パパからの手紙

優正へ、これはパパからの返事です。


お手紙ありがとう。

君は二十歳になりました。

パパは昨日、この手紙を見つけました。

七年前の一週間、君がこんなことを考えていたなんて、ちっとも知りませんでした。


君と同じ年のころ、いいえ、君が生まれてくるまでパパは、君と同じ気持ちでいました。

ずっとこう思っていました。

「何もできないなら、生きている意味なんてない」

実際、実の母親には何度もそう言われました。

父親も、口癖は「働かざる者食うべからず」でした。


ぼくは自分の生まれた家にいる間は、ご飯を食べるためにお風呂を洗ったり、ごみ捨てをしたりしないといけませんでした。

君には信じられないかもしれないけど、そういう家でした。

働かざる者食うべからず、何もしないならご飯はぬきだぞ、ってね。


ぼくはいつも不安でした。

息をしているだけなんて、ダメだ。

何かしなくっちゃ、何かできなくっちゃ、人よりすごいことができるわけじゃなくても、せめて何か、誰かの役に立たなくちゃ、ここにいちゃいけないんだ。

毎日そういう気持ちでいました。

病気になることや、事故に合うのを恐れていました。

もし、動けなくなったら、それでも生きていたら、誰か殺してくれるのかなって、考えたこともあります。


だけど、おばあちゃんが病気で動けなくなった時、認知症でぼくらのことを忘れてしまったとき、ベッドの上で、誰かに世話をしてもらえないと何もできなくなったとき。

つまり人として、具体的に誰かの役に立てるわけじゃなくなった時。

それでもぼくは、おばあちゃんに生きていて欲しいと、心から思いました。

パパは、自分自身がそう思えたことが、嬉しかった。

もちろん、おばあちゃん自身は辛かっただろうから、その部分では悲しかったけれど、おばあちゃんが教えてくれた『愛』が、まだ自分の心にちゃんとあったことを静かに喜びました。


