# 22
この頃、勤務時間が終わると、ついLINEを開いてしまう。落ち込んだときや嫌なことがあったとき、つい大貴くんに寄りかかりたくなってしまう。
顔が見えないからこそ、気楽に何でも言えるのかもしれない。彼は、大変な仕事や、舞台のプレッシャーからの、唯一と言っていい逃げ場だった。
4つも歳下なのに、志波ちゃんの弟なのに、どうかしてると思う。
ただ、今以上に親密になるのは、なぜだか気が引ける。
◆
勤務時間が終わり、バックヤードで鞄の中に手を入れてスマホの通知を確認する。
《楠アキラの舞台、チケットゲットー。一緒に行こっ》
胸がザワザワとした。どうしよう。
とりあえず、何て返すかは後でゆっくり決めよう。まだ店長も事務所にいるし、私も発注が残ってる。
けれど、発注なんか全然集中できなかった。大丈夫だったかな。いつもの手順通りやったけど、一つくらいどこかおかしいところがあったかもしれない。
駅のホームで、改めてLINEを開く。どう返すかは、駅までの道で決めておいた。
《お姉ちゃんと行きなよ。私より大ファンだぞっ(笑)》
これでいい。そう思ったところ、すぐに返信が来た。
《チケット、木曜の昼間だもん。姉貴は週末に行くって》
そうだったか。
ってか、木曜って、私ちょうど休みだわ。もしかして、この間「最近木曜ばっか休みで木曜定休の歯医者に行けない」って話したのを覚えてたのかしら。
《皐月さん、木曜日休みでしょ? 行きましょー》
ああ、やっぱり。どうしよう。
《俺もその日、バイト休みだし。もちろん授業もないし》
ずるい。大貴くんは、ちゃんと、誘いに乗ってもおかしくない理由を用意してくれている。
《そうね。楠アキラ好きだし》
◆
どうしよう。2人で遊びに行くのも、2回目か。
大貴くんはどこまで本気なのだろうか。もし、ないとは思うけど、もしも、付き合ってほしいなんて言われたら、どうしよう。
今のままでいてほしいのに。なんて、勝手だよな。
多分、これはあまり、健全な関係じゃないんだろう。
◆
木曜日。天気予報のアプリでは降水確率30%だけど、どんよりとした雲が広がる。
「傘持ったの?」
玄関で母が聞く。持っているのが当たり前のような言い方だ。
「いいよ。予報曇りだったし」
「持ってきなって。こんなに外暗いんだから」
「いいってば!」
私は声を荒くした。
母はびっくりしたように黙ったが、「濡れて風邪引いても知らないからね」と吐き捨てた。
ちょっと子どもっぽかったかな。でも子どもみたいに言い返したことなんて、そんなになかったんだもん。だからこれでいいや。
すっきりとした気持ちで、家を出た。
◆
楠アキラの舞台、というわりに彼の出番は少なかった。内容もどこかで見たような作りだった。
煙草臭い喫茶店で、なかなか来ないコーヒーを待ちながら、チケット代を出してもらった舞台の感想をどこまで率直に話していいものか迷う。
「最後、下手側にいた役者さんがさー」
「待って、下手ってどっちですか?」
「えっと、下手ってのはー……」
うーん、やっぱり志波ちゃんと話すときみたいにマニアックな話はできないかあ。けど、まさか上手下手も分からないとは。
やっと来たコーヒーに、大貴くんはミルクも砂糖も入れずに口をつけた。私は、白い陶器に入ったミルクを注ぎながら、ここで私が目一杯ミルク入れたら大人気ないかしら、なんて思った。
しばらくの間、大貴くんが話を続け、私が笑顔で相槌を打っていた。大学のテニスサークルの話、友だちと旅行に行った話、バイト先の恋愛事情……
隣のテーブルでは、若い男性2人が、テレビの俳優さんがどうとか話をしている。
しばらくして、隣に座っていた2人が席を立つと、ふっとその場が静かになった。私は、もうほとんど中身が残ってないカップに口をつける。
「ねえ、皐月さん、考えてくれました?」
私はカップをソーサーに戻した。一瞬考えて、明るい声を出した。
「稽古なら、おかげさまで順調だよ」
「そうじゃなくて」
カップを持つ手に、大貴くんが触れる。
「分かってるでしょ。俺のことですよ」
どうしよう。胸がザワザワする。少し迷った後、訊いた。
「……本気なの?」
「本気ですよ」
真剣な顔で、大貴くんは答える。私はカップから手を離す。
大貴くんは行き場のない左手で頭の後ろを掻いた。
「うーん……やっぱ、第一印象よくなかったかなあ。あの日は本当たまたまで、俺、皐月さんが思ってるほど遊んでないですよ?」
本当かどうか分からないけど、本当だとしたらそれはそれで困る。
「俺、皐月さんのこと、本気で想ってます。もう、ほっとけないです」
大貴くんは、まっすぐに私を見た。まっすぐすぎるその目に、心が疼いた。
もしも付き合ったら、きっと、それなりに楽しいんだろうなあ。
でも、いつかきっと、付き合わなければよかったって思うんだろうな。本当は、ずっと、LINE友だちのままでいられたらよかったのに。
でも、ここまで来てしまったら、もう、そうもいかないんだろうね。
「大貴くん、私は、年齢的なことも考えると、そんな単純でもないのよ。ただ楽しいだけで恋愛できる歳じゃないの。こんなお姉さんと将来を約束して、数年後には所帯持ってるとか、考えられないでしょ?」
「ずるいですよ。今時、26なんてまだ若いじゃないですか」
「とにかく、大貴くんはまだ若いんだから。もっといい人がいるって。ね、もう出よ? 他にお客さんいるし、恥ずかしいよ」
「嫌です。その理由じゃ納得できません。俺のことが嫌ならともかく、また自分はふさわしくないとか思ってるんだったら、俺は絶対に納得しません」
さっきよりもずっと、胸がザワついた。どうしよう。その言葉に甘えてしまいたくなる衝動に駆られる。
こんなことなら、今日、来なければよかった。
あ。
そう思っちゃうってことは、そういうことなんだな。
一人で妙に納得がいった。
「もう、なにカッコつけたこと言ってるの。出るよ」
私は笑って、伝票を手に取った。
◆
最寄り駅に着いたときには、ポツポツと雨が降っていた。
予想外の雨に、傘をさしている人は少ない。けど、「風邪引いても知らないからね」という言葉が、呪いのように頭に浮かんだ。
コンビニに寄って、折りたたみ傘を買った。ついでに、珍しく缶チューハイも一緒に。
家に帰ると、部屋のドアを閉め、静かにプルタブを開ける。
ああ。これでもう、大貴くんとLINEしたりできないのか。我ながら惜しいことをした。心はもう、持っていかれてた。
でも、価値観が違いすぎる。大貴くんみたいな、生きてるのが楽しそうな人と付き合っても、自分が惨めになるだけだ。
それに、4歳の歳の差に、志波ちゃんとの関係。自分の年齢と将来。
それに、それに――何よりも、“逃げ場”が“居場所”になる恐怖に、耐えられなかったのだ。
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