすみっこで考えたけど、そこで出し直すのは私の流儀に反するし」

「ワラエーの流儀?」

「そう。私、料理で失敗した時は、こうやって無茶な組み合わせの実験をするチャンスだと受け止めることにしているの」

「それがえみの流儀?」

「そ。これが服部えみ流。実際、ほとんど失敗に終わるけど、ごくたまに、意外な組み合わせが見つかったり、考えても見なかった食べ方のもとになるひらめきが生まれたりするんだから。それにね、今日の実験だって、見方を変えれば成功してるんだよ」

「は?これのどこが成功だって言うんだ?」

 空はしかめっ面で反論する。

「だって、今回の実験で、めんつゆ味の玉子焼きに、イチゴジャムおよび和からしは合わない、ってことがはっきりしたじゃない。これって、ある意味実験成功じゃないかな?」

 あっけらかんと言い放つえみに、空が何か文句を言いかけるが、その言葉はついに口から出ては来ない。

 むにゃむにゃとごまかした空は、ぽつりとこぼす。

「まったく、お前にゃかなわないよ」

「なるほどね。これが、失敗を次につなげるための、えみ流の失敗との付き合い方なのね。えみって、ホントたくましい。うらやましくなるわ」

 ナツが、まぶしそうにえみを見やる。

 しかし、彼女の気持ちはすでに次の作業に向かっていて、その言葉にも視線にも、気づくことはなかった。


「さ、次はいよいよ玉子をフライパンで焼く段階よ。この段階では、まごまごしてると玉子焼きが真っ黒になっちゃうから、今まで以上に気合入れて料理していきましょ!」

 レンジの上で熱したフライパンに油を塗りながら、えみが気合を入れる。

 少々心配になった空が、えみの耳元に口を近づけてささやく。

「料理好きのワラエーが張り切る気持ちは分かるけどよ、おれ達が今日集まったのは、あくまでも天井裏のざしきわらしを何とかするためで、玉子焼きづくりはそのためのえさだってこと、忘れてないだろうな?」

 空の言葉に、小さく舌を出すえみ。

「いっけない!すっかり忘れてた」

「おいおい、頼むぜ」

 となりでながめていた寛も不安そうだ。

 そこに、いつの間にやら姿を消していたナツの声がかかる。

「とりあえずのしかけができたわ。見せておきたいんで、ちょっと奥のたたみの部屋に来てくれない?」

「はあい、ちょっと待ってね」

 レンジの火を消したえみは、エプロンを外し、ナツの声がした奥のたたみの部屋へ。

 空き缶コンビは顔を見合わせたあと同時にため息をついた。

 それでもえみの背中を追う。

 たたみ六枚の大きさのたたみの部屋は、夜には父さんと母さんの寝室になる。

 ふだんは、洋服ダンスと本だな、それに少し大きめの木の机が置いてある。

 昨日、玉子焼きが置かれていた机だ。

 それに加えて、今は入り口のすぐ右、本だなの前にいすが置いてある。

 いつもキッチンで使っているいすだ。

 そのいすの上に立って、ナツが何かごそごそしている。

 いっぱいに伸ばしたナツの両腕の先に目をやると、本だなの一番上の段にブックエンドが二つ置かれていて、その間に黒いタブレットが輪ゴムで固定されている。

 ナツがふだん使っているタブレットだ。

「よし、角度はこんなものかな」

 ナツはイスから下りてきて、たたみの部屋に集まったえみと空き缶コンビに目を向けた。

「あのタブレットのカメラでこの部屋の様子をとって、インターネットの動画を自由に公開できるサイトへ飛ばしてるの。ちょっと死角ができちゃうんだけど、そこはかんべんしてね。で、えみ、学校でも頼んだけど、あなたのタブレットも貸してちょうだい」