君が生まれ、妹の夕夏が生まれ、ぼくは毎日精一杯パパをしていました。

決して万全の状態の毎日だったわけではありません。もしかすると君も気づいていたかもしれないね。

パパは会社ではあまり、仕事が出来るほうではありません。

だから余計に、余裕がなかった。

君にとっては、たよりにならない父親だったと思います。


おばあちゃんは、パパの実の母親ではありません。

もちろん、そうです。ママのママだから。

でもね、血は繋がってなくても、パパにとって、本当の母親でした。

これから少し、長い話を書きます。


君が小さかったとき、パパとママがまだ親になりたてのとき、おばあちゃんはいつも助けてくれました。

子育ての先輩で、もうほんとにスーパーマンみたいでした。

そして、ママに似ていました。

困ったときにかけてくれる言葉、表情。

よく似ていました。


パパはね、君が生まれたことは嬉しかったけど、子育てをする自信がなかった。

だって、生まれてきたことしかなかったから。

気づいたら、生きてた、そういうわけなんだから。

何かが生まれてきて、あ、息をはじめた、なんてそんなこと、三十年生きてきてあの時がはじめてでした。

おっかなびっくりの子育てで、ほとんど何もできなかった。

子どもが成長すると、してやらなければならないことが増えるのに、ぼくの中ではできないことと、不安な気持ちが毎日増えていった。

時々、自分が情けなくてお風呂で泣きました。本当だよ。


ある日、とうとう、君の前で泣いてしまいました。

夜なのに、君がなかなか眠らなかったんです。

どんなにあやしても眠らなかった、わんわん泣いていた。

ママは台所で洗い物をしていました。


あの日のこと、覚えてます。

仕事は忙しいし、後輩はミスばっかりするし、ミスさせてるのは自分かもしれないし。

まず、メンタルが最悪でした。

家に帰ってきたら家事はママがほとんど終わらせていたし、せめて子どもの寝かしつけくらいやろうと思うのに、君は寝ない。

もう、最悪の最低のどん底の気分だった。

気持ちばかりが焦って結局なんにも出来ずにいる。

そういう自分が嫌だった。

無駄な時間を過ごしている。

人はそういう目で見ている。

そして何より、自分自身がそう思っていました。何も出来ない人間が、無駄な時間を過ごしている。

何も出来ない。

何も出来ないのに生きてる意味なんかない、そう思った。

ぼくは何も出来ない。

ぼくはぼくを許せなかった。


でもおばあちゃんは言ったのです。

暗がりで、君を抱いて泣くぼくを見つけて、にっこり笑いました。

ママによく似た表情と声で、でもあれは、とっても大きな声だったな。

「あんたはエライ! 生きとるだけでエライ、生まれてきただけで、たいしたもんだ!」

唐突に、そう言いました。

君が生まれて半年ほど。

梅雨入りしたばかりのころでした。


おばあちゃんは君の頬をつつきました。

おでこを撫で、少ない髪をすき、ぽんぽんってすると、あっと言う間に君を落ち着かせた。

「生まれてきてくれてありがとう、ほら、この子に言ってみな」

ぼくは、おばあちゃんに言われ、あらためて君を見ました。

いつの間にか、ママも部屋にいました。

しーんと、していました。君は泣くのをやめて、ぼくを見ていた。

それで、言いました。

「生まれてきてくれて、ありがと……」

君は不思議そう、だったかな?

なんにせよ、温かかった。


もう一回言いました。

「生まれてきてくれて、ありがとう」

ぼくは、泣きました。

ママが、ぼくと君をいっしょに抱きしめてくれました。


あの時はじめて分かったけど、人は何も出来なくてもいいのです。

ただ息をしているだけで、誰かを幸せにできることもあるのです。

少なくとも君は、君の存在は、家族というものは、ぼくの心をあたたかくしました。


生まれてきてくれて、ありがとう。

ぼくは君に、心から言いました。

ぼくはまた、きっとぼくの母親も、小さなぼくにそう言ってくれただろうと思いました。

ヒステリックな人で、ひどいことを言われた記憶ばかりあるけれど、きっと今日のぼくみたいに、生まれてきたこどもに心からのありがとうを言ったことが、一回くらいはあるだろうと思ったのです。

それは、ただの直感だけど。

そうあってほしいという、願いでもあったけれど。


ぼくは女の人に抱く『恋愛感情』とは違う、『愛』という感情とはじめて出会いました。

君が扉でした。

それは扉を開けば、そこにあるものでした。

愛はどこにも行きません。

愛は、こちらから手を伸ばせば、必ず手に入るものです。

扉の中にあるのは、自分自身の心だからです。


『愛』を、ぼくは君のおばあちゃんに教えてもらいました。

あの日から、おばあちゃんはパパにとっても本当のお母さんになりました。

ぼくらは家族になったんです。

君が生まれてきたことで、ぼくの未来は、ぼくらの未来になったんです。

何が出来ようが、何も出来なかろうが、関係ありません。

ぼくらは愛し、愛されているのです、必ず、かならずです。


おばあちゃんの延命治療をやめたことが、君に、君の命を軽く思わせてしまったのでしょうか。

もしそれが君の心に傷をつけ、愛に疑いを持たせる原因となっているのなら、ぼくらは取り返しのつかないことをしたと思います。

パパとママの出した結論が、君を傷つけていたのなら。


あの時、ぼくらはもっと説明をするべきでした。

十三歳の君をこどもだと思わず、なぜおばあちゃんの延命治療をやめるのか、ちゃんと話をするべきでした。

本当に、すまないことをしたと思っています。


あのころ、パパとママは、お医者さんに言われました。

「心臓はまだ動いていますから、息はしています。しかしそれだけです」

闘病の末、とうとうおばあちゃんの意識がもどらなくなった時です。

もうおばあちゃんが目覚めて、何かしたり、考えたりすることはないと言われました。

物を食べて喜ぶこともなく、誰かに会いたいと思うこともなく、何かをしたいと願うこともない。

ただ喉に管を通して栄養をおくり、心臓が止まるまでベッドに寝かせておく。

生かしておく。

迷いました。

パパとママは何度も話し合いました。

延命治療をやめたら、ぼくらはおばあちゃんを『殺してしまう』のではないか。

でも『生きる』ことの出来ないものを生かしておくのは、当人の望まないことなのではないか。

おばあちゃんの気持ちになってみれば『延命しない』ことが、より本人の希望に合うのではないか。


信じて欲しい。

ぼくらはおばあちゃんを愛していました。

だからこそ、決断を下しました。

おばあちゃんの気持ちになって、ぼくらはそれを、ぼくらの最後の『愛』の表現だと信じて、決断したのです。

ママがあれだけ泣いていたのには、そういう背景があるのです。

本当に辛い決断だったのです。


考えてください。

君の心で、考えてください。

『死なないこと』は『生きていること』ですか?