「OK。ちょっと待っててね」

 言いながら2階へ上がったえみは、すぐに戻ってきた。

 手には、起動画面が映っている銀色のタブレット。

 それを受け取ったナツは、ちょこちょこと操作しながら説明を付け加える。

「私のタブレットでとられたこの部屋の様子が、リアルタイムで公開されているの。こんな具合にね」

 ナツは手の中の銀色タブレットをくるりと反転させて、画面がみんなに見えるようにする。

 そこには、さっきナツが言ってた動画を自由に公開できるサイトが表示されていて、たたみの部屋で銀タブレットを中心に輪になっているえみ達四人の姿が映っている。

 あわてて寛が本だなの黒タブレットに目をやれば、画面の中の寛がこっちを向き、目が合った。

「お、もう生放送中なんだな」

 空の声は、ナツの手の中の銀タブレットからも聞こえてきて、空の生の声と重なる。

「そ。これをリビングで見張っておくってわけ」

 言いながら、ナツはたたみの部屋を出てリビングへ移動。

 彼女を追いかけるように、他の三人も移動。

 しかし、言うまでもないが、銀タブレットにはたたみの部屋の様子が映り続けている。

 四人がたたみの部屋から出ると、無人になったたたみの部屋の映像が淡々と続く。

 リビングに移動した四人は、銀タブレットをテーブルの上に置き、思い思いのいすに腰かける。

「で、えみが玉子焼きを作って、できあがった玉子焼きをたたみの部屋の机の上に置いたら、四人でこの画面を見張ってたらいいんだろ?」

 空があごで銀タブレットを指しながら、作戦を確認する。

「それはどうじゃろうかの?ざしきわらしが現れて、いざ作戦開始となったら人数が欲しい気がするけど、見張りの段階で、空兄ちゃんが言うように四人も人数が必要なんか?むだが多いような気がするのう」

 寛が言うのももっともである。

「私、途中から見張りに参加するんじゃなくて、ずっと玉子焼きを作り続けようかと思ってるんだけど……」

「どうして?」

 問い返すナツの方に向き直って、えみは説明する。

「ほら、玉子焼きって出来立ての時が一番いいにおいがするじゃない?冷めてくると、においも弱くなっていって。だから、着々と玉子焼きを焼き続けて、新しい玉子焼きが出来上がったら前の玉子焼きと入れ替えたらいいんじゃないかなって。そうすれば、いつも出来立ての玉子焼きが置かれているようになって、ざしきわらしが出てきやすくなるんじゃないかと思ったの。どうかな?」

「それはええアイディアじゃのう。確かに、出来立ての玉子焼きが一番ええにおいじゃわい。わしは賛成じゃ」

「ああ、それはそうだな。それに、見張りの目が一人や二人減ったとしても、特に問題はなさそうだ。おれも賛成に一票」

 空き缶コンビが次々と賛成の意思を表すと、今度はナツが口を開いた。

「だったら、私もキッチンで玉子焼きを焼く仕事を担当したいな。何かのはずみでえみに急用ができた時に、交代することができるようにしておくと安心だし……実は、玉子焼きを作るのが、何だか楽しくなっちゃって、もっと続きをやりたいってのが、一番の理由なんだけどね」

「あ、ナツもそうなのか?」

「ん?ってことは空兄ちゃんも?」

「ああ、料理なんてのには全然興味がなかったんだが、やってみると意外に面白いことが分かった。これからも続けるかどうかはわからんが、とりあえず、今日はもう少し続きをやってみたいってのが本心だな。寛、お前も似たような気分なんじゃないか?そういう顔してるぞ」

「ぎゃ、ばれとったか!料理なんてわしのがらじゃないのはわかっとるんじゃが、何だか面白うなってしもうてのう」

 やたらと顔をこすりながら答える寛は、何だか赤い顔をしている。

「じゃあさ、とりあえず私がコツを教えながら玉子焼きを作り続ける。で、残りの三人でうまいこと順番決めて、見張りと料理の役割分担をしたらいいんじゃない?」

「よし、ワラエーの案で決まりだな」

「うんうん、わしもそれでええと思う」

「じゃ、えみ先生、この先もコーチ、よろしくお願いします」

 ナツがおどけて、ひざをそろえて頭を下げる。

「ちょっと、急に何言いだすのよ。なっちゃん、かんべんしてよ」

 照れたえみがあわてて立ち上がるのを見て、みんながにぎやかに笑った。

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