ぼくはそう思いません。

ママもそう思いませんでした。

何も出来ないことを責めているのではありません。生産性のないことが無駄だ、なんて定義は、おろかな社会のつくった誤った価値観です。

人は、生産するために生まれてくるんじゃない。生きて、愛して、愛されて、喜びを感じ、悲しみを乗り越え、今日より一歩前へ進むために生まれてくるのです。

喜びや、悲しみを感じられないこと、明日への一歩を踏み出せないこと、人としての営みが続かないこと、そういうことを、ぼくらは話し合いました。

『おばあちゃんは生きているのか』という問いは、そのままぼくらの人生に当てはまります。他人事で、お金や時間や労力の問題で話し合ったのではありません。

パパとママは、あの時、自分自身のこととしてその答えを探したのです。 


もし、あの時のおばあちゃんに意識のもどる可能性があれば、例え身体が動かなくても、話が通じなくても、ぼくらはおばあちゃんといっしょに生きていたでしょう。

もし、おばあちゃんが本当の意味で『生きて』いるのであれば。


これはとても難しい問題で、きっと頭や言葉では解決しないことです。

君が君の人生を通して、心と向き合って出す答えになるでしょう。

信じて欲しいのは、ぼくたちは、パパとママは『何もできない』ことを責めたり、悲しんだりはしていません。

伝えられないことを伝えたいので、これはお願いになります。

信じて欲しい。ぼくらは君や夕夏と同じように、自分自身と同じように、おばあちゃんを愛していたのです。

『生きて』いて欲しかったのです。



大切な優正へ。

君が君を殺そうとしたこと、パパは許せません。

君の目が覚めたら、伝えるべきことがあります。

そして、しっかりと抱きしめなければいけません。


優正、君の命は君のものじゃない。

ぼくらのものです。

君と、君を愛する人のものです。

君が死ぬと、悲しみを感じる全ての人のものなのです。

誰もの命がそうです。

誰もに誰かの家族がいて、友人がいて、ひとりきりの人間などいません。

例えきみ自身がそう感じていても、それは真実ではない。

真実、ぼくは君を愛し、大切に思っているのですから。

だから、ぼくは、君を殺そうとした君を許せません。

そういう君に『愛』の扉を見つけてあげられなかった、教えてあげられなかった、自分自身が許せない。


君が君を殺そうとした時に、その動機を与えた者、知識を伝えた者、予兆に気づいたのに手を差し伸べなかった者。

君の苦しみに気づかなかったぼく。

自分を傷つけるのを止められなかった君自身。

人の生を、生産性と効率でしか語れない社会。

なんとなく、怖いと感じる未来。

全てが君の殺人犯です。


これは君の責任ではなく、ぼくらの責任です。

君の命は、君を大切に思うすべての人間の手で守るべきもののはずだから。

ねぇ優正。

ぼくは父になっても無力です。心も時々弱ります。

無力で心弱いぼくらは、ともに手を取り合って生きるとき、はじめて強くなれるのではないでしょうか。

そうであればいいなと、ぼくは願っています。


君が目覚めたら『生きる』ということを真摯に考えて欲しい。

愛を知れば、安心があれば、どんな状況の、どのような状態の人にも『生きる』ことができます。

人はご飯があっても生きられません。

楽しみだけがあっても生きられません。

何でもできる万能の天才でも、すごい力をもったヒーローでも、それだけでは『生きる』ことはできません。

『愛』を知ることが『生きる』ために唯一絶対に必要なことです。

君の中に『愛』があり、そこに喜びや、悲しみがあります。それを見つけることで、人は『生きて』ゆけます。


君が目覚めたら、この手紙を読んで欲しい。

そして扉を見つけ、開いてほしい。

『愛』は君の中にあります。

『扉』はここにあります。


目覚めた君が、生きていけますように。

愛しています。


パパからの手紙、おわり。

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死んじゃったぼくからの手紙 Saaara @Saaara

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